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記憶神経 ( 夜と‘ 所在 ’ )

2019-12-05:
私自身‘ ぜんぶ( 夢見きっかけに- )利用する ’と言いながら,また何日間か‘ おはなし内容 ’にとらわれては時間の無駄。それは逐一の偶然語に際限無く意味合いを求め続けてしまうのと同じこと! 
それらは純粋な記憶連想だけかもしれないし,なにか偶々掛け合わされたような合成名称や辻褄合わせのワードかもしれない。私としてはそれらに関心をする理由は無いのだから,最近街通りにも私のそうであったように,一々の音声などとは言わないで,私の目的だけに集中する。
[ 久しぶりに夜道自転車うんどうしてみる。“かれら”いない夜道,爽快。墓地公園内ルートに上がり( このまえよりももっと左右墓地間-脇道その奥に私の目を向けては暗がりに無い?と視ながら,“黒いお婆さんの後ろ姿”でもみえやしないか-と, )そこでは対向車も無かった,急に汗ばんで直後,下り道では3時ちょっと過ぎていた。
公園までの上がりルート途中では,私は一度だけ私の背後にずれたか擬似視点のようになりかけたが,その公園内では私は分離しなかった。 ]
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私と小便を我慢している時のようだった〔 腹部と横隔膜が垂れてきている? 小指等の力も。 〕もう場所感覚は殆んど無く( ,私は投影してはいないから )‘ 私 ’どこにいても-とは言わなかった。私は帰ってしばらく‘ きっかけ化する ’の考え中に,再び‘ 神秘的 ’になってきたようだ。[ -“ 自身に-観念的 ”と言うべきか。 ]
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私はあのあと‘ 一瞬先( の夢 )を予言する ’といったのだけれども、おはなしによれば,それは‘ そこに置かれてある物を取るのと同じ, ’という。私が自身に対して直接創作意図の無かったものを‘ 夢 ’とみたから? 

2019-12-06:
例のモートン-プリンス先生がビーチャム女史の催眠状態との対話に表れた“ クリス ”という3番目( のちに“ サリー ”と称する人格的 )について考えるという部分。そこでは,ビーチャム女史自身かなんらかの心理的な観念的な人為に因ってそのBIII人格を布いたのでは?という見方も述べられていた。..被験者が催眠状態に陥れられるときには、その人為的につくり出された潜意識の記憶は、その催眠状態の意識と融合されるにいたり、そしてそれゆえに、そのまえ潜意識だった思考がそれによって思い出されるのである。彼が目覚めると、それらの記憶はふたたび解離され、..( 第3章,そのプリンス先生は単に‘ ある組織的な人格が別個に隠れているというわけではない。’という否定のセンテンスとして述べたいる,..意識の持続的な解離が存在している。..知覚消失を構成する失われた感覚的知覚は、潜意識的には保持されていることを示しうる。
私はその行を読んで,そう言えば,私は一度も“ 夢 ”に対して私の観念的な見方が無かったと思った( むしろ、夢こそがなんらかのそれ自体であるかのような観念的な表れであって,私は偶々それに‘ 視認 ’できるかどうかという簡単な問題だけだった。私は何年間も“ 夢 ”への材質検査のとは言いながら,私の調査-操作を施そうとはしなかった。あたかも私の前に誰かが立って見ていれば‘ あの、なんですか? ’と問うたのであって,もし‘ 夢 ’に於いてそのようなキャラクターが遭った場合,私はそれを‘ 私の観念的な創作 ’だと言うべきだ。私は人的な要請-面とは取り敢えず無視する。
一時期に街路の女の子らが通りすがりになにか特定のワードを発するということが度々遇ったが,私はいっぺんもそのような態度には不明であった( 私の‘ 対称化 ’が本当だったのなら,すべてニセモノであるという幻影否定は暗くても,夜道のように清澄である. )

おはなしの論理(と夢)?
2009年までのあいだに私が警察沙汰にしなければならなかったのは,ひとつにはそのような“ 街の嫌がらせ ”と遭ったからだが.,たとえサンダーバード2号のおもちゃをブーンと飛ばす振りとも違わなかったとして〔 この場合には“ おもちゃのブーンと飛ぶ ”ではないのだから,“ あの街 ”にもメタ-イメージと言うべきだった。〕,当時私がもし自己心理学的な視点によってそれらは“反転的な表れ”だと解していたら,取り締まり的なメモの必要も無かった。
私のたとえには“ポルターガイスト”のように一度つくられたものをこちらからのコントロールできないような状況があったのだとしたら,どうやって私のそれとして収拾できただろうか?-と。 )
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勿論,ここでは‘ 通常の夢に,なんで私の意とが起きないのか? ’という質問に拠っている。
私の場合,私が‘ 戦闘欲 ’を否定するか健康的な身体うんどうなどに転じていれば,おはなし側のそれは私の記憶神経を利用することができないようだ( 普段それは“わだかまり”?の原因である。最近私の顔面やつれも本能的には“ 戦闘欲 ”が原因だと言っていた。)それらは睡眠中-夢のような形でそれ自動的とみられる可能性はあるが,‘ 私 ’からの欲求という自認-領有にはならないので,それ他者めいた言い訳に変わるのは当たり前である。
[ ちょうどテレビ画面にザギトワ選手があの“ 最後の誘惑 ”イントロダクション画面音楽で滑り出した。 ]

