問題解消のために


空間視野的に視る・イメージング

2016-04-22:
一度だけ中心にコバルトブルーの光ったような形。

2016-04-28:
ある直方体の角にみたように人工的な囲い塀のようなものがみえた。わたしはそれに対してそれ自体のイメージを操作してその面をその上に左右に伸ばした。

{ 私が‘ 夢 ’にお尋ねするなどは未だ不自由だ。たとえば食事が義務的なら食べないが良いというわけで、わたしがわたしの夢に他人みたようなキャラクター性を認めるような必要性も一切無い。〔 肉体の維持に必要なものは義務的な励行である方がまだきれいだという意見もあるが 〕。
・仮に‘ 夢 ’にキャラクター性を認めるとすれば‘ 神様 ’‘ 先生 ’の方がずっと良い。
私がすべてに目的的であれば依存的逃避の余地は無い。}

2016-05-01:
わたしは今良心的にわたしの両手をみている。わたしが見つめにくかったのはわたしの中心だった。わたしはこの何日間かまた六面体キューブをできなくなった。より論理的な整-面のために数学的解析として書かれてあるような本も借りてはみたが、わたしは数式の類いにはまったく対応できなかった。

わたしは新サイト・デザインの参考に既存の絵本などの表面に面白いものがあればケータイに撮りためたりしてはいたが、録画するだけの子はなにも自主的に描かなかった。

2016-04-30:

わたしは今日の予定通りには乗らなかった。睡眠時間といっても体をひんやりとしたばかりで充足感は無かった。午後の時間が足りず〔 不意に風邪気味だった。今1日の1時過ぎにわたしはこれを書いているが頭痛があり両眼鏡の焦点が合わない 〕、爽快さとは無縁だった。しかし今日わたしが通る道にはもういやがらせは無かった。わたしが誰かの反抗心や売り言葉とみなしたのは、わたし自身の気掛かり故だった。
夕暮れの少し後、漸くわたしのおはなし側が‘ 夢見の実践 ’と言い始めた。わたしがわたし自身への対立障害をやめた。

わたしは自転車でいくときに視野の下半分以下に配慮する慣習なので、同時に視野の半分高さよりも上に注視するということが無かった。わたしは憶い起こした。カルロス・カスタネダの本にも師匠の教えとしておまえの視野の周辺で視るんだというような台詞があった( 真崎さんの翻訳は日本人向けの簡略化文体だったとわたしは思うので、それらの台詞などもカスタネダ氏の言い回しに忠実かどうかは英語原文を読まなければわからない。)[ :“ 能動的想像と明晰夢 ”meisekiyumeminogihouというサイトに引用文等掲載あり。 ]
今わたしはCS放送にホームランド1広告放映を視ながら書いているが、風邪頭痛か眼鏡視力が合わないという状態がこの感覚に作用しているのか( それ以前にホームランドが良くないから拒否的反応がある? )、ちょうどテレビ画面とその直前の空間視野的に同時に視ているかのようで、意識的な点が久しぶりにある。これは一種の心理的作用だろう。
わたしはもう4年程ビールなどを飲んでいない( 昨日ちょうどわたしの用事でいつものルートと大通り付近に自転車移動していると広場の集会場にベルギービール・フェスタと書かれてあった。わたしは人出や集まりを気にしなかった。もうグループ的ないやがらせの用も無かった )、昔アルコールを含んだときのわたしの頭を働かしにくいようなあの状態が想い出された。

わたしはねむらない

2016-05-05:
わたしはねむりに対して否定的のように、イメージ自体にも‘ わたし ’とは言わない。凡そ連想的に‘ 想い浮かぶ ’ものはわたしには無意味だ。

今朝のうちに、窓枠木製の桟みたいに縦横に合わされたような形の内角ひとつに暗い隙間があった。それは‘ 猫の目 ’だ。

しかしわたしはわたしが依拠するもの自体という望み方はできない。それはあたかも異性というものにわたしの体を預けてしまうのと同じ事だからだ。わたしは事件を誘いはしない。“ だれ? ”という呼びつけにもしなかった。

わたしはまたわたしの心に緊張をもたらそうとしている。

視界のものを集める

2016-06-26:
私は‘ 視界のものをみる ’から‘( 私自身のために )集める ’と再定義してみた。なるほど対象拒否的であるよりはこの方が易いようである。夜が戻ってきた。

連日雨に濡れたようで自転車は錆びかけている。午前0時前にN城付近の水辺にソリッドブラックのような水面をきれいにみようとした( あのホテルのラウンジ外側には蛙などがゲコゲコ鳴いていた )。何度か視ようとしたが、パシャンと跳ねるものの正体はわからなかった。Nエキ付近を通過して広小路、Sマチから41号線。

その帰り道の途中に、( ある見覚えある )婦人のその両手に箒を持っていてなにか掃きかけているというほんの一瞬静止画のようなイメージがあった。その直後夜の歩道上からの光景に( 先の映像は無かったが )その婦人を実際に目にしたときの私の側の印象だけがあった。
私は以前家の居間で父の横にそのような純粋な私の父の( 視覚的ではない )印象があったのをふしぎだったと当時の私の記録に書いた - イメージノート( 旧 )

