3つめの夢見

2021-12-10: 3つめの夢見
1. 私の(観察,)
2. 仕事(ある対象,)
3. 条件点け(これは夢;)
この3つの(同時)意識こころみてみる。
1と2:通常-意識的要素(との働き,)
__3:それに注意する(訓練。)
または;
1. 視点,
2. 目標物,
3. 意図;
目標物-対象が表れたときには視点と夢見-意図が同時に起こるという形が良い。
夢の目的が優先する場合には,これらの順があたかも夢にとっての3-2-1のように反転してしまう( 判断の後退. )要するに;
3. わたしは夢だ。
2. 夢の動機。
1. 感情。
;これについては“感覚”自体と見なせる場合もあるから,今度その“感覚(感情)”に際して‘ 夢見 ’現場できれば良い[ ここでは外部との刺激や現象面ではなく,ただ反応のみみる。 ]
私の一挙手一投足を(夢見)条件点けるといったアイディア,身体的にこちらのコントロールとして“感覚”の試される(夢の身体/身体の夢見化)と見なせる。自動操縦の機体にマニュアル操作を試みるがように,この身体は常時つくられたり失われたりする。

もし3-2-1という反転が(存在内容の失われた-)記憶反復のような自動作用に因っているのだとしたら,逆に“ ぼんやりしていく ”という逆接的な意識的試みも可能の筈( 3-2-1,1-2-3が,あたかも“呼吸”の吸気と吐気,分解と合一であるかのように。 )
:意図の内容( 何のため )が失われたら,それの目標物は不特定なので,観察者としての特定目的-前提なんにも成り立たない。それこそ“ ねむりゆめ ”普通夢の状態そのものではなかったのか?
1. 感情(感覚。)
2. 夢の動機(目的。)
3. わたしは夢。
;普通夢の観点がこのように正逆に記されれば,如何にも欲求-欲望が夢となっている。( “感情”=それの目的だとしたら )動物的な要求に対して私からインターに働きかけるのは難しいだろうか?
[ それ自体に私の直接コントロールできないとしても,常に監視できるだけであれば,必至に‘ あ,夢だ ’と言えるだろう。 ]

2021-12-11: 逆接の“笑い” / “笑い”の逆接;( 欲求を食う? )
私は“笑い”には愉快という同一感が無い。動物性なのか知的な機能なのか?という人類的な問い( -鏡は猿に映るものにどう反応するか. )笑いは確かにそれ自体なんにも無い。それらは親たちが吹き込んだ子ども言葉のように,慣習的な物真似に過ぎなかったのでは?

[ 行き当たりにN駅方向からH小路通-S交差点へと走りぬけたが,(普段平日だれもいないその時間帯に)歩き回りながらなにか口々に“大丈夫?”というような声を掛け合っていた。栄養が足りないのかもしれないが,“甘え”を今更自分自身のものみたいに同一自任しても逆に“嫌がらせ”になるだけなので,決してウソの同源に“私-自身の”とは言わない。 ]

- 記憶と観念物(にせもの)の生成,
(ここの)すべてに監視する
観念物すべて(同一無しに,注意条件的に)監視する。
慣習的作業-見過ごし( “ 一挙手一投足 ”の欠如. )

2021-12-14:
心理反応すべてに注視し意識的に夢見条件点ける(夢の表れを見分ける。)

2021-12-17: 3つの夢見
敢えて“これは夢だから,”と,状況的に可変してみる。
“夢”の表出-現れ自体としての?
(これらは,すべて)夢の表出だという見方。
(今の現場)第1目的と第2目的(その夢を見る,視認する)設定してみる。
どちらがだれの夢なのか? わたしの夢/かの夢?