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砌と寝目 | 夢見の正体

2018-04-19:
私の右-真ん中近くには未だ踏査できないポイントがある。

・‘ 神と接近する ’。
- この右半身には観念的にから排除されたものが遭った。あたかもそれは“ 別の婦人からの問題 ”といったように投影される。
〔 これの特徴は‘ 能動 ’ではなく仮にの自己-受容、所謂いわゆる“ 自分受け ”態度のように表れる,その体の部分に触れたり触られたりするのを退避する。
右で‘ みる ’,違うひと? 〕。
ところが私がそう意図した途端に( 今,意識無しに )このメモをいつもの左手ではなく右手で打ち込んでいる。それとも私は直前に左手で油に触れたのでメモ用端末に触るのを避けたが、右手で打ち込みだした途端にもう憶えていなかった。

私には前例-書籍に於ける本多さんの(知覚と行為の認知言語学)いう“ 私 ”は他と対象化されたものであるが故に本当の一視点ではなく対象側を問題とする,離れた“ 私 ”であり、それら外界または説明者としての“ 私 ”の側だった。いかに日本人でも“ わたし ”がただ“ほかのなにか”に対処するために仕方有りに“ 私 ”と言うというなら( 一般-言語に際しての問題で, )‘ 私 ’が在れば周囲を存じない。
私が“ 私 ”或いは“ 認知 ”と論じるがために分析的に述べるということが‘ 夢見 ’に直接効果的かどうか? 
“ 近づいたり離れたりする私 ”という距離的な観点 - それとも従来のように外部が存在して胸騒ぎというよりは一体が壊れるの危険( 私は前回あの公園-道路では海苔(:夜道で私の背中が剥がれたりする)をつくれなかったが、視点が離れればその場に心臓麻痺するおそれも )だった。

○ あの“ 舗道 ”イメージに今一度みて私が前述のようにその敷石ブロックひとつをその左側に持ち上げるようにして取り上げたとき、そこには常識想像的に土の面があった。しかしその窪みの上に白い軽そうな球体のようなものが浮かんでみえた( このとき舗道イメージよりもその直前に私がみた別のもの,私はブロック下に‘ 何も無かった ’のでそのイメジングに近いものをみようとしたのだろう )。一瞬その完全な球体にはやや小さなまるい凸などがあった。[ 象徴説として見れば,そのような対象的な球体の表れであり,それの質的なたとえは軟らかいだろう。 ]

2018-04-21: 動かない右小指
私は夕べにもうサマーシーズンのように暑そうなテニス選手たちの試合をテレビ中継画面に視ていた。第2セット試合はこび途中、一画面に、その2名の両足が( 視覚的に )少し長くなったようにみえた。が、そのあと普段通りだった。私は試合画面を視ていたつもりが、私自身の投映をみていたのである。
‘ ボールが飛んでいる ’瞬間にはそれ自体を打ち返すということは二重に難しい。“戦え”ば負ける,“動かそう”とする程に負荷がある。
-後述,‘ 特徴的 ’に映る :14,4-2019

私は前日‘ 白い球体 ’にはなにも見なかった。しかしあとで敢えてその‘ 材質感 ’そのものを与えることもできるのだと気づいた( これが現在となる, )そしてこれこそが‘ ドリーミング ’の核心だったのだということも。

私は“ 夜道 ”怖れていたときの方があの“ むくろの男 ”にはずっとよかったのだと思った。“ 彼 ”は向こうから来るものだったが、今あのしんとしている公園の外れ近くにいて、顔を背けようとする。夜道の反対側に“ フヘヘヘヘッ! ”と笑い声をあげながら、去っていく。私にはそれがなんなのかわかった。
私が‘ うんどうが必要だ ’と言い訳しながらこう書いていると“ バス停に女の子がいる ”。身に入ってみよう。ちょうど午前3時。

“ 骸の男 ”イメージ-(1,2):04-07,2-2017

・( 肉体の境界面を限界としないで )‘ 気の空間 ’をしてみる。

2018-04-22 (1):
- 右足は立ち始めている。

私はこれ以前一度も“ スキーマ ”という語には馴染みが無かった。私-的には‘ スキマー ’と思った。英語に仮にスキミングと動詞活用するなら、なにかの上面を掬い取るとか、鳥や石での水面を切るような動き自体をいうだろうが、‘ 夢見 ’言えば、主に視覚と感覚との表面的な次元に、見えない全体が在るのか。