雨に歩く、偶然
2016-06-25:

昨日雨に歩いて帰り道に、男子グループがまたなにか言いたがっていたが、私は無視して受けなかった。
常識的に見れば他人と言わないような態度の本質はたぶん劣等感だが、私は直観的にかれらの女の子側が低いから‘ 先生 ’といえる者がいないのだと言った。私を安っぽく言うような者たち全員が人間像をかれら自身のそれらと絶対に間違っている。例えば‘ 母親像 ’に障害があるなら、もっと理想的な女性像が無ければ将来の男性自立にも問題があると私は思う。
一方、私の通り道にも最近少しずつ‘すいません’と声に出して言うような女子中学生もいる。私には街路は他人の問題というだけなので、私自身の自由自在は壊されない。
そうして昨日午後には一部の少年たちが退屈そうだったが、今日午後にはまるですべてが偶然出揃った日のようにジャストタイミングだった。

問題の原因 〔 生殖本能-転換点 〕

2016-08-09:
今日もどこにも行き付けなかった。
私は“ リーシュ ”という言葉を使うと“ 犬つなぎ ”という意味を連想するので言わなかった。‘ 彼女 ’の色合いがあったらと、手芸材料等のお店でカラー別の糸などを眺めてみた。目にはっとするような鮮烈な青白紫のような‘ 彼女 ’ちょうどの色合いは無かった。もっと中間色のサンプルか自家染色の方法が必要だろうが、どちらにしても私は今日“ 秋の臨時福祉給付金( 3000円 )”申請用紙を送付した処で、それすらも難しい。

ローリング・ストーンズ70年風“ 野生の馬たち( Wild Horses )”のコーラスを聴きながら、また想われるようなことあり。

2016-08-10:
左足に巻き寄せのためのテーピングが必要かもと思い簡単に図解本をみようとしたが、私は最近なるべく両膝を意識的に寄せてペダル等を踏むように走るので肉体への余分な負担は以前よりも軽減されているようだ、走るときの体勢制御に拠り、上体に通じ易いようにコントロールできる。
帰着後少し寝たら、ようやく左足が楽に伸ばせた。うんどうは局部刺激のためではないので、意図と活性をするには効果的だろう。むしろ無駄なものを食べたり飲んだりしない方が身体には健康的だという、こころの意見。

2016-09-01:

私にとって長らく面倒だった婦人たちの‘ おはなし写し ’はこの何日間かのあいだにひとつひとつ解消されつつある。私が意識的に‘ ミルク要求 ’をやめて私側の正当性を逸しないように気を付けているからだ。

私今日はもっと私の両足自体を漕いでみよう。

朝方から昼、睡眠夢の度に‘ 次には私を取り戻そう ’と意識にした。しかし後追い意識では成功できないのはこの何年かの試しに拠りはっきりしている。私は今また1として先ずすべてに私-意図的にみよう。

2016-09-03:
自転車ナイトツアー再度。街なかにはどうしても人がいるという私自身の関係性が消えないからか、意図しようとしてみても、‘ 今の夢見 ’とするのには案外難しい。右にN観光ホテルをみながら信号待ちしたときには漸く‘ これは夢だ ’と思った。しかし私が‘ 視ていた ’のは“ そこ ”ではなく私自身だった筈だ。このようなひとり現在には若いうちにはすべてを私物化できるような者のほうが楽かもしれないが、孤独が優秀であることはありがたい。

2016-06-14:
昨日記したように私は‘ 生殖本能のもんだいを見分けよう ’としたが、そこには私自身の問題としてのそれがあったわけだ。しかし、もし私がこれらのもんだいを外部原因だとみなしたら、私自身のドライヴァーが関与していないということで、私は関知できない。
‘ 夢み ’には却ってこれらがすべて私のマスターキーであると自体認識され得る方が( 自身として )扱われ易い。

今夕22号線( 名城公園西 )を通って伏見付近から若宮ルートで行ってみようとした。懐かしい西区の匂いがする。地図通りの道を一致できず間違えたようで、庄内通から真っ直ぐに南下した。伏見駅近辺ビジネス街の歩道上には白シャツ姿の会社員風の男性たちの中にいつもなにか私に変な顔をするものがある。きげんわるいのか、私がなにか‘ ふせんへいわ ’や‘ 自転車通行安全 ’貼り紙をも変なフォースとして使おうとしているのだときけん視されている( 自身 )だろうか?ふしぎなことだ。

2016-06-13:
私には体が‘ 出来つつある ’ときには‘ 暗い現象 ’は起こらない。私には肉体は神秘的領域とは関係できない。これはその本質をあきらかにしている。それは生殖に乗っているからだ。若し生殖本能と私とを混-昏として不分明の問題にして替えてしまえば、、‘ 私 ’はその中でねむっているだろう。
私が私に拠って肉体的問題を克服( 修理 )できれば、ここには偶像崇拝の問題が無い。取り敢えずとも不満足が無ければ殊更に幻想を利用する必要は無いからだ。
同時に、私は私に扱えない筈のものを未だ扱おうとするような、‘ 問い ’の原因を、見分けていなければならない。〔 なにかとの問題化はそれ自身だった 〕。