2019-12-07:
地面にコンクリートの( 白い )槽みたいな幾つかがその厚みによって誘導通路とに隔たれている,なにか古い施設の一部分のような。両足からその水溜りの泥と草などに飛び下りたが,上ろうにも手段が無い。見上げて咄嗟に“ おい! ヤス! ヤス! ”と助けを呼んだ( 仲間に呼び掛けたかのような )。
〔 その瞬間,同時に‘ “ ヤス ”って誰だ? ’という意識はあった。然し,そこから上がりたいが先だったのか,両手を壁面どうしに掛けて両足からその上に逆さに体を持ち上げた。今思えば,その上がり方自体はわたしの思いつきそうな機能のようでも遇った。( その場でか,あとのイメージか,薄れたジーンズ姿のようだった。そう言えば、昔ブルージーンズからのウォッシュドものが売られていたが,わたしには当時“ 労働着 ”という言い方も無かった。 )
普段おはなしに“ ヤスオカ ”という苗字かなにかが繰り返し遇ったが,“ ヤス ”という呼び名と関係あるかどうか? むしろ,私の知人には無かった名称だという点に,本質があったかもしれない。
その場としての絵や身体感覚は遇ったのに( なんでわざわざ水溜まり泥に跳び下りかけたのか? ),他者みたようなの一例。だが,即に読めないだけで,なんらかの象徴性や理由脈絡はあるかもしれない。
( 私の前日に“ 夢こそがなんらかのそれ自体であるかのような観念的な表れであって,私は偶々それに‘ 視認 ’できるかどうかという簡単な問題だけだった。”と私が記したのが,その直後またそのまま表れたかのようでもある。 )
コンクリートの“ 隔て仕切り ”は都市内では土盛りがあるような施設入り口付近や動物園などには普通にあるが,( その直前場面とのコントラストだったとしても, )印象的な記憶には残らなかった。私が街路に歩いて意識的に視たとしたら,いかにもビルディングなどの軒下や歩道沿いに囲いと植木スペースなどが当然のようにある( 私は今年夏頃にも“ スターウォーズ ”あの音楽などを繰り返し聴いていたが,私はもう映画本編には感心していない。)もし石畳びっしりの路面で排水されているような町があったとしたら? 
ある名称に対しての‘ ふしぎ ’が起きたのは,身体の動作と,不愉快な水溜まり泥に対しての拒否的な心象があったからかもしれない。若しその場に疑問-質問が無かったなら,それらが印象に留まることは無かっただろう。 〕
+ 今回考えられ得る対処としては,あらゆる‘ 心象,反応 ’そのものを( 外的な問題とは言わないで- )‘ 夢!’と言いつづけること。
+ トランス-メンタル発生への対処-条件化( 睡眠-夢での類似状況に対して,予め‘ 夢だ ’の条件点けるため。普段‘ 夢だ ’が忘れられるそのような環境-条件に一々留意しながら,更に設定シミュレーションしてみる,決定打。 )

2019-12-08:フライド-オクトパス
プリンス先生のビーチャム女史に関して第3章まで迄を読んでみると,“ 人格 ”というひとつの流れに囚われていたのがわかる( 先ず文体自体がやや古かったからか,新しい読者には見当の難しい点がある,私が私自身の文章にそう思っていたように,もっと整理可能だ )。
ビーチャム女史BIに対してBIII“ クリス,サリー ”はBIの生活を同時に知っているかのように言ったという( BIと,催眠状態でのBIIはそのBIIIに知らなかった。)併しも,私が思うに,だれかが,あるエピソード記憶自体に辿ってその当人として言うだけなら,それが( ある人格の自己主張に依るかのような )リアルタイム体験であったかどうか?,どうやって証明できただろう? もしBIの生活中に突然BIIIが入れ替わって他人に奇異な行動をしかけたとしたら,その点は明瞭だったのだろうか? 
( 催眠状態でのBIIが,あるとき読書に集中できなくて“ 読もうとするのに_本を投げつけた ”と言ったという。プリンスに依れば,..彼女はわたしがクリスに治療目的のために与えた命令を実行したのであり、そのことは他の自己たちにはわからないことだったのである。わたしはやや不注意にも( クリスに )ビーチャムが読めないように妨げるべきだということを、どうやってそうするかの暗示を与えずに語ったのだった。.. )
そのことは,BIII“ クリス ”の同時-同在を間接的に証明したかのようではある。それらが物理的なタイムラインに同時に在ったかどうか? 然し,その催眠状態でのBIIに拠る証言は“ 見えない ”体験として語られた( _“ BIIIだけがその原因を知っている ”という側からの前提では。 )