私はカルロスカスタネダ“ 無限の本質 ”がいまだに全体像無しに私の室内にあったので先生これ読み直してみようと久しぶりに便所に置いてその度1ページ毎少しずつピックアップしている。その“ 意識の暗い海 ”という章には、このように述べられてあった。〔 引用 〕:
ドン・ファンは私が師事した全期間にわたって、夢見は古代メキシコの呪術師が発見した技であり、この技によって、普通の夢が知覚の別の世界への紛れもない入口へと変えられるのだということを、委曲を尽くして説明した。さらにまた、彼が夢見の注意力と呼ぶものの到来を、考えられるかぎりの表現を用いて力説した。夢見の注意力とは、普通の夢の構成要素に特殊な注意を払う能力、あるいは特殊な意識を置く能力なのだそうだ。〔 中略 〕
ドン・ファンはまた、呪術師は二つのグループに分けられるとつねづね話していた。一方のグループは夢見るものたちであり、もう一方のグループは忍び寄る者たちである。夢見る者たちはやすやすと集合点を移動させる能力をもっている。一方の忍び寄る者たちは、やすやすと集合点を新しい位置へ固定させておく力の持ち主である。夢見る者たちと忍び寄る者たちは互いに補完しあい、一組になって仕事をし、生まれながらの気質で影響しあう。
ドン・ファンは、集合点の移動と固定は、厳しい訓練を重ねた呪術師なら意のままに行なうことができると断言した。彼の系統の呪術師たちは、人間である輝く球体のなかに少なくとも六百個の点が存在しており、意志の力でそこへ集合点を移動させると、それぞれが完全に包括的な世界をわれわれに与えてくれると信じていたのだそうだ。つまり、それらの点のどれかに集合点を移動させ固定させると、日常世界と同じように包括的で完全な世界でありながら日常世界とは異なる世界を、われわれは知覚するのである。
ドン・ファンはさらに説明をつづけた。呪術の技は、集合点を巧みに操って、人間である輝く球体上で意のままに場所を変えさせることなのだ。そのように集合点を操った結果、意識の暗い海との接点が移動し、その付随物として異なる無数のエネルギー場がもたらされる。このエネルギー場は輝く繊維となって集合点へ集まっている。新しいエネルギー場が集合点へ集まると、日常世界を知覚するのに必要な意識とは異なる種類の意識が活動を始めて、新しいエネルギー場を感覚データへと変換し、その感覚データが解釈されて、別の世界として知覚される。というのは、それを生みだすエネルギー場は、通常のエネルギー場とは別のものであるからだ。
:私、潜在的にでも果たして認知的-意味的600それ以上もの参照点が有り得るか?( 必然、能動的に解明しよう )。

昨日迄の私日記( 概要 )には‘ 夢に補充する ’という実体験的なメタファーとして書いたのだが、私はあとで読み直すうちにその“ 補充 ”という単語に不正確-不充分だと思い直した。私は夢に対する補充の要員か? もっと的確な単語がある。‘ 夢を充てる ’と、更に言った。
私はその日記中に敢えて‘ 明晰夢というワードでのgoogle1位奪還 ’と、あたかも挑戦者として書き加えてみたのだが、全容的データひつじに自ら挑んで“勝敗”をするということも既に不可能であり、私はそのようなベクトルの本性と表れとを私自身に判別する。

- 物自体に本質をみる〔 普段の訓練中 〕。

・簡単に覚え易い物から始める( 必ずしも視覚的像の眼に映ったようなくっきりとした光景を‘ 想い浮かべよう ’とするも無い )。‘ 夢見 ’という呪いを解いて。

2018-04-22 (2):
〔 - 私は六面体パズルにも私の‘ 身体的-記憶 ’が伴う場合の方がうまくできると気づいた。私はこの何年間かすでに感覚的印象を持たない-投射しない試行錯誤のパズリングだけを単純に繰り返していたのである。しかし、今一度これを‘ 物 ’とすることは可能である。 〕

