‘ 自発夢のために ’
【 私の夢を見る方法 - 私の夢をコントロールする 】

“明晰夢”というワードについて:2023-12-17 付足

‘ 夢見の実践 ’という言い方が単に動的であるときにだけ有意味で、ある‘ 夢見 ’という基本原理がこれとして成立しなければ心理的な体験性の面白味自体は有り得ない。
“ 明晰夢 ”という語は今も不可解なそれ自体である( たとえば白っぽい起毛の寝具をみた瞬間に私は‘ ベイビーのふんわり ’というが、‘ わたしたちの郷愁 ’とは言わないだろう )。わたしは“ 明晰夢 ”という語に知的なレヴェルの探求と言及するかもしれない。私は今こう書きながらむしろ‘ 夜の砂漠に巨大な月面が昇りはじめる ’という処にこそ“ 明晰夢的 ”と言うのである。

私の夢を見る方法
夢見の技法のための法則化,最初の自覚-夢( 随時-更新: )
〔 ここでのタームは先ず‘ 遊離からの復活 ’,
“ 意識される ” - “ 注意する ”; 〕

・食べ物や異性の瞬間‘ ’。
〔 通常の興味関心が当然であるような状況で、敢えて優先する。〕
・もの想いと同時に‘ 注-意 ’してみる。
・想わないで‘ ここにみる。’
・私ひとつ目としてみる。
・‘ 今これは夢である。’
・‘ それは夢だった,’対称に‘ これも夢だ。’

・夢自体の表現があるとき、これらと見分ける( 夢自体へと帰る方法 )

[ より詳細は本編( 主に日記式にて,最新記述-概要リストで現在表示。下段リンクまたはメインメニュー;)]

【 原初と自覚夢 】
原初というものは時間-空間が分かたれない、ふれられない。物事を自覚するにはなんらかの“ 対象 ”が必要だが、これは完全に内的でなければいけない。仮に外的事物等が関係無しに擬似的なキャラクターとして利用されると、それらと外界とのずれが実際問題ダメージとなる( ネット上では、このことについて“ 明晰夢 危険 ”という結果論だけを示したレヴュアーも遇った )。
私は“ 自覚夢 ”という語には簡素に‘ 私がその場に夢だとわかっている場合 ’と示した。すなわち普段通りの‘ 私 ’としてその場になんらかの行動ができる( 可能性 )。
対象としての自己がそこに表れるということを予め前提とすれば、完全‘ 私 ’としてそれに処する。

夢見の実践f: 資料ファイル編( 別枠 )
( 主に読書引用資料等,私の夢日記本編からの再収録分, ・私はどうして‘ 夢 ’だと気づく-か? )
[ 2023-12-10; 本編よりの再録として( Q&A式-1から16に限り )夢見の実践f:資料ファイル編( 主に引用読書と抽出等ファイリング )に,“ 明晰夢見のための推考と論考 ”と題してひとつにまとめました。今,新たに更新の可能性もあります。]


【 旧-説明 】:明晰夢は危険? “めいせきむ きけん”?
わたしはだれにも問わない( 夢は基本的に“ 分離 ”だいう見方は正しいのだろうか? )。
ここでは‘ 自由の夢見 ’といえばよかったかもしれない。わたしが“自覚夢じかくむ”という用語を知ったのは、25年くらい前だった。当時わたしは絵やお話を描いていた。しかしわたしは未だ夜の夢にわたしの自由に描こうとはしなかった。だから夢は詰まらなかった。
( ? 夢見の術
私は1998年までにはカルロス・カスタネダのような著作家の本などをひとつずつ読んではそれらを私自身の神秘的世界から私の夢見の領域に新しい可能性を見い出すのだと思っていた。構造的に言えばそのときの私は信じていた。本質は外的( 物的 )様相ではなく私のどこかにあったから。
私は今日偶々ある夢記録を読んでみた。そのひとには“ 来るもの ”への不安・恐怖と書かれていた。それらが内的現実ではなく外的ななにかの来訪であるかのようにみなされたのだから当然だ。私にはもう‘ 外から来る者 ’という構図は無かった。それらは既に‘ 私自身 ’偶像と説かれていた。それらは不安・恐怖自体の夢だったろうか? )
なにかわたしには預かりしらない理由で、こわがっていたのだろう,作り手の自由といういい方を。

未知のものを知ろうとする
わたしは夢に現れるものを‘ 現象 ’と呼ぶようになった。しかし、夢自体として現れるようなものには( わたしが簡単に辿れないような )合成の場合もある。‘ わたし ’という視点がここにあるから、わたしはもの自体であることはできなかった。いわゆる“ きけん ”の要素はこの‘ 見方・言い方 ’にある。

心象的にみる
心象的にみるとは、夢自体に最もちかい。
だから、私として単に‘ 観察 ’しようということは、これをやめてしまう。外部的な理屈や外部的な関心によってわたしを規定したり方向付けたりするのは無理だ。

身体的な関心・興味
私の経験として、‘ 夢見の身体 ’があれば夢体験もある。‘ ある( ここにある )観念 ’といったほうがよいかもしれない。
わたしにはこれが難しくなった。わたしの関心が外部的であればわたしの夢見はできない。これは‘ 私物化 ’し同時にされるようなものだ。同時にほかのだれかがいいだすかもしれない。
わたしの観念は他人には通じない。人であろうとすればわたしは想いの込みをやめなければいけない。
私は敢えて本編にも書いたが、‘ 現象 ’自体が外部的におこるというのは変なことでわたしはおすすめしない。
‘ 身体的な夢見(夢の身体)’が可能のときにわたしはみるだろう。

? 夢見の実践とは
自覚夢と明晰夢の記録( 前 )1
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(イメージ: 本編内容とは直接関係ありません。)

ここ本編での夢見に関する一連のQ&A式(2022-3-)については,推考というカテゴリーで各ページ-リスト表示できるようにしました。

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