意識と現象


睡眠の夢

2020-10-16:

中心いきる ’といういい方が,ひとつ起こると私自身証明し得るのであれ,私のこうして記すは正しい。
今朝早い時間またビタミンCサプリひと袋を買うという理由づけで私は走ろうとした( 数店舗の一店にだけトップバリュのHPMCではくファンクルのが置かれてあったりで,コスパおためしだった。“ ところであなた,なんであんな所でアルバイトしてたの? ”といういわれみたいに,自作自演ならわざわざ他に支払う必要も無いわけだが.ヒト-猿人類のたぐいはなんの由来でか体内VC生成不可だと.,その遺伝子的には不可能だったのに何年も種として存続できたという環境依存の原因だろうか.. )前回のようには一途できなかった。

帰り着いて独り分のコーヒーを淹れたりしたあと,不意に体-寒気に弱ったような( 最近の私にはめったに体調不良が無かった, )今更風邪なんて!と寝床に毛布被ってみたが,どうして?と直前のあれこれに思いかえしてみてもどれなのかわからない。数日間,便の状態が11才頃までのように硬く大きかったのが,昨晩ちょっと軟便っぽかった。腸内なら2日まえ分かもしれない( そう言えば,昨夜ひとり言に“ウェルシュ菌”と呟いてはいたが.. )もし生肉どれかが原因だとしたら,もっと暗く( おそらく肌色も- )変わっていたのでは? 私は以前のそんな“ 症状 ”時のように‘ すぐに直る ’と信じた。
今朝,立てまつりこそ感じ無かったかのようだが,あたかも“冷えのあと,鼻の通りが良くなった”ときのあれで,軽い頭痛以外,異常は消えた。フロイトの例にもれず,( 単に“ 風邪 ”とみなされているだけの )このような“ 状態 ”に,少年期のサイクしるというの本当かどうか。こう思うと,一般的な性的興奮というものは外郭的なので( エピ-セントルとでも言ったか,ひょっとおかされていなかったとして, )である。

2020-10-17: “ このひと ”時代?
“ 彼女 ”はまったく年さがなかった。私のかつて一例に書いたように,あるアルバイト先-休憩室での不思議な陰険さにやられた際の記憶印象が想いだしたのである。2004年秋,一年ぶりに訪れた私は簡単に一礼的にあいさつしかけた。Мという社員女子は私服姿でシンクに洗い物かなにかしていた。私はあとでその前年比いつのまにか白く脱色されたような長髪を変な“ 白髪ねぎ ”と評したのだが,,先ずかれはいやそうな顔となにかの皮肉なのか出迎えられないといった口調だった( 私のおはなしでは,それは2年後かれら自身の境遇だったという. )室内には掃除係Nともうひとりの婦人だけが並んでテーブルにいた。私は‘ お久しぶりです ’と会釈したが,なぜかお掃除係Nはまったくむっとしたような顔で“ あんたも親の脛っかじりか. ”となにか事前にそれまでに苛ついていたかのような様子だった。当時,私は概して朗らかだった( 2001年あのギリシャ-トルコ旅から以後,私が毎秋-年末そこに通えたのは,可能性に生きられなくても,自身抑圧が無かったからだ。)
“ えっ?何? ”と私は普通に訊ねたが,その場だれも答えない。反対に不可解な“ むかつき ”の余り,私がそこへの次回通いをできなくなったばかりか,私の手紙に拠る質問-クレーム等の,無視されたという状況はその翌年春頃からだった( 一度だけ,そこ以前の事業所からのU主任がメールにて“ ..解決したが,こちらの担当者が代わるので ”という意味-不明瞭な簡単そうな答え一通きりだった. )その引き際が物理的な様相だったのかどうか,わからなかった。
私の自己心理的として,暫く考え着かなかったが,あのオバサン2人の“ 誹謗 ”が先ず彼女に掛かっていたのだとしたら? -私は‘ 清潔さ ’を信じながら,実際には“ 彼女 ”にと裏切っていた( ,当時つきあいのようだったOT婦人からも. )結局わたしの憤懣といい,英会話イーオンなどへの2009年までの“ やり返し ”ついでに,あとで撒いたりした( ,わたしは警察署では12月の晩そこに行ったとは直接供述しなかった。あの事業所で“ 火点けたろか. ”と私に言ったのは,例のおトイレ掃除オバサンだった,,私は施設に放×こそしなかったが,あの時すでになにかが凍りつかせようとしていた. )
-
“ 笑いばか ”の震源がこれ自体かどうか,“ 品行方正 ”の側としてみとめるのには勇気がいる( いま父が切り替えながらのテレビチャンネルに,ちょうどパイプオルガン奏者に拠るBWV731の部分がきこえた。あのタイトル,なんと言ったか? )
私にとって( 上記に述べてきたことは, )またもやあの海辺のきびしい場面みたいだった.見過ごしたか,処刑されたか,どちらか,という世界観( -あの絵には“ 井の上様 ”がいなかった. )