‘ 生成物 ’自体?
つるまない自転車帰り路に私は私の体-腹部右に‘ 薄ぼんやりとした暗い穴 ’のような( 私がそれに注-意を向けると他事は無くなる )が遇った。私が久しぶりにカルロスカスタネダのお話を読んだことが[ 22日(1)-引用分,現在表示無し. ]作用したのだろうか? 私はなにも意図しなかったが、ちょうど昔‘ 金縛りに依る体外離脱 ’毎回その状態に痛みを覚えた体の箇所だったので( 私はその頃これには‘ ある再現 ’説とは一度も考え無かったが, )私の記憶的なものかもしれないとも思った。
しかし、そのときには私は考えなかったけれども、こうして‘ 暗い穴 ’と書いてからの私には、あの夜道-公園ルートでの“ 駐車スペース ”に( 不可視か私の恐れの所為で,あとで再度確認した処では、ただ舗装されただけの公園内へのスロープ部分に )‘ 薄暗いホール ’のようにみえたという、あの晩の印象自身〔既述〕と同じ類いのものなのでは?という後付けながらの想いではあった。だが、これらは連想で、具体的関連性が見当たらない〔 そのあと私が最近夜中にみた処では、その付近に工事現場があるからか荷台用トラックの白い頭みたいなものが一台置かれてあった。 〕
私自身の“ ホール ”はそこには無かった。あのホールも、あの“ 医院の入口? ”も、あるイメージで遇って、おそらくは私の体内的に想像される一見自動的な印象の一種だった。

2018-04-23:

いやがらせ映画?
連日例のチャップリンひとつも返却されないので( うちの図書館で“ チャップリン短編集4 ”とラベルが貼られているDVDは詰まらない内容だからか、先週以来それ一枚きり置かれている,N×Kに放映されたBキートン含めての1時間特集番組は前年分からの再放送だったそうだが、DVDビデオのひどいぐにゃぐにゃ画質と比べると、フィルムから再処理されたものか粒子状までみえる画質だった )、“ 市民ケーン ”? それから“ 華氏451 ”借りてみた。私が一度もオーソンのタマゴ頭を視ていなかったのでマーロンブランド-コーツ役の“ ホラー… ”だったというように、ある別のヒンジが回されていたという場合。
“ 華氏451 ”( 私は一度そのタイトルに視たと思っていたが、私にはその場面的記憶はひとつも無かった。婦人2人が歩道上モンタグの背後に追けるようにして歩きだすというカットにだけ、なにか微かな記憶のようなものがあった。あとで想うとこの首の付け根が剥がれそうだ )懐かしいカラー撮影調。
“ 電波受信アンテナ ”等ズームというその映画最初の絵に象徴されたように、この映画には‘ 中心の暗さ ’という観点がある。淡々ともみえる表現で、いくつか昔ミステリー話みたいな印象は遇ったものの、それらがどれも一度きりで( 学校通路での“ 消えた荒川少女,ふろしき包み ”シーンは象徴的ではあった。“ Montag ”は彼自身として疑問符にしない側だった )それら表れが不透明のままだというところに70年代映画風の問題があった。
この映画には‘ 観客視点への仕掛け ’が無いという点では、単にお話上“ えっ?電波って? ”と言わせるだけで、林の中に人が横切るだけのラストシーンに、私は暗がりの中に監督自身のチェアー姿がみえるという絵を付け足そうとする。

- 課題,右の体に触れられるのを避けようとすることの原因? 私がこの‘ 匂い ’をみようとすると右手はやはり動く! だが、・私は右の‘ 堅い ’を再び私の中心( 夢見の実践・明晰夢トレーニング )化する。

- 言語化された( 発音と結びつけられた )意識は、常に二次的で、遅い。‘ 夢見 ’にも、このような考え方自体に依拠しない( 反応的な速度からにしない )直の生活である。
〔 あたかも‘ 右半身 ’的とみなされるこの意識、記述言語に長けていないと目されるゆえに‘ 復帰 ’の可能性がある。 〕

2018-04-24:
あの“ ホール ”イメージには、もっと以前からの原型のようなものがある。私はそれを“ 窪み ”というよりは“ 小型円形ホール( 凹みのルーム性 )”と同種のものかもしれないと思う。私はこのイメージを能動的利用できるだろう。
・ホール-ルーム( 石製の円形床 :26,10-2017 ■ )