両足膝が痛みかけている。昨晩夜道にペダルを漕ぎ過ぎたとは思わないが。9時から11時までもうひと回りした。
私は忘れていた。

2016-05-24:
以前の(わたしの日常態度)反省:
わたしがこれらを書きだしてから一度も‘ 明晰夢 ’成功例が無い。かつての‘ 夢見の実践 ’時の割合にうまくいっていた頃のわたし自身の傾向として見ると、わたしは仮に幾つかの(親たちのような)キャラクター等を日常に認めてはいた。アルバイト場所やわたしの記事作業にも比較的閑散としてわたしの一方に能動的に作用でき得るような(後のわたし自身よりも神-的な)印象の方が良かったようである。しかしもそれらはわたしの進退に直接関わってはいなかった。
99年当時にはわたしは未だCGクリエイター・イメージ作家であることをあきらめてはいなかったし、異性交遊への作りごともあった。欲やそのこどもであるのを否定しなければ女神のように現れるというわけだ。だから分析的な人にはそれは現れないとは言っても、そこにはより実験的な研究の余地は残されていた。

‘ 性 ’移行と偶然

2016-06-16:
ある‘ 女性 ’イメージに移行するということは、実際にはなんの外的関係ではないし、偶然以外の要素は無い。
( もし外界的に待ち受けと異性という要素が同時にあれば私は美しいと言っただろうが、もし反対におふざけ顔があったとしたら私は以前のようにノ!と言っただろう。

アメリカのよくある事件ものTVドラマがお話と無関係にルックス重視だったのと同様、ある職種・業務と外観との関わりが不明であるような場合にはそれ自体アピールとみなされる。同時に彼女にも業務との問題があるだろう。それらにも容易に移行できるようなものが“ 常連視聴者 ”だというわけだ。

けれども、どんなに美味しそうな‘ 食物 ’も、それ自身にはなれない。性的なロマンスは失敗する( 絶対に彼女は手に入らない )。
しかし私は却って性的アピールの薄い印象によろこんだ。必ずしも肉欲が外的現象や魅惑に左右するわけではない。特に肉体的本能に乗らなければ人物評価では埋没して面白味にならないという場合には力が必要であろう。私はそのパワーの原理から徐々に離れている。決して自身に駆逐やフォースを使ってはならないし、もし外界的に異性に対する圧力を覚えたら決してその‘ 範囲内 ’に安易に踏み込んではいけない )。
無論にも、自然体との問題と言って、ここには根本的に‘ ひとつであれたら ’といっている。
そして私は今回この移行に対するというよりは、この‘ 女性 ’に‘ 良い男性 ’を宛がうわけである。私にはこれは一定の収拾手順であるように思われる。これを試そうとした処、私は( 閉じた )視界にまた動きが起こるのをみた。

私が‘ 青いケープの婦人 ’像をみたのは昨年午後だった。ユング風に言えば、女性的原理である“ アニマ ”は通常目に映るようには見えない。しかし、それが一定の異性に対してこちらのイメージと関連させられているなら、これまでの私の経過から言えば、その形では夢みには現れない。私がみたものは‘ 動き ’の象徴的関連( 淡いイエローの内側面 )であってその偶像やそれへの気配ではないからだ。

晩の雨の止んだ頃合いにまた自転車‘ しぼうじこ ’貼り紙ライトアップでひと回りした。41号線沿いに高岳(たかおか)の交差点付近まで南下、そこからまた19号線沿いに戻った。

彼女(1)- 要素^の充足 :2016-06-28,

彼女(1)- 要素^の充足

私は私自身の苦痛と言うことにした。
まるで立派な長い白い素足に赤いストラップ付きの小さな靴を履いたような、その不似合いな印象だった。
私には薄紫一色の掛け標札が並べられた数のようにお約束がみえる。

私は今日一杯だけ‘ 彼女 ’を飲んだ。それで彼女は先程少しだけタフなもの言いをした。

2016-06-29: 他動と主動
‘ 女性 ’を立てるという論理的行為により、夢見そのものが難しくなる。これでは目的が‘ 彼女 ’だからだ。映像化された夢に於いてはその像を目前に置いてみたり賛辞を述べたりすることだった。

2016-06-28:
体を伸びやかに、活かせる。眼鏡を外したら急に体の背が伸びたような感覚だった。‘ 彼女 ’との混合は既に望みではない。もう秋-波は必要無い。彼女というイメージはもう‘ マン ’のように逞しくなっていた。
単に私自身の中で発達し得る要素を充足するということなら、私は私自身を現実に変えることもできる。