2020-10-17: わたしのすべて
路上の女の子らは私の側をあの物理的な様相としての“ 笑い拍手 ”で占拠しようとしたようなもの.私の側が分裂させられているのなら,私は再び“ ひとりひとり ”を説得しなければいけない。詰まり,即-全員‘ 夢見の実践 ’と。それらは,いわば仮想されたいやがらせのヴァリエーション,( 私は“ 外的障害 ”と捉えていたので,私-自身にそれらとは認めなかったが, )私はいつでも‘ 修理 ’できたに違い無い。
〔 ;“ 現象研究 ”には必ず自動症もしくはオートマティズムの問題が付与されると,“ 道端 ”に対する懐疑が唱えられる。この障害については私のページ殆んどに無尽な労力と書いた通り( 同じ過ちを繰り返すかもしれない“ 受動性 ”の,事前-資料となれば? )

私は“ 受け手 ”なのではなく,
すべてはこちらからだ。
寝床にも私-自身の身体に感覚的“ 依存 ”したような寝方は,余計な労力だ( -“ 頬杖を着く ” )不要。〕

2020-10-18:
深夜.ある別のひとのこれのような,なにか大人びた印象,これにチャンネルしてみる。あの寝際にみられる黄色っぽい光ちらつきのようなもの,読めないがカタカナ印字の( 左右反転したかのような )なにか。..小さな影等が( 壁に張り付いた虫たちのように )素早く一斉に動いて配置を変えたような..
朝.読書の途中,両目閉じて視てみると,やはり黄色っぽいなにかがみえる。それ自体への注視,今度のそれは半ば断片的か( なにかの形みたいでもあるが- )重なり貼り付いたまま動かない( -残像? )
( 不意に )ポテトチップスの赤い紙筒容器がみえた。:
[ おはなしでは“ 85年のお正月か,94年の春休みみたいな ”という。それが“ そのあと( わたしの )創作活動の在った時期にはみえなかった物 ”だと。]

・ 再び‘ 左目と右目とを一点に ’みる。

2020-10-20:
夜のうち,どうにも‘ 夢見の実践 ’に集中できない( 両腕が冷える..ウォーマーセーターが必要か.. )そこで,私の右手にペン回し練習時からのあのボールペン一本を持っているとイメージしてみる。それはすぐに青っぽい均一な色の注射器かなにかのような形に変わった。( 変だな,-性的な象徴の問題ではないのに? )私は何日間かペン回しの瞬間毎に‘ 夢見の実践 ’と条件つけのために言っていたからだ。このような試みは私の生活-フルでなければ無意味だ。
あの“ カージオイド ”のひとはペンが常に指先から離れないような動かし方をしていたのだろう。私はいつだったか学校の教室では退屈半分によくこの指先に中指-小指までを使って鉛筆をくるくる行き来させようとしたものだが( ,ひとりキーボード憶えに換わったからか,以後その機会も無くなった。)
-
〔 直前の夢:
何人かで夜道に歩きだしていた( そのうちのひとりはOT婦人のようだった。)左側-道路際の少しばかり暖色街路灯の灯ったような不明な暗がりから,あの“ からかう ”ような笑い声の気配,わたしはまた気にしないで歩きだす。何台かの駐車場に差し掛かった時,わたしは尿意を我慢しているひとがいるのだと思って‘ その辺でちょっと声を掛けて手洗いを借りてみたら. ’と言おうとしている。
:この夢での場合,グループ的な連れ歩きという行動自体には今回“ 笑い ”が投影されていない。‘ 私 ’という自意識のレヴェルも無いに等しいのだが。私にとっての‘ 私 ’認識の度合いが強ければ( あたかもこれが‘ 夢 ’自体のレヴェルであるかのように, )“ 彼ら ”もまた反応し易くなる。だが,私はもう“ 徴用 ”しなくなった。私は私自身という視点では一度もあのグループ者たちを意図的に利用したわけではない( 私から動かそうとはしなかった。)それらはむしろ記憶的な心象とのコラピーに過ぎなかったのだろう。私が路上に危惧し一々それの“ 気配 ”を反って投影したのだとすれば,これもまたオートマティズムだった。
そう言えば,数日まえの晩,私は久しぶりにWM大通方向からHY公園付近へと自転車で一気に上がれてそのあいだのマスク独り言ぶりにも無関係だったが.,そのあと例の公園に墓場沿いに上がるときにも私は関心しなかったのか,歩道際-墓地すれすれに近づいてみてもあの以前のような“ おそれ ”は全然起こらなかった( だって,石の並びというだけだったのに? 反って私があの“暗がりのピット”に座してだれかを待ち受け怖がらせるとしたら..? )〕

無気味な夢(;2020-12-28 )
“ 笑う ”骸の男イメージ..( 2018-04-21 )

2020-10-21:
私の指先でペンに‘ さわらない ’というように,何もさわることが無いという言い方は,従来の観念的もの自体への‘ 夢見 ’には反している。[ 同一的-夢見否定. ]
しかし,私は純粋に論理と理性に拠る‘ 夢 ’判断は可能だと考える。[ 明晰的-夢見, ]今や‘ ぜんぶ夢だ. ’という見方は必至である。
これは単にすべてを他人事とみなすというのとは違う。“他人事”とは結局-関係性であるから,“わたしの存在する所”を免れないのである。
私の即-純粋感覚としてそれと見れば,キャラクター“ 彼ら ”は眠りの夢-表れと同じか,転訛されたそのものだった.,
私は今や‘ ぜんぶ夢だ,これは睡眠の夢だ ’と言うべきなのである。

