観念と観察( なんかわからないもの )

2019-11-29:
夜中に漸く眠気がきて( 私の観察を保ちながら )なにかみえたりしないかと光景的な印象の表れるまで( その眠気自体に )みていようとした。道路上の夜景,記憶には無い( 連想される,私の記憶とイメージ. )
左側に暗く平たい建物2つとその店舗看板等が( あたかもこちらが移動しているのでそれらが通り過ぎる一瞬, )その看板等一部分に‘ ちょうどわたしの探していたもの ’が写っていた。ところが,その一瞬あとには,私はそれが何だったのかをわからなかった。絵柄か文字として表れたのだろうが( 白っぽいペイントのような? 今想えば,昔一度“ イルカ ”のジャンプ姿が白い面に表されたみたいな )そう言えば,その看板等にはひとつも‘ 読める ’部分は無かった。“ わたしがそこに見つけた ”は自動的な観念だけで,絵としては無意味だというような。
そのあと、またひとつ奇妙な印象が遇った。わたしは屋内のどこかでなにか特定のものひとつをみていたが,家の玄関内に戸へと近づいてみる一瞬,不意に,その下にその‘ なにか ’が( 奇妙なことに,そこに置かれていた,私の普段使用している半透明ビニールの )バッグに入れられた。その奇妙なのは,その‘ なんだかわからないもの ’が,私の見慣れたバッグに放り込まれたという点( その絵ではそのバッグの色合いやデザインは正確ながら,その幅だけが小さめだったので,少し縦長な印象だった。 )
あとで,‘ それ ’は,白っぽい,縁の丸い方形の物が半ばロール型ケーキみたいな円筒に丸められたような形として想起された( その両端が付かない,僅かに一定の隙間に開いているかのような )。私はそれにも不明だった.が,こうしてメモしてみているあいだに,私のページ表示白背景に“ 四隅-角丸 ”を付けてみたらと再び想像に遇ったのと憶いだされた( 私は既に2回その形を試してはみたが,面白くはなかった.例えばズームするメニュー表示のような型を全面的にやり過ぎると,テキスト本編よりもそのルックス自体との3D空間的にとらわれてしまうだろう. )
私は最近そのバッグに私の表示変更用メモなどを差しては,画面上でのテスト等に入れ込んでみたが,実際には殆んど試行錯誤ばかりだった。それ( 丸い四隅の白っぽいページ )がなんかに使われるとして,その“ 二重の,やや厚みのあるロール ”のように表される? それともこれは素のそれではなく,私の記憶印象から置き換えられた二次的なイメージかもしれない。

午後、詰まらない普通-夢( ある学校の敷地内に,校舎に戻ろうとするが,そこには新しい校舎みたいな大きい棟が幾つか. )
私の目が覚めた直後、あたかも小さなスポット光に拠って斜めに照らされた面がみえたかのように( 割合くっきりとしたその明暗差の縁,僅かに色ずれ )楕円形が引き伸ばされたような形に明るいその面,本の頁か文章面( ,判読不可。 )

2019-11-30:私の“ 自分 ”をやめる.
夕方、再び男子グループ等に拠る路上“ 笑い ”が頻発していた。私は‘ あの匂い ’つかわない( -擬性キャラクター化しない,私-自身には“ 中傷 ”できない. )純粋に私の身体だけを‘ 夢見の実践 ’意とに利用できる、と私は既に述べた( 前頁。)
詰まり,私の中にはもう“ 彼らに ”対応するようなものを作らない( -ここでの焦点は‘ 夢見の実践 ’だけ。 )
私が今きれいでいられるかどうかであって,私-自身に対してどうこうおもうというような観念は,なんにもならない。
〔 彼らに心当たりの方には人的安全-防犯のためにその勤め先や学校等に順次通報を設けるようお願い致します。彼らの為に自害したひとがあるのかどうか私は知らないが,私としては万一の事態を避けたい。 〕

“ の ”と“ と ”
私の観察と,,
‘ もの ’に対しての,それ自体というマターが無いと,(“ 単に ”と言ったとような )外的に於かれての要素は,それと見分けられる( 身-分けがあるのか,どうか )。
身体-外部的な生成の無い,この体では,“ 生理中 ”といった‘ 態 ’がある。外的に投射されていた‘ もの ’は,写-精の一種だった( その態勢であったろう- )。身体-外的に求められるもの( なにか ),あるいは内的な( 玉,観念。 )例えば;どのポケットになにを持つか( 持たないか, )あの読みかけの本はどこに置かれているか,など( -付近のもの,中間の. )“ 生殖-× ”との問題が,未開からの練習ヒストリーそのものであったように,それらも記憶との条に違いない。

2019-12-01:
私は寝床に就いて両目を閉じようとするが,周り空間認識的なものは消えないで先だそこにある。それが無くなるのは,内的自動との切り替わりに因るのだろうか。それは私には所在のために維持されていて,睡眠中の表れには伴わない。
目が覚めて直後わたしはその寝床傍に( ,私の就寝直前に )前日ようやく借りたモートン-プリンス著書を置いたのが憶い出された。あたかも‘ もの自体 ’に関して私の言ったばかりが自動的に効いたかのようだ。ここでの‘ もの ’とは,私の手でその本を置いたという記憶そのものであって,“ 物自体 ”ではない( わたしはその本の原題を想い出そうとしてその頁に視覚的な印象を想起しようとしたが,その綴りは絵にならなかった. )
私の寝る直前までの‘ もの ’などが,その睡眠とのあいだを挟んでその起床直後に見開き-形に行われているかのような?( -以前にも,たとえに“ 絵の具とともに折り畳まれた紙に左右対称-模様が表れる, ”という例のように私は述べた。:敷かし,私が今これを‘ 夢 ’に応用することが重要なのである。 )
というなら,私の寝入る直前までに‘ 夢見 ’意とがインプットされていなければいけなかった。