2016-06-26:
未だどうしてか右往左往しているかのようだ。私自身の‘ 内部的結託 ’には見えないタームがあり、その原因は適切に辿られなければいけない。

彼女(2)- 対象と量感
‘ 彼女 ’があったからなのか、昨日ちょっと若いめの男子が不意に寄ってきそうな場面が数回あってびっくりした。
男の子たちグループにも変な気配があったようだ、一々貼り紙を気にしてなにか言う振りがある。これが私が‘ 彼女 ’をつくるということと直に関連しているかどうかは未だわからない。もし私の心理的作業を問題にするのでないなら、一体なにを気にしたのかと彼らに直に聞く方が早い。私のおはなしではその男の子たちに関しては‘ こちらに嫡子をつくればいい ’と言ったのだが、論理的に正しいかどうかはわからない。
フロイトの論稿“ 欲動と欲動運命 ”を読んで言えば、( 例えばサディズムと比較されて、視ることの能動性が視られることの受動性よりも先の段階だと書かれてあるが )‘ アピールする者 ’は必ず観客を必要とするには違いない。“ 視る欲動はその活動のはじまりに当たっては自体性愛的であって、それは確かに一つの対象を有していて、対象として自分の身体が見出されているのである ”。

たとえば前回私は‘ 彼女を飲む ’という言い方をしたが、これは同時に‘ 与える ’ことでもある。私は私自身にサイクルしている。私は昔“ 気を採り入れる ”というのをやってみようとした。あたかも量感のあるものを自身の体に扱うとする。これは次第に身体感覚に‘ 気 ’として感じられるようになる。

私が‘ 彼女 ’を飲むことは一種の行使であるが、‘ 気 ’が身体に感じられるものとなりうるのと同じく、儀式的交換( 交感 )の動機となりうる。
しかし私が前回‘ 彼女目的では夢見が難しくなる ’と書いたのは、これが主に‘ 身体的作業・発現 ’と不可分であるからこれを完全に休息状態に戻すことはすべての休止だ、という条件的推理もある。

2016-07-03:
私がここにいるように、私は再統合できると思う。私はもっと投げやりにならずに、また出来るだろう。
ここには一定の充溢・充足が必要であったと? そうかもしれない。しかし、独り言や束縛自体の環境問題として自身を語るのは楽しくない。

午後夕方、ラシック地下で鉄製の椅子に座って休憩しながら雨上がりまで様子をみていた。おはなしに‘ 1915分 ’と聞いたので私はそこでナボコフのロリータ原著など読む振りをしながらガラス仕切りの向こうに街路の人影などの傘差し比率を見ていた。屋内通路反対側の木製ベンチに婦人ひとりが掛けて少し私の方を視ていたようだ。その人がなんと1915分ぴったりに立ち上がり当然のように街路への階段を上がって行った。私は‘ さては聞いたのかな ’と思ったが、私が目視した処では実際に雨が切れたのは18分だった。

今夜も名城沿いから名駅、広小路で栄町という簡易の通常ルート内で約2時間。両ペダルを漕ぐこの足と夢みとを感覚的一致させよう。もっと実在感を高めなければ、私は死ぬ。若いときのようにある程度自由な先頭速度が必要だけれども。
途中ちょっとまた若返りのときの常でルイかレスタトかと古い映画のことなど連想があり、忘れていた。

きゅうりのひとかじり、食べるときに私は‘ わたしの足がもっと伸びますように ’といった。

彼女(4)- イメージ反復

2016-07-02:
‘ お腹の中心でみる ’とこころみていた。
13:47頃,普通に両目を閉じて寝ていると、ストレートヘアー分けの( 癖の無い )きれいな若い日本女性っぽい顔。

昨日の彼女(3)での‘ 変形印象 ’に関して、私のおはなしの中に心当たりがあった。‘ 館を作れるひとなのに“ 館内 ”と言おうとする ’。私がひしゃげている。

今日の曲は“ 白い恋人たち ”だった。わたしは一度も“ グルノーブルのなんとか ”視ていないが、3才児頃に家のレコード盤で聴いたもののひとつだと思うので、古い好みみたいになにか記憶的に反復したのかな、と。
好みと言えば、私は最近何度か白いスポーツ用アンダーウェアーに浅黒い膚の小柄な女( 黒髪はいつも頭頂近い後ろに束ねられていてややセクシー )のイメージをみた。どうしてか正面向きでなく背姿で、あの少し暗い顔から見返しているような眼の印象であった。私はその度にただイメージとしてみるだけで、それとは一度も向き合うような交接感覚ではなかった。
私は素っ裸を面白がれないのだろうか、楽でスポーティーな乗りの行為が一度も無かったので( 相手は自然に往き来のできるタイプが良い、少年が無理に深入りしようとすると挫折する。私は基本的に快楽であって生殖ではなかった )、こういうイメージは不満の代償であるには違いない。

感情的ものとの距離

2016-10-25:
‘ 夢 ’に於いては感情的ものと私との距離またはそれを利用しての夢見が課題となる。

2016-10-26:

私は清潔という一致点はあったと思う。私は夏の終りにこう思っていた。もし変に唇を塗りたくったり人の挨拶を無視したり来館者に下目に見るような係員がいたらその名を示せばいい、と。それがその人自身の通報( ある訴え )と認められる。
人的理解促進の為ならそこに先ず生殖欲を容認するというような言い訳は今日の私には無い。