2020-10-22: “ 不安 ”は記憶からだ。

・( 予め )ことごとく迷惑と言うという試み。これをわたくしに解-説してみよう。
最近なんでかまた“ 笑い ”のグループ子たちが路上けたたましくなった.
私の中には既に“ 夢見の実践のコウシロウ’オケダ先生 ”だけで,たとえ“ 笑い者たち ”が街路上で私の通る度になにかと受けようが( 拒否しようが, )私は一切関与しない。無論,この点は彼らには無関係であろう。今の私は知りようが無い( 私の心理的環境は以前よりもしんとしていて,良である。)
[ これは私見だが,良心的に持ちたければ,このまえのペンス副大統領のハリス上院議員との“ 討論会 ”でのように(,にやにや顔にではなく-)計な言葉が出なくても,ひとの笑えない方が余程いい。 ]
併しも,わたしには普通の家族からの問題が遇ったし,わたしが生活地域でなにか言うとしたら,人的にはノーマルなだけで,‘ 超-常 ’とした関係の起こし得ない。ここファイル等で私の記した内容が私のすべてであり,私本来の一環境で実験ができるだろう( 私が今後だれかと“ 能力 ”共有するような目的や関係性はここには一切無い。)

2020-10-23: 一瞬間イメージ。
昨夕.通いの図書館にてインターネット席,雨雲レーダー画像に予測つつ,( 面白味無い )自ファイル日記概要-見出し付けのためのメモ作業,不意に眠く..糖質が増えた所為? [ 通常“ グリコーゲンスパイク ”は食後30分の筈だが.. コーヒーの常用が血糖値上昇抑制に実際どの程度効いているか,私は未測定なのでわからないが.. 私はできるだけ自転車お出かけ直前に食べるように習慣化してはいる。 ]
私の体は椅子に掛けたまま,その場に在るいうスペース感の消失したような( 通常そこでは私の意識を保ち続けようとしていた。不意に )薄暗くなにか段ボール箱みたいな物の見下ろされた,ちょうど収納された大きさ白っぽいコードかなにかの一巻き,という不可解な( 一瞬。)
それ自体の印象はあの暗がりノイズ残像みたようで色合いも無いが,その瞬間私の作業との関連無いイメージ,意味不明。
私の質問課題として( 私が通常に注-意している状態からの不意な“ 表れ ”には, )もしそのような“ イメージ ”が夢自体への始まりという意味での連続性なりうるのか,それとも一瞬だけの表れなのか.それ一瞬だけでは私の判断付かない。
今寝床にいて( これの記憶しながら )途中何度か‘ みえないか ’ためしてみたのだが.,( 私の意識が,寝入りに代わる途端- )その度この右手-ペンを持っているという感覚が無かった。今この‘ 右手にペンを持っている ’という感覚自体をこの注意に保ちながら私はやってみよう:

明晰夢見への考察( 論稿 )

My Eyes are Open. :2020-10-24 -

砌と寝目 | 夢見の正体

2018-04-19:
私の右-真ん中近くには未だ踏査できないポイントがある。

・‘ 神と接近する ’。
- この右半身には観念的にから排除されたものが遭った。あたかもそれは“ 別の婦人からの問題 ”といったように投影される。
〔 これの特徴は‘ 能動 ’ではなく仮にの自己-受容、所謂いわゆる“ 自分受け ”態度のように表れる,その体の部分に触れたり触られたりするのを退避する。
右で‘ みる ’,違うひと? 〕。
ところが私がそう意図した途端に( 今,意識無しに )このメモをいつもの左手ではなく右手で打ち込んでいる。それとも私は直前に左手で油に触れたのでメモ用端末に触るのを避けたが、右手で打ち込みだした途端にもう憶えていなかった。

私には前例-書籍に於ける本多さんの(知覚と行為の認知言語学)いう“ 私 ”は他と対象化されたものであるが故に本当の一視点ではなく対象側を問題とする,離れた“ 私 ”であり、それら外界または説明者としての“ 私 ”の側だった。いかに日本人でも“ わたし ”がただ“ほかのなにか”に対処するために仕方有りに“ 私 ”と言うというなら( 一般-言語に際しての問題で, )‘ 私 ’が在れば周囲を存じない。
私が“ 私 ”或いは“ 認知 ”と論じるがために分析的に述べるということが‘ 夢見 ’に直接効果的かどうか? 
“ 近づいたり離れたりする私 ”という距離的な観点 - それとも従来のように外部が存在して胸騒ぎというよりは一体が壊れるの危険( 私は前回あの公園-道路では海苔(:夜道で私の背中が剥がれたりする)をつくれなかったが、視点が離れればその場に心臓麻痺するおそれも )だった。

○ あの“ 舗道 ”イメージに今一度みて私が前述のようにその敷石ブロックひとつをその左側に持ち上げるようにして取り上げたとき、そこには常識想像的に土の面があった。しかしその窪みの上に白い軽そうな球体のようなものが浮かんでみえた( このとき舗道イメージよりもその直前に私がみた別のもの,私はブロック下に‘ 何も無かった ’のでそのイメジングに近いものをみようとしたのだろう )。一瞬その完全な球体にはやや小さなまるい凸などがあった。[ 象徴説として見れば,そのような対象的な球体の表れであり,それの質的なたとえは軟らかいだろう。 ]

