身体意識と明晰思考

2021-12-15:
‘ 夢見 ’自体が向かなくなっているのは身体的な夢といった初期からの方法が,(ここでは)旧来のものだとされているからだ。
これが身体的な感受性との意識化だとしたら,感覚本来的な捉え方がそのものであるような純粋さに主意を置いたのだろう。
身体=夢であるような意識性は存在するが,取り敢えず,自然に任されている。
[ 語ろうとしすぎた - 霊が背中に張りついている. ]

寝床に眠らないでただ‘ みて ’いようとしたが〔おそらく,その為に〕憶い出せなかった。

2021-12-16:
夜道前方なにか視界物に焦点するよりも,両眼視野を少しずつ重ねるようにしながらその手前に粒子状をみる瞬間が夢見の意とには楽だ。( わたしが今起きているのか眠ってなにかをみていたのか,その瞬間.. )
心理的中心に‘ 集める ’という作業としてやってみるなら,両眼鏡で視ていても目蓋が閉じていても,それ自体は変わらない。

[ もしこの“ 心理的中心 ”という言い方に反対する向きが起こるなら,明晰夢見者たちの介入が必要である( 勿論,支持的なキャラクターズという意味で。 )しかし,私はこの文脈には既に勧誘しなかった。私がもう一度と言いかけた時,貴重だったのはあの信頼感と“ できる ”可能性であった。 ]

2021-12-18:
4時過ぎ( 私の理由は無いまま )健康上への義務として自転車で簡単坂道。ある傾斜が以前のそれよりも緩やかだった。やはりアミノ酸などのまとまった量が必然か。だが,墓地にも坂上がりにもやる気無し,引き返す。帰り道,不意に,左足がペダル上で向き直ったので,右足との関係が替わったかのようだ。ようやく右足の力が拮抗しているのだろうか。[その地点はちょうど昔“ 若い女性が路上しさつされた事件 ”が遇った付近と思われたが,私がその辺を通る度に心理的に作用していたかどうか。]
右足のために左足を余計に突っ張っても立たない。

2021-12-19: “ 夢だ ”という意識化? 理論的明晰夢見への試考
自動的な“対象物”に際して(それ自体-自身のときに,)同時私からの意識化するといえば,大変なことだ。それ(それら)の最中に,毎時これは夢だと言えるか?
〔 観念化の逆接- 〕“ 意識 ”は夢である
わたしが“夢”を意識化するためには,これのひとつとして(わたしに,常に)対象的に視なければならない。この点ゆえに,“明晰夢”完全不可能だといった見方もある( -“明晰夢見ありえない”論. )
あのCC先生が“ 身体うんどう ”との夢見を図った(と思われる)理由,身体自身の利用,身体遠慮よりも統覚的に働ける点: 意図 - 意識 - 媒体(夢見の体?)
[ 私が度々述べたように,もし“外部”に依拠していればそれは分離状態(あるいは投射されている)だから,‘この体’での同時意識化には向かない,もし“周りとの関係”夢みたいのでなければ。だから,“センシングの可能性など”には一度も持たないひとの方が良い。 ]
無論のこと,先ず肉体との統一感が“ 夢見 ”のためにどう働くか?という質問点こそが,問題であり併害であった。

2021-12-20: 夢と“ペン回し”
私はそのペンを手に持って寝床に着いたが,それは今や反-対であった。この状態ではないが,“ 身体 ”起き上がらせてみようとしてみた途端に,非常に深い青色の瞳(こどもの顔みたいな,その片面だけの印象)みえた。以前なにで視たのだろう?そう言えば,昔そんな絵を描きかけたのでは? わたしがまだ“体外離脱的体験”と言ったりしていた頃のなにか,一瞬よみがえったのだろうか。

2021-12-21:
普段,ある部屋に入った途端に“ 私の明晰さ ”は失われたかのように(次その室から出る瞬間まで)それが憶い出されないといった場合-;
なにか対象物がそこに遇っては未だにそれ自体との“明晰夢見”条件できていない。身体や私の注意などは途端にそれ( 最初からそれの自動記憶的な,慣習的な )と入れ替わってしまったかのように.,
だが,どんな自動観念的な対象物も“これ”だった。

[ “(催眠的な)感受性” は身体の感覚そのものであったかの如く,こちらからの意思的に対抗するか無視する(麻痺させる)に拠って,より強迫する。“(勤勉な)突っ張り”は嫌がらせに遭うが,応じなければ第一義を通せる。しかし? ]

- 取り敢えず“ 自分 ”と言ってみる(同時に。)

2021-12-23: 跳ねるボール
身体本意であろうとすれば“私の言葉”側には価値が無い。
( 昨夕これから少し早めに私の図書館へと向かう途中で,学校からの女子たちがけらけら笑い声を立てている路上に,私が本当に怖れていたのは彼らのことではなく,“転倒死”の危険だった。
私の自転車にはパドルが無い。私は常にペダル上に両足バランスし,街路上衝突などの危険から放れたように,コントロール可能の動き方だけ習得している。 )
-
この身体,できない両足宙返りのシミュレーション中( 私は夢の状態に移ったかのように, )球体の上下に跳ねるような動き自身なっていた。

2021-12-25:
“ ねむけ ”がきたらその中間(意識)状態になるべく留まり見てみよう。この“ 中間 ”で注意してみる。

2021-12-26:
脳内からの動きすべてに条件点ける。

2021-12-29:
昨夕私の記録日記等整理作業中私の意識に残った身体的‘ 表面 ’に対称としてみるといった一文だけが記憶的印象として一致可能だった。
すべてが偶像なら,今ここに在る身体感覚での‘ 留意 ’-これ以上の参照点は無い( ,夢見文法のひとつ。 )

私に伴う(意図以外の)日常的反応等(,それらすべてにこれの注意条件つけるために)再整理してみよう;
あらゆる反応
あらゆる記憶
あらゆる動き
それらは“ 私の- ”定義される場合,心理的に原因遡及されるが,ここでは自動的反応に対しては無意味,といい(その内容に関わり無く,)先ず夢見の機会であるという。
[ :“私の”ベクトル等はどれも偽ものであったという見方。別のなにかが即こちら側の動機や思念と化している。こう見れば,“私のすべて”全面的に断り“私の”無意味だけ。まるで相手に言うように否定しても抵抗しても労費に尽きる。しかし,たとえそれらが事実無根であったとしても,脳内からの動きすべてに条件点ける一つの‘ 見る ’方法が引っくり返るわけではない。
通常,“ 視点 ”自体が疑われはしない。普通“夢”が夢見の視点を欠いているからか( そうだとしたら,予め“ 夢 ”自体に夢見の論理が組み込まれていなければならない。 )あるいは観察者の同時に“ 気づく ”を,無為としているような原因があったのかもしれない。例えば“性交”への容認と不必要な“笑い”とは同源だという見方が必然だろう( 人間は普通“笑い”の原因を理性的には思わない,考えない。それは動物だから? )普段のそのような“ 反応(表情)”に逐一これは夢だと意識的に注意条件つけができれば,これに夢見の訓練となる。 ]

2020-01-01:
( -感覚の意味問わない. )
感受性-依存-欲求ではなく,
純粋な行為
( 一挙手一投足の現在視点 )
を。