‘ 欲 ’が解決すれば、私は穏やかに研究に戻れる。

私は私の両足を伸ばすには私の両足の目的を換える以外には無いと思う。つまり、両足がペダル等を回転させるという動きの為ではなく( 私がバイク自体というような他動にはしない )、両足が伸展するような言い方。

私は原因を‘ 夢 ’に見ようと言ってみたが、朝方には‘ 夢 ’は無く睡眠不足のときの疲れたような状態に似ていた。

2016-10-28:
私と体との作業は悪くはない。私が自転車で体を動かしてみると( 左半身の筋肉が増したので )右足が弱い。しかし、これは私の体、私の匂いだ。

2016-11-02:
いまや夢見の実践はまったく不可能のようだ。私はなぜ‘ 夢 ’に気付かなくなったのか。私はそれの理由として考えてみた。
私がそれらに‘ 夢 ’として見ようとすれば( 根元的にそれらの由来をも辿りながら )必然的に‘ 夢 ’に対向しなければならない。‘ 夢 ’は私のエネルギーを利用する。その最中に私はその発生のエネルギー自体を私自身の注目として差し向けなければならないのだが、私は既に外界・他人にも私自身にも注視するということが嫌らしいのでやめてしまった。私はなにも‘ 場合に見たり ’はできない。
それだから、私が現在の‘ 夢 ’に可能な点があるとすれば( ほぼ唯一の関心として )、私が私の体の可能性としてこれを一致できるか。

私は一々感想文にはしたくなかった。彼ら自身からのクレームには私の連絡が起こらない。私は殆んど毎晩のように自転車ルートの1ポイントとして鶴舞公園にも乗り入れたが、いつも通報の具体性は無かったようで、私は8月以来あの館内には一度も接触しなかった。

2016-11-05:
私は私の両足として伸ばすには、子どもがその両足で押し出すように両足自体を伸ばす。

日焼け効果は上がっている[ あとで光老化の懸念により自ら禁止し,日常的に遮光している。 ]今晩自転車から帰って鏡を見たら普段の顔と違って両目の瞳が大きめに見えて気味悪い。例のcubic時の(六面色キューブが凹んでみえた)心理的な幻覚みたいな相対的なものだろうか? しかし、元気や気張りの肉体的身体的原因ならば、却ってあかるいキラキラ瞳になるのと想う( 昨日私自身に一瞬そう見えた )。

翌朝のうちに私は私自身のなにかと“ ぼく、なぐる ”と言っているものを聞いた。私は務めて冷静に‘ 私は暴力の論理は認められないから、今解決しないといけません ’きっぱりと繰り返しそう言い続けた。( 警察署員がいっぺん私に否定を放棄書にさせようとしたがように )私は感情的いいのがれには決して認めないが、問題が若し私自身の子ども時代だったなら、これは解消されていなかったわけだ。
私の質問への( その“ 僕 ”という側の )答えとしては、“ 煮こごりを食べない ”という。たぶん母親の食べ物に自ら受け付ける振りをしたがそれは嘘の習慣だったという、いわば‘ 自身のミステイク ’と言わなければいけないような状況を他者の所為だと難癖にした。親の言うことにはウンウン言わなければ食卓も無かったと? 殴るような性癖を押し付けたのは母親の側だと? 私は私自身にそんなグルなど認めない。
“ ぼくが煮凝りを食べる ”という嘘のように、当時その為に私自身の‘ 夢見の実践 ’を一意にできなかった。彼女らの問題というなら、“ ウソ放棄 ”を促す側があれば良かっただろう。
〔 備考: 私自身の問題点として猿の性行動に比例する 〕。

最後の切実( 元の収録タイトル )
2016-09-05:
午後7時代、N駅前の歩道を通る普段のルートだった。私がおはなし側の逆転層をかれらに気が付かせたからか、以前の険悪さとは変わったように( 私の通り路を察したかのように )誰もが歩きながら振り返りもしないちょうどのタイミングで空けた。
そのとき私は私が私の物事の先頭にいて曇りの無い眼で視ているようだった。それはかれらとは無関係だった。私は私自身に嘘の弁膜をつくのをやめたのだから。
[ 歩道で一々笑い声を発するような子たちはそうやって自分自身を俗っぽく貶めていた(と,私は思う。)単独のバイク乗りなどに対していやがらせのように笑った子どもみたいな者たちも(私は偶々視たが、)私は彼ら自身のそれがどういう意味なのかはわからなかった. ]
あとで私は,‘ 私がもう私自身の誰にもタッチをしなかったからだ ’と思った。