2018-04-21: 動かない右小指
私は夕べにもうサマーシーズンのように暑そうなテニス選手たちの試合をテレビ中継画面に視ていた。第2セット試合はこび途中、一画面に、その2名の両足が( 視覚的に )少し長くなったようにみえた。が、そのあと普段通りだった。私は試合画面を視ていたつもりが、私自身の投映をみていたのである。
‘ ボールが飛んでいる ’瞬間にはそれ自体を打ち返すということは二重に難しい。“戦え”ば負ける,“動かそう”とする程に負荷がある。
-後述,‘ 特徴的 ’に映る :14,4-2019

私は前日‘ 白い球体 ’にはなにも見なかった。しかしあとで敢えてその‘ 材質感 ’そのものを与えることもできるのだと気づいた( これが現在となる, )そしてこれこそが‘ ドリーミング ’の核心だったのだということも。

私は“ 夜道 ”怖れていたときの方があの“ むくろの男 ”にはずっとよかったのだと思った。“ 彼 ”は向こうから来るものだったが、今あのしんとしている公園の外れ近くにいて、顔を背けようとする。夜道の反対側に“ フヘヘヘヘッ! ”と笑い声をあげながら、去っていく。私にはそれがなんなのかわかった。
私が‘ うんどうが必要だ ’と言い訳しながらこう書いていると“ バス停に女の子がいる ”。身に入ってみよう。ちょうど午前3時。

“ 骸の男 ”イメージ-(1,2):04-07,2-2017

・( 肉体の境界面を限界としないで )‘ 気の空間 ’をしてみる。

2018-04-22 (1):
- 右足は立ち始めている。

私はこれ以前一度も“ スキーマ ”という語には馴染みが無かった。私-的には‘ スキマー ’と思った。英語に仮にスキミングと動詞活用するなら、なにかの上面を掬い取るとか、鳥や石での水面を切るような動き自体をいうだろうが、‘ 夢見 ’言えば、主に視覚と感覚との表面的な次元に、見えない全体が在るのか。

私はカルロスカスタネダ“ 無限の本質 ”がいまだに全体像無しに私の室内にあったので先生これ読み直してみようと久しぶりに便所に置いてその度1ページ毎少しずつピックアップしている。その“ 意識の暗い海 ”という章には、このように述べられてあった。〔 引用 〕:
ドン・ファンは私が師事した全期間にわたって、夢見は古代メキシコの呪術師が発見した技であり、この技によって、普通の夢が知覚の別の世界への紛れもない入口へと変えられるのだということを、委曲を尽くして説明した。さらにまた、彼が夢見の注意力と呼ぶものの到来を、考えられるかぎりの表現を用いて力説した。夢見の注意力とは、普通の夢の構成要素に特殊な注意を払う能力、あるいは特殊な意識を置く能力なのだそうだ。〔 中略 〕
ドン・ファンはまた、呪術師は二つのグループに分けられるとつねづね話していた。一方のグループは夢見るものたちであり、もう一方のグループは忍び寄る者たちである。夢見る者たちはやすやすと集合点を移動させる能力をもっている。一方の忍び寄る者たちは、やすやすと集合点を新しい位置へ固定させておく力の持ち主である。夢見る者たちと忍び寄る者たちは互いに補完しあい、一組になって仕事をし、生まれながらの気質で影響しあう。
ドン・ファンは、集合点の移動と固定は、厳しい訓練を重ねた呪術師なら意のままに行なうことができると断言した。彼の系統の呪術師たちは、人間である輝く球体のなかに少なくとも六百個の点が存在しており、意志の力でそこへ集合点を移動させると、それぞれが完全に包括的な世界をわれわれに与えてくれると信じていたのだそうだ。つまり、それらの点のどれかに集合点を移動させ固定させると、日常世界と同じように包括的で完全な世界でありながら日常世界とは異なる世界を、われわれは知覚するのである。
ドン・ファンはさらに説明をつづけた。呪術の技は、集合点を巧みに操って、人間である輝く球体上で意のままに場所を変えさせることなのだ。そのように集合点を操った結果、意識の暗い海との接点が移動し、その付随物として異なる無数のエネルギー場がもたらされる。このエネルギー場は輝く繊維となって集合点へ集まっている。新しいエネルギー場が集合点へ集まると、日常世界を知覚するのに必要な意識とは異なる種類の意識が活動を始めて、新しいエネルギー場を感覚データへと変換し、その感覚データが解釈されて、別の世界として知覚される。というのは、それを生みだすエネルギー場は、通常のエネルギー場とは別のものであるからだ。
:私、潜在的にでも果たして認知的-意味的600それ以上もの参照点が有り得るか?( 必然、能動的に解明しよう )。

昨日迄の私日記( 概要 )には‘ 夢に補充する ’という実体験的なメタファーとして書いたのだが、私はあとで読み直すうちにその“ 補充 ”という単語に不正確-不充分だと思い直した。私は夢に対する補充の要員か? もっと的確な単語がある。‘ 夢を充てる ’と、更に言った。
私はその日記中に敢えて‘ 明晰夢というワードでのgoogle1位奪還 ’と、あたかも挑戦者として書き加えてみたのだが、全容的データひつじに自ら挑んで“勝敗”をするということも既に不可能であり、私はそのようなベクトルの本性と表れとを私自身に判別する。

