感情と焦点

2021-10-30: 明晰焦点からの恒久的な視点(?)
また感情にとらえていた。昨夕夜,私の行く路上が(なんでか)再び浮ついた-みたいにうるさくなってきた。私からはそのような障害の類いはいつも“ 一過性の悪夢 ”と同じだった。私には未だに“それら”が無意味ではないのだ,-何を言う?-何を認めたい?-私の夢見は自害したか? あの“笑い”同然に。ひとびとの世の中,“街”に(ある遺跡の意味を問いながら)あたかも生きる目的が,いかにも在ったという,幻のような,この一瞬。
‘ 明晰焦点 ’はそれらを関係できなかった(?)

視点先行,意図的意識 :2020-10-04

2021-10-31: 右側がしなかったこと
私の右側は‘ サーヴィング ’しなかった,“受け一方”だったと言う,それはいつからだったろう?
( 夜道-午前,私は地図上に予め設定した図書館への近道ルートをシミュレーションしながら )‘ 自動的な思考すべて私の無意味と定義し,自動的な思考が表れる度に,注意-条件点けてみる ’(その通り道に当たる界隈にも,私に余計な口を使おうとするような例の数人歩きという投射物が遭った.,必然的に‘ 周囲に私の好悪を対象-投射しない ’という自我-沈黙の訓練だった。)
しかし,わたしの思考自体に寄らないでこの視点を持ち続けるには( 断続的なオン/オフの方が効果的だという意見もあるが )定点となるような,なんらかの立脚点が必要かもしれない。これ以前の問題として,先ず‘もの思い’とは自己同一化された習慣なので,(それら他事すべて無為という今回前提での)これ自体という条件の持ち方だが,意外に難しい。
私は昨夕作業中ちょうど‘ 右目に右目でみる ’に自身-読み直しかけた処でタイムだった。右側で自転車に動かそうとしたとき,受動的な語りのそれから解放され( 右半身は柔らかくなり, )再び‘ 右目でみよう ’とした。
久しぶりに右側みえる光景は(あのスケール感の無くなった瞬間みたいに)やや物的な大きさや奥行きの無い印象だった。私はまた手前の粒子状に焦点しはじめた。

-右-奥歯の触れなかった部分に気づいた。

右目で右目をみる:,2020-02-16-

2021-11-01:
疑問,欲求に条件点ける( “欲望と疑惑”というターム? )

中心から形作られる思考(徹底的に)という明晰-能動の式。

[ 昨晩“ 東京の列車での事件 ”ニュース放送( 車内撮影された,なんでか乗客たちが比較的走らない避難みたいな不思議な映像 )みていたら,(こちらのおはなしに)“ その犯人は物真似をしたかったんだ ”と即言ったが,理由は述べられなかった,それだけ。今日“ ジョーカーに扮装した男 ”の動画が放映されていて,あとで私は“ それは(彼の)顧客だった ”と聞いた。犯行自体がニセモノという意味だろうか? これもまた意味不明。 ]

2021-11-02: 夢を呑む
欲求,疑問が注意の条件となる理由; それらには‘ 私 ’が無い( “欲望と疑惑”は受動的なものとの同一的な振る舞いであり,一般という拡大化された“今”であった。 )

( ..“酒に呑まれた”かのように,夢に呑まれている(-自覚の私が無い,)という見方., )
敢えて‘ 夢を呑む( 私は夢を視ている ) ’と言い直してみる,この場に。

[ 最近うちの近所路上に,両手の打ち鳴らすような音を立てたり大声げらげらをするような男児が毎午後のように来ていた。まるで犬みたいに空気に反応しているかのようでもあるが,突発的な喚き声を発したりするという特徴がある。先日私が(ミンデルのドリーミングのように)‘ 彼ら自身のそれを増幅させてみよう ’と言った通りに,正体は直ぐあきらかになるだろう。私は今回それ対応の為ではなく,ただ私の明晰さ条件のためにそれらを利用している。私が以前のように私-自身に受けたり自己規定してしまえば彼らが即こちらに反応し始める場合もあるからだ。(これは目的ではなく仕方無しである。)]

肉厚のスライスされたハム何枚か,ある女の子が来て( 洋菓子作り用-型抜き枠みたいな,そのハムにぴったりと合った金属の輪郭で )それの縁だけをいっぺんに削いでいた〔 そのハム自体の輪郭,北海道州の形にみえた。わたしはそのとき思わなかったが,私が本当に欲しかったのはチーズ類だったのかもしれない。 〕
それが途切れた瞬間( 私は寝床に目覚めかけていた, )あの“ 青い光 ”のようなものがその真ん中から楕円形状とのグラデーションにみえたが,それの左側半分だけがはっきりと映ったかのように,なぜだか見えない部分もあった〔 また一度“ 右側 ”と書いていた,その絵としては確かに左半分だったのだが,文面に打ち込んでいるときにも私は思わなかった。以前からの夢場面-記述には当然のようだった( 優勢な側を‘ 右 ’と言っているという説. )〕

2021-11-06: 訴求(欲求)投射という見方.
自己-外的投影/内的投影-私,再転換する。この作業を行なっていけば,外的な投射の原因が先ず訴えであったと判る。投射は欲求に因る,他者的な訴求の問題(甘えごと)である。
これは回収の一手順であり,常に覚醒的な夢見条件-点けのために利用可能だ。しかし,一意専心という転換も( 自己との対話の問題があれば,聞くのではなく,その方向性をこのひとつの的に向けるように毎時慣習化してみる, )自然コントロールが当然である。

翌朝までに,私が右手指を使ったり右手自体に感覚が遇ったりの度に‘ 夢だ(の注意)’自動的に憶い出された。だが,本当に注意が先か,手が先か。