正逆
2016-09-19:
私は何年ものあいだにある種の婦人がその背後から私の視線かその印象をみることができるようだと気が付かされてはいた。私はそこにどんな原理があるのかはわからなかったし、私自身は他人の視線を感じるということは殆んど無い( 求めが無い )。
私にはそれが婦女の肉体だった( 雄の体には魅惑が無かった )という性別的な偶然ではあったかもしれない。しかし、仮に‘ 受け側 ’であるということは不幸のはじまりで、純粋にクリエイションがあると言えるような若い側には無意味だ。私はこのような話題に関して“ 催眠 ”というワードなどは一度も使わなかった( 私は夢に眠るように他者自身になったり物真似したりするようなことは無かった )。
私が夏のあいだに自転車ツールを押したのは私のうんどうが必要だったからだ。私は依存性のためにやられたくなかった。私自身の試し、孤独な試しだった。

私は例の図書館宛てにも‘( もし女子従業員たちの偏見・差別的な態度があるなら )その原因をはっきりさせるべき ’と最近の配布ペーパーに明記した。無論のこと、個々への質問と言える人の方がやさしいわけだから、集団的論理の活用は恫喝だという側には良くなかった。〔 私自身のおはなしによれば、私は昔幼稚園で先生方の匂いがよくないと言った。もし図書館側に“ 売り ”があると思えば当然のように利用したり無視したり反発したりする側がある。私は既に‘ 辞めてください ’とさえ書いた。私よりも年輩には、仕事場などの責任上もっと手厳しい即断をするような者たちがいただろうことは想像に難くない。彼女は今回気が付かないだろうが 〕。

( 続き )焦と点 - 私は追いつかれなかった。:2016-12-22,

骸骨の顔

2016-11-20: 私の風邪をやめなければならない。
夜、M越百貨店前の歩道でまた若い外見のにこやかな警察官たちから‘ 裸足で大丈夫ですか ’という言葉があった。
〔 私は先日14日の夕方その歩道傍に消防士たちや不思議な“ 救急ストレッチャー ”を視たのも、そこではもう想い出されなかった。私の未発表日記の部分には“ 私がその先で視たその運ばれるストレッチャーには白い覆いみたいなものが固定されたようにあったのだが、人体があったとしてもその包み自体はまったく整然とベッドメイクされたもののように清潔そうで‘ 慌ただしい現場 ’を想わせるような様子も臭気も無かった。” 〕
このまえN駅前タクシーロータリー付近の信号待ちでも聞かれた。私は後で私自身の理由があるのだろうかと不思議に‘ 靴が欲しいんですか? ’と私の本心にたずねてみた。‘ スポーツシューズ? ’
〔 私はこの日記の数日後にはもうこれを想い返さなかった。〕
私は私の肉体トレーニングには素足の方が便利だし、今晩は昨晩と比べて気温が高めのようなので、私は内履き3枚分と元ネックウォーマーに半パンツだけで私の足先にウォーマーも着けなかった( お尻あたりにウォーマーを巻くと不格好で逆に腰に悪くするおそれもあるが、冷えは感じられにくい。)
私はまったく‘ 外界そのものを呼吸している ’ようだった。もはや人間風のお喋りなど不必要だった。

2016-11-26: 放埓ほうらつと肉体

私は両足への面倒見をやめた。
何事にも無く面倒見をやめる。
‘ 伸びたい ’という両足自体の衝動を神経的ポテンシャルとして、放任する。〔 従来私の両足が伸びなかったのはそれらが性機能には重要な部分ではなかったからだろう 〕。

朝方、あたかも女が寝床の私の耳許に囁き掛けるように“ 12月まで貸してもらえますか? ”と言うような夢があった。有名演歌歌手の顔だった。
私は即お金の貸し借りと連想したが‘ 女 ’の側が生きていて私のなにかを‘ 借りる ’と言ったのかもしれないとも思った。私は最近フランスの時代風の曲をアレンジして口笛で吹いたりしていたので、以前テレビで“ ウイスキーはお好きでしょ ”の歌にフレンチ風のアレンジメントと演奏されていたのが( 私はもうワインもビールも4年程一杯も飲んではいない。私は“ ウイスキーが ”とは言わない )私の口笛の節と自動連想されていたのかもしれない。

以下-原題: 難癖と自転車 | 消える転倒事故( 自己 )

2016-11-27:
両足自体に達する。私の体は排便し切って完全にリラックスすると寒くなくなる。
午後10時過ぎ、私が肌に感じるかどうかをポロシャツ・半パンツだけ着て路地に出てみた直後( 室内に戻ったら )私の両手両親指の先だけが不思議にひんやりとした。

2016-11-30:
私は誰かに子どもたちを誘導し差し向けるような‘ うらみごと ’があるかもしれないと、仮に無関係の他人をそれと報せずにまるでそれ自身の目的であったかのようになにかに誘導するようなものがあったなら、それは‘ まほう ’だった。
私はその名前付きで書いた図書館宛てのクレーム一部をまた反対向きに逆の意味合いに読み直してみた。私は私自身について書いただけだろうか。
( 鶴舞中央図書館には来館者どうしの殴っただの殴られただのというトラブル等が時折あった。私がネット端末に通っていた時期にも警察官が呼ばれてその2Fに来たのを偶々みたことがあった )。