- 物自体に本質をみる〔 普段の訓練中 〕。

・簡単に覚え易い物から始める( 必ずしも視覚的像の眼に映ったようなくっきりとした光景を‘ 想い浮かべよう ’とするも無い )。‘ 夢見 ’という呪いを解いて。

2018-04-22 (2):
〔 - 私は六面体パズルにも私の‘ 身体的-記憶 ’が伴う場合の方がうまくできると気づいた。私はこの何年間かすでに感覚的印象を持たない-投射しない試行錯誤のパズリングだけを単純に繰り返していたのである。しかし、今一度これを‘ 物 ’とすることは可能である。 〕

‘ 生成物 ’自体?
つるまない自転車帰り路に私は私の体-腹部右に‘ 薄ぼんやりとした暗い穴 ’のような( 私がそれに注-意を向けると他事は無くなる )が遇った。私が久しぶりにカルロスカスタネダのお話を読んだことが[ 22日(1)-引用分,現在表示無し. ]作用したのだろうか? 私はなにも意図しなかったが、ちょうど昔‘ 金縛りに依る体外離脱 ’毎回その状態に痛みを覚えた体の箇所だったので( 私はその頃これには‘ ある再現 ’説とは一度も考え無かったが, )私の記憶的なものかもしれないとも思った。
しかし、そのときには私は考えなかったけれども、こうして‘ 暗い穴 ’と書いてからの私には、あの夜道-公園ルートでの“ 駐車スペース ”に( 不可視か私の恐れの所為で,あとで再度確認した処では、ただ舗装されただけの公園内へのスロープ部分に )‘ 薄暗いホール ’のようにみえたという、あの晩の印象自身〔既述〕と同じ類いのものなのでは?という後付けながらの想いではあった。だが、これらは連想で、具体的関連性が見当たらない〔 そのあと私が最近夜中にみた処では、その付近に工事現場があるからか荷台用トラックの白い頭みたいなものが一台置かれてあった。 〕
私自身の“ ホール ”はそこには無かった。あのホールも、あの“ 医院の入口? ”も、あるイメージで遇って、おそらくは私の体内的に想像される一見自動的な印象の一種だった。

2018-04-23:

いやがらせ映画?
連日例のチャップリンひとつも返却されないので( うちの図書館で“ チャップリン短編集4 ”とラベルが貼られているDVDは詰まらない内容だからか、先週以来それ一枚きり置かれている,N×Kに放映されたBキートン含めての1時間特集番組は前年分からの再放送だったそうだが、DVDビデオのひどいぐにゃぐにゃ画質と比べると、フィルムから再処理されたものか粒子状までみえる画質だった )、“ 市民ケーン ”? それから“ 華氏451 ”借りてみた。私が一度もオーソンのタマゴ頭を視ていなかったのでマーロンブランド-コーツ役の“ ホラー… ”だったというように、ある別のヒンジが回されていたという場合。
“ 華氏451 ”( 私は一度そのタイトルに視たと思っていたが、私にはその場面的記憶はひとつも無かった。婦人2人が歩道上モンタグの背後に追けるようにして歩きだすというカットにだけ、なにか微かな記憶のようなものがあった。あとで想うとこの首の付け根が剥がれそうだ )懐かしいカラー撮影調。
“ 電波受信アンテナ ”等ズームというその映画最初の絵に象徴されたように、この映画には‘ 中心の暗さ ’という観点がある。淡々ともみえる表現で、いくつか昔ミステリー話みたいな印象は遇ったものの、それらがどれも一度きりで( 学校通路での“ 消えた荒川少女,ふろしき包み ”シーンは象徴的ではあった。“ Montag ”は彼自身として疑問符にしない側だった )それら表れが不透明のままだというところに70年代映画風の問題があった。
この映画には‘ 観客視点への仕掛け ’が無いという点では、単にお話上“ えっ?電波って? ”と言わせるだけで、林の中に人が横切るだけのラストシーンに、私は暗がりの中に監督自身のチェアー姿がみえるという絵を付け足そうとする。

- 課題,右の体に触れられるのを避けようとすることの原因? 私がこの‘ 匂い ’をみようとすると右手はやはり動く! だが、・私は右の‘ 堅い ’を再び私の中心( 夢見の実践・明晰夢トレーニング )化する。

- 言語化された( 発音と結びつけられた )意識は、常に二次的で、遅い。‘ 夢見 ’にも、このような考え方自体に依拠しない( 反応的な速度からにしない )直の生活である。
〔 あたかも‘ 右半身 ’的とみなされるこの意識、記述言語に長けていないと目されるゆえに‘ 復帰 ’の可能性がある。 〕

2018-04-24:
あの“ ホール ”イメージには、もっと以前からの原型のようなものがある。私はそれを“ 窪み ”というよりは“ 小型円形ホール( 凹みのルーム性 )”と同種のものかもしれないと思う。私はこのイメージを能動的利用できるだろう。
・ホール-ルーム( 石製の円形床 :26,10-2017 ■ )

