無意識との回帰(夢と自覚)

2021-01-23:
- あるものについて( ,そこの点だけに視ようとするのではなく, )全-生-体みる。

一昨日,私日記に“ 超越機能 ”という題の含まれた本として“ 創造する無意識 ”を述べた( 軽く読んで返すつもりが,ユング自身のあの面倒臭い語文の所為か., )私の同時に借りた“ 分析心理学セミナー ”とその翻訳本の体裁が同じで出ている“ 心理療法の実践 ”にも最後にその内容が収録されていた( 私その本自体には未読.. )
この上記について補足しようと書きたし始めてみた処,なんでか眠気のように閉じかけて一瞬,不意に,あの“ ジョーズ ”の一場面( その本編には入らなかったシーン,ある男たちが懸賞金目当てに大サメを捕らえようと,夜の海辺に小さな木製の張り出しから餌付きの鎖か綱を投げ込んだあと,)突如その台ごとひとりが水に引っ張り込まれる。なぜ今そんな画面が?
なんらかの連想つながりか,そのあと,ある河口堰付近の河川中央に一本道のような分離帯という( 以前私の自転車ルート予定に参照したグーグルマップ画像,)実写的な画からの絵も遇った。“ 水に沈みかけた橋桁 ”という見掛けの絵自体がそのような連想となったのか,それともその絵としての表れはメタファーか,なにかの“ 翻訳された ”に過ぎない。
“ 超越機能 ”に於いてユングが述べた造形と理解という2つの方向性は,私の20代-語りやヴィジョンの作品制作主体から30代以降-読解分析的な道筋というこれまでの終わり方にそのままだった( -あたかもユングとフロイトとの“ 心理学 ”の違いでも遭ったように?.. )
経験的には,“ 私の意識を無意識に近づける ”とき,おそらく“ 特異現象 ”としてあらわれる( 私の記録例としてのファイリング自体が“ 偶然 ”頻発となる可能性も遇った。)ユングも( 古来の神話的,霊的に )一応と述べたように,これは‘ 私 ’としての一方的な妄念や得心に耽っているあいまには焦点の問題とならない。
[ 肉体の栄養的には,このまえ記したように“ 炭水化物( 糖質 )との依存 ”問題が無ければ.,もし卵や肉などの成長養分が足りていれば( たとえばMEC食は乳製品類に含まれるカゼインなどが遅延性アレルギーとなるおそれから良くないという,という評も遭ったが,)肉類は本当に消化されやすいのか,体の食べたあとに半ば寝てしまっても起き上がりに難が無い,むしろ起き抜けに急に“ ごぱんが食べたい ”などと要求する必要は無くなる。‘ エネルギーの発生 ’が根拠となるという点で,‘ 寝るまえ|寝たあと ’とが開きの対象図のように応じたかのようだ。]
あたかも心身の飽和状態に在るとき,ふたたび“ 解体 ”がはじまるという見方も遭った。仮に止めどなく“ 妄想 ”がおこるとしたら,それがなにに依拠しているのか,,という質しは当然である。

意識の不明瞭さに関して前年中何度か言及してみようとした日記分について,“ ぼんやり ”という簡単なカテゴリーワードに付け直してみた。“ ぼんやり ”が,あるステートなのか?( -意識的な思考ではない,という見方ででは- )それとも例によって“ 解離 ”の度合いと測られるべきなのか? 私は未だ催眠状態に関してぴんと来ない( 研究者自身がそれらに触れにくいという投射活動が? )
そう言えば,私がこれまでに‘ 夢見 ’できなかった場合の問題とは,殆んどが自己催眠の問題点と指摘された点々と同じだ。無理に‘ 私は起きていよう ’と緊張-努力することが,逆に睡眠-怠惰に落ちてしまうのなら,これにも例の対象形を用いて,不明に向けての視点意図と,明晰夢“ 自覚 ”という逆順にできれば。

2021-01-26:
朝方,久しぶりに“ うどん ”食べてみようとしたが,なに“ 食べて ”いるのかわからないので半分ペースト状にした。
“ 夢見への方法 ”として,‘ ぼんやり ’に際して常に一瞬-先に“ 明晰さ ”を条件点けるの繰り出し。
〔 寝の直前には敢えて‘ 努力 ’しないで,まるで“ 時間はたっぷりあるんだ,関係無いさ. ”- 〕

