骸骨の顔

2016-11-20: 私の風邪をやめなければならない。
夜、M越百貨店前の歩道でまた若い外見のにこやかな警察官たちから‘ 裸足で大丈夫ですか ’という言葉があった。
〔 私は先日14日の夕方その歩道傍に消防士たちや不思議な“ 救急ストレッチャー ”を視たのも、そこではもう想い出されなかった。私の未発表日記の部分には“ 私がその先で視たその運ばれるストレッチャーには白い覆いみたいなものが固定されたようにあったのだが、人体があったとしてもその包み自体はまったく整然とベッドメイクされたもののように清潔そうで‘ 慌ただしい現場 ’を想わせるような様子も臭気も無かった。” 〕
このまえN駅前タクシーロータリー付近の信号待ちでも聞かれた。私は後で私自身の理由があるのだろうかと不思議に‘ 靴が欲しいんですか? ’と私の本心にたずねてみた。‘ スポーツシューズ? ’
〔 私はこの日記の数日後にはもうこれを想い返さなかった。〕
私は私の肉体トレーニングには素足の方が便利だし、今晩は昨晩と比べて気温が高めのようなので、私は内履き3枚分と元ネックウォーマーに半パンツだけで私の足先にウォーマーも着けなかった( お尻あたりにウォーマーを巻くと不格好で逆に腰に悪くするおそれもあるが、冷えは感じられにくい。)
私はまったく‘ 外界そのものを呼吸している ’ようだった。もはや人間風のお喋りなど不必要だった。

2016-11-26: 放埓ほうらつと肉体

私は両足への面倒見をやめた。
何事にも無く面倒見をやめる。
‘ 伸びたい ’という両足自体の衝動を神経的ポテンシャルとして、放任する。〔 従来私の両足が伸びなかったのはそれらが性機能には重要な部分ではなかったからだろう 〕。

朝方、あたかも女が寝床の私の耳許に囁き掛けるように“ 12月まで貸してもらえますか? ”と言うような夢があった。有名演歌歌手の顔だった。
私は即お金の貸し借りと連想したが‘ 女 ’の側が生きていて私のなにかを‘ 借りる ’と言ったのかもしれないとも思った。私は最近フランスの時代風の曲をアレンジして口笛で吹いたりしていたので、以前テレビで“ ウイスキーはお好きでしょ ”の歌にフレンチ風のアレンジメントと演奏されていたのが( 私はもうワインもビールも4年程一杯も飲んではいない。私は“ ウイスキーが ”とは言わない )私の口笛の節と自動連想されていたのかもしれない。

以下-原題: 難癖と自転車 | 消える転倒事故( 自己 )

2016-11-27:
両足自体に達する。私の体は排便し切って完全にリラックスすると寒くなくなる。
午後10時過ぎ、私が肌に感じるかどうかをポロシャツ・半パンツだけ着て路地に出てみた直後( 室内に戻ったら )私の両手両親指の先だけが不思議にひんやりとした。

2016-11-30:
私は誰かに子どもたちを誘導し差し向けるような‘ うらみごと ’があるかもしれないと、仮に無関係の他人をそれと報せずにまるでそれ自身の目的であったかのようになにかに誘導するようなものがあったなら、それは‘ まほう ’だった。
私はその名前付きで書いた図書館宛てのクレーム一部をまた反対向きに逆の意味合いに読み直してみた。私は私自身について書いただけだろうか。
( 鶴舞中央図書館には来館者どうしの殴っただの殴られただのというトラブル等が時折あった。私がネット端末に通っていた時期にも警察官が呼ばれてその2Fに来たのを偶々みたことがあった )。

私はずっとニセモノを負っていたのだろうと思った( あたかも外的とみられたような内部反転ひとつひとつに私は読み解こうとした )。私が完全な私自身で有るだけでよかった。
私は自転車どきに‘ 体ひとつずつしっかりと動き ’を心掛けた。私はもうなににも“ 目 ”を遣わなかった。私は“ 少年たち ”に咎めるような振りをするのはやめた。