偶然

2017-05-10:
私が六面体パズルを回していると最中( なにか婦人の痛みしかめたような顔というイメージに )‘ 災害が来ている ’というおはなしがあった。その4秒から5秒後,家の西-片側( 居間での私の右 )に突然地震が来たような震動があった。午後11時13分。ニュース画面の表示では震度1だった。
今夜テレビに“ 最後のジェダイ ”初予告画像を視て‘ そう言えば昨日久しぶりにスターウォーズが気になっていたな ’と思ったのだが、これも逆玉か? 私は先週偶然“ ブレードランナー2049 ”初予告画像が放映されたのを視たのでそのハリソン・フォードのふつう顔が印象にあってそれが‘ そろそろ次のスターウォーズのイメージでるかな ’という連想になったのだろう。

2017-07-23:
私は今朝もうひとつの偶然的印象があったのと私のブログ更新後の帰り道で思い至った。
今朝5時まえからの自転車うんどう中の私がK山駅前に通り過ぎるとき雨が降り始めていてちょうどT図書館方向への途中( 流町 )で雨宿りしなければいけなくなった。私はそのまえにN駅方向からSh町-S橋西へと通った。おそらくそのあいだに建物等のひとつの前に薄茶色っぽい砂岩のような表面・噴水オブジェみたいな形状の物があるのを偶々みた。それで連想的にインドの“ リンガ ”のように石のまるみから水が湧きでているというイメージがあったのだろう。しかし、偶然に例のテレビ番組予告( 名古屋の湧き水 )と視たのは私がそのあと帰宅してから偶々だった。私はその時には“ リンガ ”想い出さなかった。
私の予想通り、T公園のその湧水というのはまさにあの地下へのステップ下辺りにあったようだが、私はあの地下のS店内には一度も入らなかったしテレビに市役所職員が案内して映されていたようなガラス越しにみえる堀のような部分を視たような記憶も無かった。( 番組では語られなかったが、その水が常に流れ続けているならそれはどこかへ必然排水されていなければいけない )。

幻像と記憶( まぼろしの出入口 ):2017-03-19

未だにそれら図書館等からも道端で笑った子たちからも連絡が無い。私は全員から素直な謝罪がもらえると思っていた。心当たりのあるひとたちが私のページにアクセスして的確に彼らに現在の私の記録等から情報化できるように取り計らってほしい。私への“ 笑い ”という対応の根源がどこにあったのか、“ 咳払い ”にどんな意味があったのか( 私は単純にその子たちの自意識過剰が原因?と思ったが )報告して今後の私を安心させてほしい。

2017-07-24:
私は今朝の自転車うんどう中にも東大曽根で交差点の向かい側に来ていた若い男子たちの挙動や婦人たちの目線に不審者と思ったので、私は絡まれるまえにとスピードを上げて走り過ぎた。
長年の疑問として、英会話イーオンや富士フィルム関係や鶴舞中央図書館などが私の訴え自体の正しさを認めようとしなかったのが近年私自身への風評被害を更に難しくした遠因になったのでは? もし人々の理解が無いままに私がひとり首吊り自殺させられていたら? 
私はこういう被害者のために常に支援・連絡が必要だと思う。

2017-07-25:
私は夢見の実践に私のうんどうと一致するという点に再度自覚したい。
例の本山交差点から八事交差点までの道路長さを縮尺地図に測り直してみたら、片側3.2km余もある( 平面地図なので上り下り傾斜は計算外 )。実際に走ってみると半分くらいの感覚だが、昨朝・今朝とも私は一周だけして覚王山に戻り,途中また雨が降りだしたので栄バスターミナルで雨宿り,それから笹島までまっすぐ。合計では毎回30kmといった処。以前NHKのチャリダーか別の番組だったか、サイクリングの両足ポジションとして足底の真ん中に近い部分をペダルに着けると言っていたが、私は裸足の足先等を使う癖があったので( 動物が四肢で枝を掴むときのような )土踏まずではぜんぜん踏めないと言いたい。たとえば親指でペンを握らないというような“ おんなのこ ”向けの言い方? 
サドル無しでフルに両足体重漕ぎには馴らしが必要だ。それともペダル等にもクッション巻いて裸足-復活してみるか。

2017-07-26:

今朝、先にあの茶屋が坂_自由ヶ丘のルートを上がったからか、昨夜-風邪が出たからか、本山からの一周にできなかった。名駅前に向かう途中では少し遅い時間だったので出勤・通学の人たちを避けなければいけなかったのだが、なぜだか自転車カゴ前に斜めに傘を出したり真正面に傘先を向けたまま歩道をいく20代くらいの女子が何回もあったので気味が悪かった( その全員がどちらかと言えば華奢な婦人だった。以前一度デブの中年婦人に同じ持ち方を見たことがあった )。
私は不思議だったので不全-代償行為かもしれないと発案してみたが( しかし私は雄としてはライフルは危険扱いされるものだから少なくともホルダーから抜かないか邪魔にならないように片側に添えるようにはしたと思う。昔ならもっと婦人側が警戒したものだろう )、それらが単に不注意な物真似だったとしても“ 擬似的な振り ”と見なされれば社会的-制裁の対象とされる。
最近、自動車道-外側を逆走するのも若い女子が目立つ( 先ず警察ホームページに幾つかの罰金扱いがあるのを知ってほしい,これらに実効が無いのはおかしい )。歩道上にも若い女子の乱暴なすり抜けがあるので、私は更に慎重でなければいけない。