私はずっとニセモノを負っていたのだろうと思った( あたかも外的とみられたような内部反転ひとつひとつに私は読み解こうとした )。私が完全な私自身で有るだけでよかった。
私は自転車どきに‘ 体ひとつずつしっかりと動き ’を心掛けた。私はもうなににも“ 目 ”を遣わなかった。私は“ 少年たち ”に咎めるような振りをするのはやめた。

2016-12-01:
(1) 外的反転という要求? 
この処、まったく‘ 外的反転を自己責任で解消する ’という作業であった。私は私の‘ 外的反映 ’をあたかも他人にそれみたように尊重するという2重の間違いだった。そしてそのような間違いに対するかのようにバイアス( 振れ自体 )の可能性を見ようとするのも3重の間違いだった。
しかし、今思えば“ 対外離脱体験 ”には私の意識の分離自体が無かった。だからそれは物理的に捉えられるような問題ではなかったが、‘ 私の身体 ’をコントロールするという作業と‘ 私の自覚 ’とは何時如何なるときも一体で有るはずだった。ところが、私は他者に見たり聞いたりしたと思う瞬間にはそれらを自己的コントロールできなかった。

(2) 放棄・撤収
眼鏡を掛けるよりも前の私はもっと強かった。室内眼鏡や室内厚着が必要だったという難癖は、昨日しんだ。
私はまた私の下半身には短めのスパッツと半パンツだけでいってみた。どうして厚着だと逆に冷えがきついのだろうかと考えれば、私が‘ 反転 ’していたように衣類自体に面倒な‘ 身体反転 ’があったのでは?( 例えば暖房機への絶対的崇拝というものもあるかもしれない. ) 私は既にアンダーウェア自身とのフェッチではなくできるだけ私の肉体自体で在りたいとおもっていた。
〔 私が街で‘女の子の顔を視たがる’という、ある種のウソがあったと私は思う。もし“ おと ”が気になるならそれは関心自体の興味だというのと同じことで、私は“どこでも”そういう誘導的なウソ自身に乗ってはいけなかった 〕。
私は“ 幽-離 ”とは言わなかった。

2016-12-03:

私は“ 崇拝者( 求め )”をやめたときにだけ私の両足が‘ 伸びる ’のを覚えた。
私のうんどうの試みは私自身の一致のためだった。
最近毎晩私の自転車のとき歩道に古い買い言葉のようなひと言を叫んだりする者ひとりふたりいたが、私は私の両足うんどうを優先するために否定していた。
〔 私からは‘ 私のおはなし側としての関与は無かった ’という影響否定の態度であった 〕。

夜中、外気はかなり冷え込んだ。私はポロシャツ2枚( 内マフラーを着けるのだがこれはまた疲労の原因となる )と3分丈スパッツ・半パンツ等で自転車した。私の体に“ 寒さ ”をやめたかった。
ある交差点手前に赤信号で私が止まったときその無人歩道側の歩道橋階段になにか別のものがあるようだったが( 私は真夜中ひとりきりでも不思議な個所にはじっと黙視してみるだろう )判らなかった。

〔 私はひとりうんどうのために‘ 街なかの烏合の衆 ’を消したかった。無論、私自身がオバサン論理に乗ってしまったというかどで一々責めを負ったのは当然だとしても、それらに他からの障害だとして2重苦や3重苦にかすのは間違いだった。私が私自身‘ かれら ’といって残しながら‘ 私は視ません( きけん )’というのでは転倒自己だった
私はひとめない私ひとりを優先できる筈だった 〕。

例のK区41号線サイクラー事故死のあったとされる場所で( 一見本物の百合かなにかの蕾2つみたいにみえる花などがずっと置かれたまま )私はまたその花を視たが、その直後なにかこちらに抱きつこうとするような四肢の動物的な感覚というかイメージのようなものが一瞬あった。その顔は黒髪のひとの頭みたいでもあったが、なにかその布団みたいな胴体と四肢の各付け根に赤い帯のような部分等があった。見覚えの無い不思議なイメージだった。

2016-12-09:
今日私は額に錆びた鉄杭を打ち込んで寝るようだ。昼間には( 連絡の無いT中央図書館を )12月末までに機能停止させると思いながら、今度は血の汗をかけなかった。〔 これはたとえではなく、8年前に数回他で試されて一度もされなかった手法だった( 終.)
今週Hy大通付近の街路で自転車の私に“ うんこ ”と声に出して言ったりする男子がいたが、不図それとは別に最近私が食事に赤唐辛子のフライなどを使っていたので、その匂いで7年前の件を再起するような者がいたのかな、と私は物理的原因から思った 〕。
それが実行されていたら‘ 論理的に個人的自由を正しく通した ’と言ったかもしれなかったが、片付けにまた余計な労力と資金を強いただろうとも思われた。私はこの日のうちに放棄するというよりは私自身の問題だったとして再整理するを正当と思い直した。

2016-12-10:受信機ではなく、原動機である。

体と現在点|夢の体-機能?