2016-12-01:
(1) 外的反転という要求? 
この処、まったく‘ 外的反転を自己責任で解消する ’という作業であった。私は私の‘ 外的反映 ’をあたかも他人にそれみたように尊重するという2重の間違いだった。そしてそのような間違いに対するかのようにバイアス( 振れ自体 )の可能性を見ようとするのも3重の間違いだった。
しかし、今思えば“ 対外離脱体験 ”には私の意識の分離自体が無かった。だからそれは物理的に捉えられるような問題ではなかったが、‘ 私の身体 ’をコントロールするという作業と‘ 私の自覚 ’とは何時如何なるときも一体で有るはずだった。ところが、私は他者に見たり聞いたりしたと思う瞬間にはそれらを自己的コントロールできなかった。

(2) 放棄・撤収
眼鏡を掛けるよりも前の私はもっと強かった。室内眼鏡や室内厚着が必要だったという難癖は、昨日しんだ。
私はまた私の下半身には短めのスパッツと半パンツだけでいってみた。どうして厚着だと逆に冷えがきついのだろうかと考えれば、私が‘ 反転 ’していたように衣類自体に面倒な‘ 身体反転 ’があったのでは?( 例えば暖房機への絶対的崇拝というものもあるかもしれない. ) 私は既にアンダーウェア自身とのフェッチではなくできるだけ私の肉体自体で在りたいとおもっていた。
〔 私が街で‘女の子の顔を視たがる’という、ある種のウソがあったと私は思う。もし“ おと ”が気になるならそれは関心自体の興味だというのと同じことで、私は“どこでも”そういう誘導的なウソ自身に乗ってはいけなかった 〕。
私は“ 幽-離 ”とは言わなかった。

2016-12-03:

私は“ 崇拝者( 求め )”をやめたときにだけ私の両足が‘ 伸びる ’のを覚えた。
私のうんどうの試みは私自身の一致のためだった。
最近毎晩私の自転車のとき歩道に古い買い言葉のようなひと言を叫んだりする者ひとりふたりいたが、私は私の両足うんどうを優先するために否定していた。
〔 私からは‘ 私のおはなし側としての関与は無かった ’という影響否定の態度であった 〕。

夜中、外気はかなり冷え込んだ。私はポロシャツ2枚( 内マフラーを着けるのだがこれはまた疲労の原因となる )と3分丈スパッツ・半パンツ等で自転車した。私の体に“ 寒さ ”をやめたかった。
ある交差点手前に赤信号で私が止まったときその無人歩道側の歩道橋階段になにか別のものがあるようだったが( 私は真夜中ひとりきりでも不思議な個所にはじっと黙視してみるだろう )判らなかった。

〔 私はひとりうんどうのために‘ 街なかの烏合の衆 ’を消したかった。無論、私自身がオバサン論理に乗ってしまったというかどで一々責めを負ったのは当然だとしても、それらに他からの障害だとして2重苦や3重苦にかすのは間違いだった。私が私自身‘ かれら ’といって残しながら‘ 私は視ません( きけん )’というのでは転倒自己だった
私はひとめない私ひとりを優先できる筈だった 〕。

例のK区41号線サイクラー事故死のあったとされる場所で( 一見本物の百合かなにかの蕾2つみたいにみえる花などがずっと置かれたまま )私はまたその花を視たが、その直後なにかこちらに抱きつこうとするような四肢の動物的な感覚というかイメージのようなものが一瞬あった。その顔は黒髪のひとの頭みたいでもあったが、なにかその布団みたいな胴体と四肢の各付け根に赤い帯のような部分等があった。見覚えの無い不思議なイメージだった。

2016-12-09:
今日私は額に錆びた鉄杭を打ち込んで寝るようだ。昼間には( 連絡の無いT中央図書館を )12月末までに機能停止させると思いながら、今度は血の汗をかけなかった。〔 これはたとえではなく、8年前に数回他で試されて一度もされなかった手法だった( 終.)
今週Hy大通付近の街路で自転車の私に“ うんこ ”と声に出して言ったりする男子がいたが、不図それとは別に最近私が食事に赤唐辛子のフライなどを使っていたので、その匂いで7年前の件を再起するような者がいたのかな、と私は物理的原因から思った 〕。
それが実行されていたら‘ 論理的に個人的自由を正しく通した ’と言ったかもしれなかったが、片付けにまた余計な労力と資金を強いただろうとも思われた。私はこの日のうちに放棄するというよりは私自身の問題だったとして再整理するを正当と思い直した。

2016-12-10:受信機ではなく、原動機である。