私の今日の‘ 当たり ’は、朝方のうちに‘ 午後2時には快晴がある ’。朝の天気予報では昼間の晴れマークは無かったので私はどうかなと思ったが、午前11時頃には久しぶりにフル日焼けの機会があった。

2017-07-27:
朝、私は起き上がって私の両足-付け根と‘ 夢見の実践 ’とがいつのまにか関連しているのと気付いた。私が立って歩いて私の両足-付け根に感覚があるとそれが意識される。私は( これ以前 )両足伸ばしのために私の両足-付け根をまっすぐに下ろすといってはいたのだが、これが‘ 夢見 ’に関して一致したように思いだされるというのは、私が寝ている最中にか、ある緊張感として私の意と結び付いたということだ。
私は( 前日書いたように )うんどうと夢見とを一致すると記したのだが、この体の特定部分への‘ 伸ばす ’働きかけが直に‘ 夢見 ’と連動するという可能性はユニークだ。

2017-07-28:
夜、その桜通の“ 笑い ”グループが度々いた所を地図上に確認しようとして視ていた処、その南に“ 入江町通本町 ”という表記があった。{ 私は最近また“ 世田谷一家事件 ”に透視しようとしていて、“ 入江IrieAnn ”という名称にもアクセスが必要だと思っていたが、掛かり付けの図書館等-端末ではツイッター・フェイスブックを閲覧できないという障害もあって、私は杏さんのコメントにはご無沙汰だった。 }そのとき居間に“ 世界水泳ブダペスト2017 ”放映-音声があってちょうど“ 入江 ”という選手名が連呼された。
他の人にもシンクロがあったかどうか私は知らないが、こちらページの読者等にもなんらかの偶然はあるだろう( あるいは頻繁に )。私があの邸宅イメージには( 今夕-試みでは )、らせん状か二重巻きの糸に下げられた飾りのようなものが幾つもぶら下がってあるような様子。中国か沖縄の伝統舞踊にあるような笠付きの衣装・化粧の顔。
私は( 事件現場 )室内写真等があれば透視できるというひともあったのだろうと思う。

2017-07-30:
‘ 偶然 ’をから私自身に生かす。
朝うんどう,やる気無し。首・肩の痛みなど両腕への負担が原因か。余り足に障ると寝込むので先に名駅前まで行って雨降りまでのタイミング測ろうと。ある郷愁みたいなものか( 時計忘れたので駅舎正面の黒い針時計に視ようと )、もう無かった。子宮の中に眠ってみているという逆の構図ではないか( 秩父通の歩道でえらく痩せた斑猫ぶちねこが私の横に歩いていた )。

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骸( むくろ )と光

2017-02-04:
内部性-活を無しに( すべての内的問題は自己処分として解消されなければ )。“ 対象 ”を解放する。

2017-02-05:
.. その路上にはまったく穏やかでなにも変わったようなことも無かった。むしろ通り慣れた筈のHo町付近に信号をみて停止したら、その一瞬なにか男の顔というよりはむくろになりかけたようなものが? そこが“ なんかの事故現場 ”だったのかどうかは判らない( その41号線の反対側ガードレールには長らく花などが添えられてある )、私自身の原因としてそのようなイメージがあるのかどうか? 

私の腰上で腹の両側を引き締めると両足に楽に動かせるとわかった。帰り道途中の半時間ひとりお喋りと同じで、私の体は未だオバサン状態を居残っている。‘ 夢見 ’自覚率は低い。

帰着後の偶々テレビ画面に金色仏像が写っていたのだがその両目がうっすらと開いたり閉じたりしているようだった( インターヴュー・ウィズ・ザ・ヴァムパイアーのあれかな? )。

2017-02-06:

私は私の脳をコンピューターとして活用したい。幼い頃の私はまるで親たちのそれのような感情的障害自体を解明できなくて余計な労-費をはらわされたようだった。しかし、もしわたしが小学生の頃に本気でルービック・キューブを試したいと思ったなら、わたしに“ 誕生日 ”と映画オリジナル演奏版レコード1枚を聴くのではなく、私がそれを求めていたに違いなかった( 私には“ 算数キット ”が無かった )。

私は久しぶりに夜を徹して“ 死因究明 葬られた真実 ”という本を読んでみようとした。昨年末、図書館名義でリサイクル資料として放任された図書等の一冊で、私は悲しいに陥るのがいやだったので読み付けなかった。

私は途中それを置いて一旦寝床にまっすぐになってみた。夜の道路脇にもう一本の散策路か歩道が分かれているのがみえた。( あたかも私は自転車で移動中のときみたいに )そこに上昇しかけた処で、向こうからあの骸の男に似た暗い姿の自転車乗りがあらわれた。

〔 私は対立的“ 2 ”のお喋りをやめようとしたのだろう。私は私自身に観念的であることはそれらへの依存という問題だと思っていた。
ある感情的な筋書きが別の“ 対象 ”にすり替えられ対処違いになっていたような場合があったように、普通の“ 夢 ”にもなんらかの合成があったと思われる。 〕

今日テレビニュースにニューヨークなどでユダヤ教会堂に“ わたしヒッ×ラー ”などと落書きしては消されているような者があるという。例えばわたしが“ あなた そうかがっかいか! ”と訊かれたことがあったように、そのヒッ×ラーいうような者も“ あなた そのユダヤなんとかなの? ”と言われただろう。たぶん“ ある引き籠れなかった子 ”のようだった。
そう言えば、映画“ ミュンヘン ”にオリムピック選手のひとりが室内で普通のブレッドみたいな物を小さい包丁でカットするという絵があった。