詰襟とセーラーとの学校制服姿が数人,路上に迫り来たかのように( わたしの )前に立った。( わたしが )小さめのキャンバス布地に薄青いクロス模様の描かれた,木製の取っ手付き板を取り出そうとすると,制服のひとりが足先にそれを蹴った。
〔 その女子のひとりが黒い長髪にサングラス姿,無言にこちらを見下ろしていた。しかし,そのサングラスは普段私が屋外などで使用している,両目周縁に樹脂製の黒い囲み付きのタイプだった。“ キャンバスの張られた板 ”は昔わたしの中学生時代に男子の課題として組み立てさせられた“ 木製の折り畳み椅子 ”を連想させるが,一般的な型としては屋内に置かれるピクチャー用のスタンド小物みたいでも遇った。その張られた“ 青っぽい四角の模様 ”が特別なデザインではないという点,“ 制服中学生たち ”という象徴。非個性的な既製スタイルに落ち着くことに批判している。〕

屋外から,スライド小窓の向こう室内にみたかのように〔 あとでキャンピングカーかなにかに普通の居間をみたという( 見えない )印象も遇った,〕その窓際に,見かけ30代の女性が近付いてこちらをみた。その向こう室内には,ある昔の顔,Eがくつろいだように座ってコタツかなにかにいるのがみえた。〔 私は20代までに彼の他人を見ないのに付き合いと言おうとするような変な態度ゆえに完全否定した。その室内の“ 彼 ”は安らかな無表情といった顔だった。〕

ある狭い一室( 部室? )戸口の向こうから学校制服姿の女子2人が遠慮がちに入ってきてたずねた。( わたしは )“ 明晰夢の話題ならいつでもいいですよ。”と,あたかもまえの不良女子たちとの比較に言ったように答えた。そこに見かけに60代の男子教員か,ひとりが入ってきて室内のなにかを見ていた。
〔 以前-例のように“ 明晰夢 ”と言葉でいったのにその場に不認知であり,突然にその夢場面から目が覚めて普段の私に起きた,というパターン。“ かわいいイラストレーション ”足蹴にされたにも,つとめ無かった。私は“ 感情 ”を観察対象とし( 詰まらない,そのなんなのかを知る? )自動的な分離-偶像化にも,それらにも‘ この気づき ’のために利用してみようとした。
{ 夢-最中に“ 夢だ ”という認識が起こらない場合,その夢の論理自体を一通りみられるという点ではうまい回避だとも言えるが(,的確に想起が働いていない.,
あきらかに,-直前直後との私の条件点けが間違っている。}〕

- 私は動的な視点自体とした。

2021-01-27: 集中を見破る
(‘ ひとつのわたし自身 ’であるかのように間違われている )集合物を予め見破る。
私は昨日付に( 私は“ 感情 ”を観察対象とし,自動的な分離-偶像化にも,それらにも,‘ この気づき ’のために利用してみようとした。)と書いた。自動的な分離-偶像化自体には,他動のおそれとなるような“ 感受性 ”が関われないのだろう( 若しくは,例えば鋭い墓石に象徴されるもの,その象徴の内容自体に? )外界との対象物が存在しないときには,これはむしろ“ 夢 ”として喚起するような“ 投射 ”の領分であって.,器質的な言い分にも,私は私の意を貸せない。
子どもにとって同一性は武器かもしれないが,私はもし“ 他 ”のそれだと見なしたら私自身として利用することにはできない( -それが擬性のものであっても,他の本性であっても. )

・ 私の視点( 空間視点 )だけ。

“ 早発性痴呆 ”というワード( これも旧語らしい )で,ユング著に読もうとしている。例の“ 中学生たち ”が私にとっての“ コンプレックス ”症候という言い回しにはならなくて,ひたすら( 単に,私は見ないので,という )排除の方向であった.,過去の幻影はすべて消えなければならない。このことは既に外界投影されたかのようにあられていた。
ところで,ユングはセミナー参加者たちにフロイトの論に嘘があったと述べた,自身の事実を言えないひとだった,と。
“ ..分析において直観がもっとも重要な機能であるかのように思えることが多いというのは事実ですが、それはただ単に分析とは現実ではなく、実験だということによるものなのです。( 分析心理学セミナー,第4回 )”
また,“ 心理学的了解について ”では,レトロな理解ではなく,前向きにみるやり方だと述べていた。
..私はリビドーを、心理学的な価値に対するエネルギー的な表現として使うつもりです。心理学的な価値は、一つの作用をもっています。ですから、それは、厳密に測定できるというふりをしないで、エネルギー的見地から考察できます。
[ -今私は“ リビドー ”という語には感心にならない。“ 外向型/内向型 ”というタイプ分けのような,ユングの語りにも,物事に仕切りを付けることに依って反って不透明に代えてしまう面(,たとえ“ 外向的 ”という自慢や無深慮があったとしても,私はその行動や偶然に“ 非因果的な ”とは言えないだろう。)
“ マクロなAIが自我という価値を認めうるか? ”という赤ちゃん的な質問が連想されうる。]
これ前方機能という構造としてうごく。

投射された視点(:2021-01-29 - )