対象化される夢 \ 自身に届ける。

2020-01-19:
-朝方,自転車帰りに呼吸不足が発覚,直後の顔に赤みが無い。顔しろっぽい短距離スピーダー的な宿命では。
今朝,自転車には私-自身の抵抗感は無かった,なにもいわれなかった。私が思うに,内面“ 訴え型 ”のひと程,余計に難しく“ いわれる. ”わけで,私が“ 街通りの身勝手なハラスメント ”を気に掛けるのでなければ,夜中に平和公園まで行くのになんの危難がある? なんど職務質問されようが私は毎回同じなのに。
うんどうときにタオル重ね巻きで頸が引っ張られて痛くなるのは肉体的に良くない( 去年真冬Tシャツ短パンツ着のときには,このセーター衣類による疲れは無かった。 )

プリンス先生の第12章に:うわの空の基本的な精神生理学的原理は解離であり..の一節は,正しかったかどうか判らないが,“ うわの空( ぼんやり )”に関して簡単に述べられている;
..わたしの判断では、ジャネはヒステリー性の知覚消失と正常な注意の逸れの問題をおなじものとみている点で誤っている。双方とも、解離のそれぞれのかたちなのであるが、解離のすべてのかたちが注意の逸れではない。睡眠やトランス、てんかん様の状態、催眠などが解離のさまざまなかたちなのであるが、それらは、うわの空ではない。うわの空における解離および意識の二重化の証明は、それが解離が正常な過程であること、また、それをもたらすためのなんらかの精神生理学的な機制が存在するに違いないことを意味するがゆえに、心理学的に非常に重要なものである。ここでまた、注意の集中( concentration of attention )が意志によるうわの空( volitional absentmindedness )の一型かもしれず、そしておそらく同一の機構を使用するのではないかということを指摘しよう。異常な解離は、このおなじ機構の異状でしかないかもしれない。
例えば,“ テーブル上の眼鏡が見られなかった ”ような場合には,‘ わたしが視る ’‘ わたしが視ない ’という意志的な統制が無い.私は私の持ち物をどこに置いたのかを直前の行動-記憶に辿って見つけるのだが,もしそれらが同時に“ 別の物事( 考えごと )”とのパラレルであったなら,私はそれらを探さなければならないだろう。
“ ぼんやりする ”の問題( 初出 ):2019-12-03;2019-12-18,
私がその“ サリーとBIとの問題 ”を読んでいると,私の両目が寄って視野がクロスする。私がこのまえ一度意と的にそうしたのは確かだが,これが頁-文章読みかそれともなにに掛かっているのか,判断つかない。
そう言えば,私は未だに私の寝際に‘ 両目合わせ ’を試していない。

2020-01-20: コーヒーと納豆
真夜中過ぎになってしまったが,墓園方向へと行ってみた。私は出掛けのまえに,一瞬,路上コンクリート壁6m程の( 昼間の映像みたいだったが, )実写のような絵が遇った( おそらくそのような場所に上がり下りするのは難だろう., )予め地図上には,その自動車道と墓園側との隔たりが難しいか,迂回が必要だという判断はあったのだが..
私は自動車道を行けなかったので畑地がすぐ横にみえる側道のような路地を進んでみたが,すぐに本当にコンクリート壁に遮られたような形がみえたのと,その道路沿いには歩道路面が見えない程の暗い部分が多かったので,私は今回そこであきらめた( あとで地図に確認してみた処,公園口まで700mだった。)
私は車道下の潜り通路で反対側歩道へと出て引き返しかけた。直後,‘ これはサリーではないね. ’おはなし言った。
〔 例のミス-ビーチャムに対する潜在人格としてのサリー( BIII )は,ご馳走と称して郊外で蜘蛛など集めたのを小箱でBIに宛てたことがあった,と書かれてあった( クモ6匹の件,第10章. )〕
もし私がそこの物陰に“ ひところし ”が隠れていると思うなら,それは“ ひところし ”に違いない。以前‘ 夜の墓地公園口 ’での私について“ 私の別件 ”と言ったがそういう抽象的具体性だったとも言える。
:2019-12-10,
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帰りに買い物の為に延長してみた。今回,私は魚パックみる直前直後までは大体憶えていた( その一瞬毎の断絶には,あたかも“ ぼんやり ”との切り替えが働いているかのよう。 )

2020-01-21:
私が私の右半身を意志的に動かせなかったこと。
私が‘ 憶い出せない ’のも,ある潜在的な希望では? ‘ 記憶物 ’としての観念的ラベル化される必要性は無いと( 条件-点けの条件,必ずしも指差すように憶えなくても,私の環境自体とのリングにもでき得る )と私は思う。
( フレームの項目として設定するなら,‘ 怠惰 ’に対する‘ 再び覚醒する。’; ‘ ぼんやり ’に対してフレーム再設定する。)