2017-02-07:
私今夜出ない。
あの昨晩の‘骸のような顔’を想い起こそうとしたら、その印象と同時に私の腹部が反応したかのように緊張した。もう一度‘ 見よう ’としたら下腹前部の筋肉が微かに動いた。
私自身なにも性的なものをみたとは思わないが、印象発生の原因自体がリビドーだという見方でなら、どうしなくて鎮静化した( 私がやりたがりを自然停止した )と思われたときに不意にイメージ化されるような機があるのだろうか?と不思議だ。
あの“ バカ笑いの子たち ”の原動がなにに利用されてどう発したのか、特に私に向けられたものだったのかどうか私が知らなかったように、私自身にも不明だ。むしろこれは‘ 死んだような顔 ’という私の言葉で形容されたその心象との表現かもしれなかった。

そう言えば、しばらく前からグーグルの簡易アナリティクスで私のページ等に関する検索ワード類をチェックしてみると“ 骸骨 顔 ”での検索件数が連続していたが、私自身が以前‘ 骸骨の顔 ’という特定日付タイトルを付けたのを私はもう意図的な文脈では憶いださなかった。私が当時その題名を付けたのは‘骸骨にも顔がある( みえる )’という意味合いであった。しかし、例のように金色像の両目も開いたり閉じたりする瞬間がある。

更に‘ あの散策路 ’をイメージ想起しようとした処、‘ 骸 ’姿は無く、ちょうどそこに昔の‘ 夢 ’にあったような青い発光があった。

私の近さ・意識とアスペクト

2016-05-29:
意識を持続的に保つにが、‘ 睡眠夢に対する私の接近度 ’は少しずつ増している。ある夢の場面に対してそこに私自身を付与しようとした。私は予めその夢に負けているような状態なのだが、要はそれらに根本的改革が起こらなかったのを問題視していれば( 夢に対して‘ 目覚めて ’いれば )なる。
私が上記をメモに付けている最中ある音楽が繰り返し鳴っていたように再生されていた。私は‘ あれはわたしが眠り込まずにいたときに映画ビデオの待機画面として自動的再生されていたのを聞いたときの記憶だ ’とすぐに分かった。8年またはそれよりも前の記憶だ。私は“あのディスク版”という記録は‘ 私が起きていなければならないが不完全な状態にある ’というその記憶関連だろう。

睡眠夢には制服高校生男子の一団みたいな者たちがわたしの髭をからかうのでわたしがそれに対して質問するという悪夢だった。
( 私は一々他人の髭を気に掛けるような者に変な子供だと思った。私は他人の髪の毛一本にも触ったことは無い。もし、ある者たちの連関がわたしに“ ちゃん ”呼ばわりする側の子どもと直系だったのなら、それが表立っていようと潜在的であろうと私はその全員を断った[ ここにはその目論見の自身は無かった。]
それらは“ かわいい ”というミュータントに変わったときに“ 憧れまたは催眠力 ”自身であった。だが、それも自身のストッキングに自身を包むという反映の問題であった )。
私は一方的に若い時代のままに私の人に押し付けるような幼稚さを決して信用しなかった。私はなれなれしいだけの家族面ぶりっ子を否定してきた。私が睡眠夢にやられていたように、私側の無いものはおそらく偽ものの影に負けていた )。
それとは別に、後の場面ではわたしは知人のような者と電車の中にいて私は向かい側に乗客たちの姿を視た。そこでは私は一見女性のような姿にも“ 性別 ”を気にしていないのが分かった。

2016-05-30:
雨の夜、わたしは両目閉じて‘ 夢 ’シミュレートしてみる。
また身体にあの微かな振動があった。

先々週頃まであの図書館にも一々私の名を口に出して云うような招きがあった。私は写し口の喋りにはいっぺんも感心しなかったし、現象的だとも思わなかった( むしろ現象は非言語レヴェルである。‘ みる ’ためには意識的熟知が必要であろう )。

薄暗がりの現象

2016-05-18:
この体は寝かしておきたいがわたしは常に‘ わたし ’でいたい。
朝方まで寝付けなかったので‘ ゆめみのじっせんとご検索ください ’と言葉で言い続けた。しかし、これはどうしても本意ではない。わたしはわたしの体-末端にまで‘ わたしの体のどこかに夢見の実践でないものがありますか? どうですか? ’と訊ねた。そのときわたしはわたしの背中に両羽根のようなものがあるという軽い印象みた。‘ わたしは天使なんだ ’とわたしは思った。

2016-05-20:
わたし薄暗がりに視ていると、‘ 霊-体 ’が動いたかのようだ。以前も寝着き端の視界に動きがみえるとわたしは注視してみようと頑張ったものだが、未だそれが直接夢になるというような始まりは無い。
わたしはまた‘ 霊-体 ’をためしはじめている。‘ 霊-体 ’が動きはじめると( お祓いがベクトルに代わらない限りは )シンクロ的だに認められるような現象になる。

2016-05-21:
ことにはベクトルがある。動機? 本物の原因、本当の理由。


意識と現象
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Kohshiroh Okeda 2016-