骸( むくろ )と光

2017-02-04:
内部性-活を無しに( すべての内的問題は自己処分として解消されなければ )。“ 対象 ”を解放する。

2017-02-05:
.. その路上にはまったく穏やかでなにも変わったようなことも無かった。むしろ通り慣れた筈のHo町付近に信号をみて停止したら、その一瞬なにか男の顔というよりはむくろになりかけたようなものが? そこが“ なんかの事故現場 ”だったのかどうかは判らない( その41号線の反対側ガードレールには長らく花などが添えられてある )、私自身の原因としてそのようなイメージがあるのかどうか? 

私の腰上で腹の両側を引き締めると両足に楽に動かせるとわかった。帰り道途中の半時間ひとりお喋りと同じで、私の体は未だオバサン状態を居残っている。‘ 夢見 ’自覚率は低い。

帰着後の偶々テレビ画面に金色仏像が写っていたのだがその両目がうっすらと開いたり閉じたりしているようだった( インターヴュー・ウィズ・ザ・ヴァムパイアーのあれかな? )。

2017-02-06:

私は私の脳をコンピューターとして活用したい。幼い頃の私はまるで親たちのそれのような感情的障害自体を解明できなくて余計な労-費をはらわされたようだった。しかし、もしわたしが小学生の頃に本気でルービック・キューブを試したいと思ったなら、わたしに“ 誕生日 ”と映画オリジナル演奏版レコード1枚を聴くのではなく、私がそれを求めていたに違いなかった( 私には“ 算数キット ”が無かった )。

私は久しぶりに夜を徹して“ 死因究明 葬られた真実 ”という本を読んでみようとした。昨年末、図書館名義でリサイクル資料として放任された図書等の一冊で、私は悲しいに陥るのがいやだったので読み付けなかった。

私は途中それを置いて一旦寝床にまっすぐになってみた。夜の道路脇にもう一本の散策路か歩道が分かれているのがみえた。( あたかも私は自転車で移動中のときみたいに )そこに上昇しかけた処で、向こうからあの骸の男に似た暗い姿の自転車乗りがあらわれた。

〔 私は対立的“ 2 ”のお喋りをやめようとしたのだろう。私は私自身に観念的であることはそれらへの依存という問題だと思っていた。
ある感情的な筋書きが別の“ 対象 ”にすり替えられ対処違いになっていたような場合があったように、普通の“ 夢 ”にもなんらかの合成があったと思われる。 〕

今日テレビニュースにニューヨークなどでユダヤ教会堂に“ わたしヒッ×ラー ”などと落書きしては消されているような者があるという。例えばわたしが“ あなた そうかがっかいか! ”と訊かれたことがあったように、そのヒッ×ラーいうような者も“ あなた そのユダヤなんとかなの? ”と言われただろう。たぶん“ ある引き籠れなかった子 ”のようだった。
そう言えば、映画“ ミュンヘン ”にオリムピック選手のひとりが室内で普通のブレッドみたいな物を小さい包丁でカットするという絵があった。

2017-02-07:
私今夜出ない。
あの昨晩の‘骸のような顔’を想い起こそうとしたら、その印象と同時に私の腹部が反応したかのように緊張した。もう一度‘ 見よう ’としたら下腹前部の筋肉が微かに動いた。
私自身なにも性的なものをみたとは思わないが、印象発生の原因自体がリビドーだという見方でなら、どうしなくて鎮静化した( 私がやりたがりを自然停止した )と思われたときに不意にイメージ化されるような機があるのだろうか?と不思議だ。
あの“ バカ笑いの子たち ”の原動がなにに利用されてどう発したのか、特に私に向けられたものだったのかどうか私が知らなかったように、私自身にも不明だ。むしろこれは‘ 死んだような顔 ’という私の言葉で形容されたその心象との表現かもしれなかった。

そう言えば、しばらく前からグーグルの簡易アナリティクスで私のページ等に関する検索ワード類をチェックしてみると“ 骸骨 顔 ”での検索件数が連続していたが、私自身が以前‘ 骸骨の顔 ’という特定日付タイトルを付けたのを私はもう意図的な文脈では憶いださなかった。私が当時その題名を付けたのは‘骸骨にも顔がある( みえる )’という意味合いであった。しかし、例のように金色像の両目も開いたり閉じたりする瞬間がある。

更に‘ あの散策路 ’をイメージ想起しようとした処、‘ 骸 ’姿は無く、ちょうどそこに昔の‘ 夢 ’にあったような青い発光があった。