[ 今朝も私の自転車トレーニング中になにか背後とおくにグループからの笑いや自動車道からの声掛けみたいなものが幾つか遇ったようだが,私は私の身にはいっぺんも感心しなかった( 私の目的は永久に“街”には無い.,私のトレーニング意とは前記の通り。 )]

2019-12-09:
朝方,また私の‘ 意識 ’は後退したかのようにぼんやりとなってきた。私は視野の‘ 中心 ’からその間へと‘ 焦点 ’を移してみる。

“ 読むこと ”の先行している為,‘ 意とする ’が後手に回っている。

プリンス先生の第5章“ 不安定と被暗示性 ”話題は,“ 陰性幻覚 ”:( 陽性幻覚,-その場に無いものが知覚的に見える )対比して,その場に在るものが被験者には見えない( 負の幻覚。)
私は“ 催眠術 ”には未だ無関与だが,これは重要な示唆の問題を言っている。“ 組織的知覚消失, ”:特定の物や人だけが( 知覚されているのに, )“ 見えない. ”
プリンス先生は“ 個人的意識の解離という原理 ”であると言う。例えば,ビネー先生に拠る,“ 見えない ”と書かれたカードの案( 被験者が( もし目覚めたら )“ それを見ないように ”という暗示の与えられたあとで )それは確かに知覚され認知されているのだろう( ..その対象の知覚は持続しており、ただ、いまやそれが無意識的に機能しているだけなのである。

2019-12-10: 様子をみない.
[ 3時過ぎ,自転車うんどう。OZ北よりのYD町-路上だれもいないしんとした住宅街にも無関係に,どこか窓側から外に言ったかのような子ども数人の“ とまれ!とまれ! ”という声が遇った。付近にパトカーも巡回していたが,私からはなにも見えなかった。私はいつも通り_茶屋が坂_平和公園北へと上がったが( あの子どもたちからの警告,というのは人為的的な見方, )まっすぐ下りて_Fが丘駅南,UM坂への予定が,ルート不明となった.( HGという交差点に出たところで私は一度左側カーブに見通そうとした,もしそこから南下していたら.,町名等への記憶は曖昧であり,もし途中で迷うようならやめる.お腹の調子が良くて黄色い太めの便が出た直後だったからか,立ち漕ぎでいっぺんに40km位は行けそうだったが, )結局,東山公園前へと下りる道をまっすぐ( 今日は誕生日,“ 15才. ” )
久しぶりに人通り無い栄町まで( H小路-HY大通の交差点 )行って戻ろうとしたら、歩きの女子2人がなんでか後ろで挨拶無しに“ おめでとうございます ”と言ったようだが.,( 私は古いファミリアーやおともだちという変-態にはみとめないにしても )私は姿も視なかったし,わからなかった。その子たちが本当に警察官だったなら私にはその方が良かった( 私にはパレードとパラダイスとのあいだに話は無いと言ったかのような )。
私が寄ったのはそれかもしれなかった,工事新装中のHY通りを心よりから視たいと?〔 私の本能的なルート自体と偶像とを分けて言うならば. 〕その点,私からは,より慎重さが必要だった( 私はまだ走れそうだったし,そこからN駅前まで直進するくらいはなんでもなかっただろうが.,それこそ私には無意味そうだった.睡眠-夢のように? )あのHGに進めなかった時点で,既に“しまった”のかもしれない。無論,初めての路地で私の別件に遭ったかもしれなかったのだが。 ]

そう言えば,昼間そのまえ私の右手人差し指と中指の先だけぽかぽかと温かいな感覚が遇った。( 不思議に )なんの神経とはおもいつかなかった。

2019-12-11:
なんでかまた頭の中に音楽が掛かっている。たとえな運動会“ 天国と地獄 ”に利用された,といういいわけ? 

・( “ 自身 ”対立項( もれ )やめ )すべて流入,発光する。

夢に先んじる( 夢見の実践のための注記 ):2019-12-12 -