ある不統合な( 解体された )人格等症例“ ミス-ビーチャム ”,あるパーソナリティーのその分離( 1905, 1908 )
-私が以前“ トランス ”に関して引用した部分が遭った。おそらくモートン-プリンスという名に“ シャッツマン ”という,ある研究者か誰かの苗字が連想されたが,何についての記事だったか?..
“ 夢魔 ” :多重人格の章 ( 引用 )
この本を読みだしてみると,以前一度“ 路上笑いの子たちはヒステリー症からの反対を表している, ”と私が自身述べかけたのが憶い出される( 私の左側-右側と言っていたのと同時期ではある、が,表象,感覚と実在,その元の原因とは無関連かもしれない )。だが,このような借りのシネクドックスではなにも説明になっていない。
むしろ,私が通常の夢に呑まれたように睡眠中なにも言えないのは( -おまえはただの‘ 夢だ ’,と言わないのは, )なんらか言われたいからだ、という公式の可能性はある。

2019-12-02: “ みっともない ”という言い訳.
私が一度も他人に“ 直接 ”通じようとはしなかった,この点,私は極めて清潔に記した。“ 能力 ”研究はいっぺんも他者をおかすような目的ではない.,が、既に“ 街路の笑い子たち ”が実際に大量発生していたように,( 私はこのコンテンツに嫌がらせされるような理由は無く,おそらく今度もカルロス-カスタネダやエルヴェ-ド-サン=ドニの記録等を超えるような,私の実践研究自身のお金だと言える,健康的な良心を信じる。私が自転車うんどうするのは体力や明晰夢-意とを兼ねるためだったので、私は路上の“ 彼ら ”には読者がひとりもいなかったのだと考えた。)
私は自身になにも“ みっともない ”という言い訳にはしなかった( -もし他者にその“ 台詞 ”を重ねるのなら,それは手前のキャラクター化-要求ゆえだと自覚していなければいけない. )同様に,私は地元の小中学生たちにも一度も笑いにはならなかった。彼らの何名かがこちらの住居に騒音-震動や余計な言葉などを仕掛けたので( 最近も近所からの一方的な呼び捨てや,わざとらしい笑い声などの行為がある.私はいつでもK署への人物特定通報等は直接可能であるが、なるべくご近所さんからの良心的を尊重したい )一度,小学校の教頭先生名義で私に謝りに来たひとが当時一名きりで,当の彼らも一斉笑い者たちも未だに私に対してなんの問題があったのかを説明できていない,というのが本当だ。
私は本来毎朝クラスまえに自ら立って‘ 先生、-さんたちが私に一々難癖を付けるので,その理由を訊いて下さい! ’と皆のまえに最初に申し出たであろう( ,ここでは“ トラウマティック ”という倣わしにはしない。“ 集団イジメ,しの危険 ”はいつでもあるので,このようなソーシャルな方式が小さい単位から速やかに普及されることを。
この意味では,一度つるま図書館に遭ったような一方的な嫌がらせ行為に対して,“ お客さんどうしのケンカ ”というようなごまかし言葉の類いには私は決して妥協しなかった,たとえ潜在的な原因であっても。)
この,未だに弁明ひとつも行われていないということは、今後,更にはっきりと私の名とともに裁定されるべきである。但し,私からは彼らや特定人物名を私の夢見ファイルには利用できない.私は独自に‘ ゆめみのじっせん[e] ’という紙看板で再起する予定である( 全地球的なアクセスの可能性に対して,卑近な嫌がらせの類いが払拭されていないのは障害である。)然し,私の本流が見極められることが先決だろう。

2019-12-03:記憶/想起
“ 失われた<私>をもとめて(:あるパーソナリティーのその分離 )”に読んでみると,いわゆる“ぼうっとしたような”状態というのは,私の目的の代わりに別の要素が働いている( ある徴候? ),という見方になる。そう言えば,映画“エクソシスト”イラクでの場面に,一見メリンが路地裏に不注意に歩いたり鍛冶屋の横に茫然としているかのような一場面が遇った。その直前からのおそらく心臓の問題という絵ではある( 彼は発情していたわけではないのだろう, )が,あるいは既に潜在的ななにかにとらわれていて,それが外部にと表れる( 古代遺跡,闘う犬2頭, )そんなお話かもしれなかった。
“ぼんやりとする”というのは本来‘ 私 ’ひとつには有り得ないの状態で,時に“緩衝”かなにかのようにみなされるが,‘ 無意識 ’とは表面自己的な言い訳で,なんらかの要素があるのでは..。
,( そんな状態にも, )私の‘ 注意 ’として,‘ この夢-状態( ただ今 )私の自覚とする ’と示持できればいいわけだ。

記憶神経 ( 夜と‘ 所在 ’):2019-12-05 -