2020-01-22:
私の右手‘ 動かなさ( 左側と較べての )’をそれ自体とみれば,一体なんの問題があるのか?とそれ自身に言わせてみようとした。再び以前のように右手は突然振り上がるのだが,なんの意味とは判らない。私には‘ 正しい神経 ’を呼び戻す( 解離の原因が過去どこかにあったのなら-? )若しくは左側のように通じさせなければいけない。
4時まえ,久しぶりにTシャツ短パンツ2枚ずつで少し自転車してみた( これは数年前との記憶的想起の要件だろうか? )手先足先にはウォーマー等着けてみたが,それでも指先にきた。
これは試しなのであって,“ 霊体 ”を扱う際の留意点は,決して私やだれかを対象としないことだ。

2020-01-23: 不潔をやめる.
昨日なにも無かったかのようで,動かなかった。なにかもは失われたような。-
( 店内の )魚パックみて憶い出された。
-よくを考えてみよう。空ろでなにもできないというのは,見かけの問題かもしれない。欲情的な要素が刺激されれば,私はそれを‘ 詰まらない繰り返し ’と無に帰そうとする。たとえ中間が発生してそれを当然の欲だと自我みたいにみなしたとしても,私は一生落ちないだろう( ‘ 結婚も子どもも持たない ’というテーマは私の10代には既にあった。)勧誘には乗らない,と。
もし欲情が自身-自体として合法化されていたならば,それに対する抑制も次第に必然となった。今や私はどちらも不要だったと思う。( すべて不要といえば,すべて無駄である。 )

・ 今一度‘ 私は予言できる。’

2020-01-24: ‘ 意と( 私の未出現 )’?
‘ 意と ’は記憶的反復に依る。記憶的反復は,その同一か類似の状況で憶い出される要素を意味する。私は“ ぼんやり状態 ”そのものに‘ 夢見る ’適用しようとしたが,前述の如く,“ ぼんやり ”は解離の別働が原因であるかもしれない,もし私が単純にその不明な動機や反発に無視できないとしたら( 睡眠夢そのものに対して私の視点的に認識するのが難しいように, )この意と掛かりにするには,先ず“ ぼんやり ”の原因を見なければいけなかった。
‘ 意と ’は偽であり,間違ったメタに,私はを費やしてしまうかもしれない。“ 意-図 ”されるとき,‘ 図 ’は予め存在している。

右目で視る現実
夕方まえ,私は‘ 面白い記録もできないし,今日はもう( ページ更新作業に出掛けるのとは )やめよう。’そうして私の頭にアラームも架けないでまだ寝床にいた。私の右足をしっかりと伸ばすには,その内股近くの背面との筋肉を動かさないといけない。私の‘ 両目 ’を合わせようとするかのような半自動的な動きが起こった( 必ずしも力んで両目を寄せるのではなく,その左右の自然に一致する点があればいい。)
そのまえの普通夢にはちょっと変わったところが遇った。雨降りの薄灰色っぽい光景,どこかヨーロッパの町か郊外みたいな。道路上に移動していたのだろうが,線路上に這いつくばったかのように( わたしは )転結レールの動いている部分みた。半ば暗い,洞穴のような空間に,古く朽ちたような荷物用馬車の木製架台が大きく動いて横切るのだが,それには合わせ木の4つ足みたいな稼動部分等が付いていて,それらに拠って歩いていた。わたしは半ば水に浸かったようにそこにいて,その水面か地面に,小さな細長い緑色の虫などが動いていた。( そのひとつが長く変わり, )わたしの手に触れたので,わたしは振り払った。
それのサイズは長く変わっていた。それから,緑の一匹に対してもう一匹が向かい合うように近づいた,,その上側の頭が軟体-口を開いたかのように変形して,下側それを呑み込もうとしたかのよう。だが,それはうまくいかないようで,その動きが繰り返された。
〔 これに対する私の心理的な読みとしては,以前‘ 自転車うんどう ’休止時期に私の胸下に小さな腫れと瘡蓋が表れたこと( 予め夢に予言されたかのように,青唐辛子のような形の物が私の腹-皮膚表面に引っ張り出される.. )昨年末それと似た出来物が左右反対に表れた。
:2017-11-26;2019-12-22,
私の両足についての応力的な関係が“ そっくりな虫2つ ”に表れたかのようでもある( 快い緑色は‘ 生命力 ’を表している。)もし私のこの見方が適当なら,それは最初‘ 小さな虫 ’というだけだったのだが,わたしが気に掛けたのでなんらかの神経的な投影-合成が起こったとも考えられる。 〕
-( つづく, )
“ lillian ”という看板名:2020-01-24 (2)