2016-12-18:
私はこれ迄の前述のように私自身の“ 周囲 ”を私自身から消そうとしていた、‘ せんめつせん ’という対立も無しに。跡形も無く( 私自身 )残像を消せたら。

2016-12-19: しんだ‘ いやがらせ ’
要求無し。‘ 夢 ’記憶無し。

ひとつ思い付いた。私が昔コーヒー習慣が‘ 夢 ’に妨げになるかどうかを気に掛けたのは、コーヒー成分と私の体自体という問題からではなく、私が‘ コーヒー ’に依って睡眠や‘ 夢 ’に明晰になるかもしれないという依存的な関係の可能性として持とうとしなかったからだろう。

路上には未だなにか笑い声をするような女子が( 私の自転車の度に多くて数組,次第に減っている )いた。それらには私の問題が無い。私には用事は無いからだ。今更に鎮静としている。私は自転車のときにも私の体( 現在点 )だけで、もうなにも見ない。

昨日少し気温があったので半袖2枚に短スパッツ・半パンツで旧名古屋駅前辺りまでの簡単な自転車だった。左腰に少し痛みがあったが、私は前夜うんどう無しに寝たので‘ うんどう不足だ ’と決めつけた。
誰もいなかった。昼間晴天だったのにダウンジャケットみたいな服装の通行人が割に多い。今年はもうクリスマスシーズンも無いかのようだ。
午前2時にもう一度ひとりで走るかと用意してみた。街のポイントという自身が無くなったので、ルートという想い入れも無い。‘ 路上本位にはできないから、やめよう ’と思ったら、腰の右側でポクッと音がしたかのようだった。‘ やめよう ’というときには体の緊張感が解ける。‘ いや、やっぱり行こうか ’と言ってみたら、突然左膝に痛みがある。私が今これをケータイに書いている最中その言葉の部分でまた左膝が痛みだした。
‘ 夢見の実践は ’

2017-06-21:

夕方“ グーグルマップ ”に少しばかり拡張ルートを画像等チェックした。
私は名古屋市内へのルート設定ばかりなのでいつも通常のグーグル日本語版URLに“ /maps/ ”を足して自動的に地元地図を出して見る。千種区,日赤病院北_高峯町の東へと上がり、その先で南下するのはそこでの私の前回ルートだった:
( 初回には暗い時間だったが、私は第2グラウンド横を通り八事霊園を左にみながら山手通との交差点に出て本山におりた。その横断歩道になんでかあのいきなり拍手しながら笑い声を上げるような男子グループが? 無論私は歩行者へのきっかけは無いので無関心だが、今更あの数年前までの一部の観光客みたいな古臭い振る舞いは不可思議だった。私にはそのような物真似されるような振りは無かった )。
私は今回マップ映像にチェックした通りを天白区へと上がってみた。〔 あとで帰路に“ その裏山にダイオキシンがある ”という変なおはなしだった。私にはなんだも不明なのでたとえ話かしらんと思った 〕。153号線・植田一本松_植田西_八事裏山からまた少し上がって八事交差点。もう変なひとはいなかった。私は前回同様に休憩無しに山手通を走り上がるように日赤病院北へと戻った( その一周で8kmちょっと )。そこで西に杁中まで下りたが花見通には行かず、檀渓通にも忘れたように153号線・川原通7_吹上?大通? 笹島・駅にも人影はみえなかった。また適当に桜通と錦通など,傾斜-等で折り返して再度栄町付近へ。
たぶん合計35kmくらいで漸く両足にケツが上がり、“ もしサドル無し,ポール型ステーだけの自転車で作ったら ”という冗談だった。両足上げ気味に、翌朝に疲れない程度に帰ろう。

朝方キューブ,何度か時間切れにてやり直してみたが、毎回最初に8隅がきれいに合わなければ駄目だ、シャッフルして置いた。午後,夕方まえに測って9分50をマークした。やっぱりも無く、わけはわからない。

寝入り端に観察する。夜の用水路沿いにみたような( 見覚え無い )古い小路-左側にフェンスみたいな形。それはその一瞬光景っぽく表れかけたが、私がみていると( 両目蓋-閉じてみるときの影か残像みたいに )その形だけがみえた。

夜,早めの自転車をやめてキューブに数回トライしては時間オーバーにつきシャッフルし直した。最短8分12。

2017-06-22:
わたし‘ 気 ’にしよう( 意のからだ )と心した。これは夢の体に似た働きをもち、非常なシンクロニシティが頻発するだろう。

午後5回程キューブやってみたが10分を切れなかった。

寝床で‘ わたしのからだ ’一体と意する。これ自体に‘ 夢 ’みるという夢見の論法である。

従来の外界や室内空間などを消してみよう( 一昨夕の“ 裏山にダイオキシンが ”のおはなしにも私自身というそんな障害が象徴的に翻案されていたかもしれない )。
一回だけ、無人-夜景のように道路-上り坂道がみえたのだが、どの場所というのでもなく、一度も見覚えの無い純粋なイメージだった。


問題解消のために

不明な点があれば、まず最下段 ‘概要|サイトマップ’をご覧ください。

Kohshiroh Okeda 2016-2017