視点

2024-05-31:

現在このすべて夢見条件化する(再。)

“放射状”やめる-と,身体はリラックスする。
私は自転車のときに右足を張らないで動かしてみた。このとき,呼吸にたとえるなら,“吐く”のではなく(-張り出さない,)身体的に自然“吸う”ようにうごかすのである。
..晩,あるCD“ 四季 ”演奏に聴いていたら( “ 秋 ”の部分,村人たちは祝宴の酒と踊りのあと,酔って眠ってしまった. )不意に,ひとり路上に横転したところの一瞬,起き上がろうとした正面に急な車両が迫った.. 久しぶりな,夜間路上イメージみたいだった。
その曲との関連ではないのだろうが,私の転移していたものが今日そのヴィヴァルディの曲にはもうも無かったのだろう。昨年末“ 四季 ”に聴きかけた最初に私はそのCDを棚にみかけたのだが,その表紙は例の時代調絵画やヴェネツィアの海辺ではなく,ある若い男性-斜め顔面アップのモノクロ写真だった( 一見あたかも未熟そうなナルシスト系の顔色みたようなイメージで, )私はその一枚を借りる気がしなかった。聴いてみたところ,その音自体はシャープで,演奏もきれいだった( 伴奏などに他の演奏とは違ったアクセントが聴き取れるのもよかった。ただ,あのイングリッシュコンサート版など棚に戻した直後,感慨も無かった。私は今週ジャスの懐メロめセレクションに偶々聴いたアストラッドとピーターソンでの録音を探してみたが,そこには見当たらなかった。)
そのような“イメージ,” おそらくも“-さん”や“-先生”という敬称も付かないかの,“ヴァムパイアの顔”といった-自身偏見かも? -だが,ヴィヴァルディの“ 冬 ”に聴いてみて“事故死”という印象ともなったのは偶然ではない。
遇然の順序? :2024-05-14 / 身体的意と( 一致,遇然 )

2024-05-30:
- 未だには“受け”が遇った。ヴィヴァルディ曲の聴き比べとスーパーマーケット-商品さがしのこととは,同時期のものだった。夢的な“ 音楽(自動)”というカテゴリーでの表れの点は相等しかったが,無論それらは“自動性”との問題であって,能動性に鑑みるといったような前期のワードですらなかった。-だが,一方には拒否しており,( 拒否 )- 拒否-投射 -( 嫌み )という二重の悪影響パターンともなっていた( 私は他が私によって影響されるかどうかには全然無関心だった。)
明日以後,水草に予定されていた“買い物”について( おはなし側は )このまえ金田町に開店した“ アルビス ”と言い違っていた( -それからそれら名称自体と合成されたかのように“ベルビス”や“ベルビュー”などと発音していた。その箇所は城北病院だった所で,何年間も空き地-草むらになっていた。
とえば,名称の例では“大地真央さん”と言いかけたのに,“浅田さん”と言ってしまったり.,なんらかの観念的な連想-混同である。 今週偶々借りて聴いてみたCDに,昔ジャズナンバー化されていたメロ歌曲等の収集,その一曲が“ Bewitched(,bothered and Bewildered )”だった。私は何年まえにか書いたようにアートペッパーのサックス録音で聴いたので,その記憶によっていた。おはなしは,そのような一図な索引について,ひと言“ コメット ”と言った。)
要しなくても,その団地の地点的具体性無かったからだろう。基本的には“夢”も“おはなし”も(前後に一度も見聞きされなかったことに関しては)しらない,情報欠いていたのは私の側だったのである。 これらが適当かどうか-は,私の重要度-関心度に因るので,“お買い物”に関して予告が必然か不必要だったのか( 成り行きと見れば,適していた場合もまま遇った。)
私が明日出かけないのだとしたら,なにか理由があったに違いない( いま“有効だ”と聞いてはいるが.. お金がない!)

( 続き, ) 偶然性?こえる :2024-06-04,

“これら挙動”は先ず絶対に過去形であり,自発的の未来を持ってはいない。私は未だ右足自体で動いてはいなかった。‘夢見’の意とは未来に向けられるべきだが,過去ではなく現在に点していけよう。私の右足が触れたがらない,心理的には着地ではなく緊迫の側である- 夢見への障害として捉えられるとしたら,これも(単に)さけがたい“悪夢”であった。
[ 昔述べたように,右手は箸やペンを持てるようにと強制された,いわば“兵士”の側であった。“抑圧された”が自覚のともなわない慢性化された身体習慣だとみなす-と,心理的には見えない訴えか“引きこもり”となる.. “右手”との原因だったとしたら,同時にか以前どこかでこの足と結びついていたのだろう。
この身体-左右の完全な一致に近づき( あるとき,外的依拠としていた“私”の思慮は消える?といった例の見方,私の“記憶喪失”に関して;)
‘戻る’としたら,自己分析的な対処では“夢見”を変化させる。]

2024-05-28:
視点は常に優先する。
[ “受動的な夢”に対して後付けの条件を効かそうとしても無理である。
例えば受動的な夢すべて無為(と-打ち込みつづける..)というようないいきかしに依ったとしても,そのような環境条件的な否定形は“夢-これ自体”に対して一位できない。 普通の“夢”が特に具体的な欲求か懸案によっているのでなかったら,(通常夢の曖昧な意味自身には)夢見のための条件付けとは不可だからだ。
私は世すべて無に帰すのがベストだと思う,ものおもいに残るばかりでは. 〔 私は気分的な“介在”を(霊的なものとして)見分けようとした。-興味半分,興奮や衝動を二重に利用するもの(すべて依存癖.,)若年者には,それらのモチが当然のように“夢見”動機となる。
私は自身に二度とは“発火”させなかった( “燃えない光”?)〕
..それだから,“外部”存在なくした。 -他に要求しなかった。 常に夢見の視点優先しよう, 更に視点を設定してみれば..そう言えるときがあっても,消極的理由からだ。“夢”には,なにも意味しない。
このまえここで述べたように,もし“私”という語自体が逆接か逆方向としてのみ有効なのだとしたら( 私自身“これ”同然だったのなら? )
このように()内で言ったり“私”といったりするのもやめてしまい,最早とも言わなく,夢見-自身の還元完全的意味合いだけでいい。]

2024-06-02: 遺跡としての現在と,(期待されざる)夢

“ 表れ ”自体に(いまだに)とらわれている.,
記憶索引の(じどう的な)従来.,
好悪や正否への無闇な信頼(
それとも同一,拒絶., )
動引-理由つけ?
( あらゆる“動き” )

..私は“積極的な(先ず視点の優先した)観察”というものは無いと思っている。
視点の遅れ.,時間的にも遅れた視点は( 単には表面的な反応かのように追随してあらわれるのみ,,いわば,“逆接的な”外在現象である。それ自体は視点的に認められてはいない,それだから,“コントロール不可”である-とみなされる。)
テレビは食べる?
-ある食物や異性が目についた瞬間,( 経験的には手前の象徴-特徴のように簡単に見分けるだけだとしたら,単にそれだけ. )通常の“それら”自体としての表れは容易に自己コントロールの領分とは思われない。
それら象徴-特徴は生物の生物欲求にもとづいているといわれる-が( 偶像的に利用されはじめたのが(なんの-)どの時点なのか?といった質問も.. )

古びた現在 - 未来の夢

自己制産性

(現在)心象に因って
記憶的な(過去)イメージ自身と
今のものであるかのように
“合成”される.