明晰夢見への考察( 論稿 )

桶田幸志郎( Kohshiroh Okeda )明晰夢見への考察( 論稿 ):Nov.30-.2020.

私は以前“ 夢で両手をみる ”が( 一度 )なぜ実際に効いたのかを考えてみた。私はそのファイルでは“ 両手とは,手前のもの所在をここに確認させる殆んど唯一の物だから. ”というように書いたのだと憶う。だが,それでは不十分だ。以後( 清澄夢の-明晰夢見者としての )成功は無いに等しい。ここにはもっと理論的根拠と実践が必至だった。
-
私は“ 視界にこちらの両手または身体をみる ”という作業の( 実用的な )心理的的な要素について見直してみた。

1:通常“ 寝端の視界 ”には私の身体が映らない。
両目蓋閉じているので( 予め用意されない状況には )身体イメージは写らない。両目蓋閉じてみるとしたら,物理的にはノイズだけである。要するに,夢見者は予め“ 身体イメージ ”を持ってなにかしようとするか,そこには身体イメージ自体が無い,と憶い出して,想起するだろう( 一定の期待-予期されている。)

2:ただ両目閉じて寝るなら,連想的な表れまたは漠然とした物思いのみ。
それでもフロイト氏の述べたような“ 二重意識 ”に因るなら,自動的ななにかがみえたり,うごいたりする( それ偶然のように目撃される。)
( なにかに対して )‘ 私が ’コントロールしようとこの両手を差し出す,身体的に歩いているか( そのように意識される )という状況があれば,常にそのような身体的行動どれか特定またはすべてに‘ 視る ’の条件点けができればいい。

しかし,夢とこれを私に‘ 憶い出す ’のが難しい。普通の‘ 夢 ’に於いては,願望が先ず“ 夢の表れ ”として先制する場合が殆んどだから。
〔 無論にしても,明晰夢への視点的な試み・“ 夢の表れ-原因自体 ”に私として観察できるという可能性,この可能性自身である。〕

3:能動的想像の不可能.
かつて夢見者が身体性のトレーニングと夢の身体について述べたように,身体は‘ 私の ’常在と同一視されている。もし身体的関心か性的な興味によって一応の可能性と一致しているなら( わたしがすべてであり排外領域や拒否的な対処の必要性を持たないので安定する,という場合。)比して,実際には孤独で,ものおもいと分離しやすいという性向にやられがちとなる。これは身体性を持たないひとの“ 自由 ”というには対極的なコアである。
私の記録した場面等のどれにもこの‘ 身体性 ’との不可分であったかのような,その条件だった。
夢だ!という自覚の場合に視点だけに拠って私の遊離するというような“ 夢 ”は先ず無かった。しかし,‘ 身体性 ’は物理ではないのだから,記憶に依る“ 身体感覚 ”以外のなににでも投影しうる( -普段そうしていたように. )
〔 但し,“ 能動的想像に於ける私の移動 ”に,感覚的な歩きも伴わない,それ自体の表れ印象のみといった場合; 私は“ わたしの夢を観察するように視る ”という意味合いでの“ 能動的想像 ”という従来語には間違いと思う( むしろ“ 受動的観察の機会 ”と言うべき。)それには,きっかけとして私が関与し-あたかもその最中に行動しているかのようだが,能動的と言いながら,それ表れ自体への具体的なコントロールの欠けている。〕

注記(“ 夢 ”自体の論理? )睡眠-夢自体との“ 意識 ”受動,逆に注入されたロボットのような状態.それは“ 夢 ”自体に因る不自由なのであろうか..?

4:“ 想像 ”という間違い.
私が夢での身体について“ 記憶に依るその感覚 ”と言ったのは,特に“ 体外体験 ”的な夢の最中に自覚された動作的または遊離的な身体感覚は夢自体のもので,明らかに寝床のそれとは無関係だと判るからだ。〔 私の記録した夢体験では,数回,その終わりに夢の場面から絵が消えて直接私の体に( 寝床に )途切れ無く戻ったという例が遇った。が,未だにその逆が無い。詰まり,寝端に私として私のままで‘ 夢 ’の始まりに完全な形で意思的に観察できたという例は( 一度も )無い。一瞬の表れがそこで途切れてしまうのが通例なので,これが本格的な‘ 夢 ’導入となるのかどうか,できるだけ実験してみよう。〕

私は試さなかったが,‘ 夢 ’最中に( -寝ている体の )それ自体感覚できるかどうか? 他のだれかが( 夢見者の最中に, )外部それと関知して不特定の音声や接触の手伝いをすれば,あとで照合できるかもしれないが。
‘ 夢 ’での身体的な動きと( もし )寝ている肉体側のそれらしい感覚が意識されるなら,体感の主体にそのどちらかか両方同時にを選べるかもしれない。が,仮に肉体が覚醒しないように感覚できたとして,それもまた“ 夢の身体感覚 ”だったら?( その場に )少なくともそれが‘ 夢の身体 ’かどうかを試してみるのは可能だろうが..。
( 泥酔や睡眠時無呼吸のひとが,完全な就寝できない状態で,実際に体の動いて“ 敵 ”かなにかにやり返したりするのが,当人や周りにとって致命的危険だという場合があるそうなので,正常な睡眠自体が妨げられるような環境はいけない。)

5:-映画,-音楽,-“ 彼女 ”?
身体という形態は最も基本的なひとつの焦点,コアである。これは“ 自我 ”というメタファーと同様,機能性ツールとしての可動性であり,“ 動こう ”とする度に,一個の限界ととなる。“ 自己 ”という幻想が“ 虚無 ”に代わり,なんらかの同一性,または可能性と言わなければ,ここからの“ 進展 ”できない。
望みの物を手に取るときに,それは一見‘ わたし ’という同一点に依って“ 我がもの ”という視点上の了解とみなされる。初めて“ 両手 ”とみなされるが,自身としての手自体,それから“ なにか ”に伸ばしたとき,それが“ わたしのえもの( ゲーム )”でなければいけないからだ。ここで確かな行動があるとしたら,その場なにかの都合ではなく( あたかも私からの理由であるかのように間違われるおそれ, )予めそのような‘ 睡眠-夢 ’に対して立てられた実験の目的その通りにやってみる以外,無い。]
元来‘ 私の目的 ’が在れば,通常“ 両手 ”か“ 力学 ”の可能性に依って,一応それの触れてみたいという,なにかしら表面的ののアプローチである。

私が‘ 夢だ ’と起きて最初に“ 両手をみる ”ために私の両手を視ようとしたとき,その両手は“ ぶれた ”ようにみえて,私の視覚的な焦点を合わせるのが困難だった。以前に私は腕の軸中心に手首を素早く連続的に振ってはその膨らんでくるという感覚を楽しんだりした覚えがあった。そのような感覚か,熱感-振動したような身体感覚自体との連想に因って視覚的な絵となったのかもしれない。( 身体の熱感覚や震動感覚自体,ある程度,喚び起こすこともできる。私はこれも自乗的なフィードバックの効果だと思うが..。)
[ これの話題とは直接無関係だが,そこは普段の居間で,?..室内は薄暗い中での視界みたいに殆んど無彩色,片隅にパジャマが脱ぎ捨てられたように遇った。それは“ うちの父 ”の水色がかった室内用のパジャマだった( わたしが立って視たそのアングル,普段わたしの寝ていた位置ではなかった。)無人だった。わたしは“ 父の家 ”にいたのだろうか。( 未完 )]

上記への関連話題-日記:2020-10-23-

夢見への注-意( 条件点け )印象,追憶,予起について