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中心( 震央 )

2022-10-26:
投射することと感受されるものとは両極的であって)理解し合えない。
中心(震源)の問題 ”だった。

2022-10-29:
帰り道,ある暗がりで,若い影5つ程の喋りながらと行き違った瞬間に,そのひとりが“いいにおい”と彼ら自身に言いかけた。時折,特定の箇所付近で(あたかもその因縁みたいに)へんな声を上げたりする“地縛的とりつかれ”は遇ったが.,むしろ,そのような偶然に“だれかが()言ってくれる”といったりするような,よくあるオバサン脈が正当化されるとしたら,珍妙だ。
“ -もう世界は存在しない,なにも言ってはくれない( 反転無しに言えば,私は言わなかった )”という常識。自身努力以外には,‘ 本質的 ’の言い方を自身みとめる。
“自分に見入る”のは不健全な吸いますである。
[ “マイナーポイントで3個ずつ鶏卵など食ったのが更に匂うのか..(嗅覚の麻痺させている?)”と早速セーターやシャツなどを数日振りに洗濯してみた( “消臭”と言えば,最近マックスVにAG+(デオ24,“プラス”は昔私が使っていた頃の名称,)の金色缶が無いな..と,例の夜毎うんどうと,食品の値段比べついでにまた市内北側5店舗を回って探してみたら,先週C若宮大通店に銀色のと並んで数年まえのままの値段で置かれてあった。マックスV24hの利点は私のような者が記録的に慌てなくてもいい時間帯なので,実際には,ある同一商品でイオンスタイルでの値段よりも数百円高いものも遇ったりする.. )
そのあと私のおはなしでは,“彼らは見事に転身しました”と,あるいはわたし自身からの現在というべき完了時制的に言った。 ]

再帰するあの音楽
最近また“ファントムメナス”の曲がフレーズしている( 私自身このまえから自転車時によく走りとの動機で掛かっていた。あの映画当時には“帝国の逆襲時代から比べたらJウィリアムズももう歳かな..もう歳かな..”と,あの繰り返しフレーズの連続には,いやな気がした。当時,私はあのコーラスの意図を考えなかった.,“月の暗黒面”モデルだとしたら,むしろJJ映画版に遇ったように,あの松本零士の機械化された漫画イメージやアニメともに遇った筈.. )一昨日そのまえか,なんでかあの“ライディーン”も遇った。それも昨晩テレビ中継の球場で掛かっていた。先にそれらメディアからだったのを中年以降みたいに意識しないうちに言っていたのだろうか?
今でも自転車うんどう時との記憶条件的なあれで,偶に何年かまえの“シドニアの騎士”出動全滅場面の音楽や,JGの“トータルリコール”は自動再生されたりする( 冗長な音は試合場には合わないのだろう。“スターウォーズ”という映画がそんなにも広く易く影響したものだという意外性としてみれば,逆にSFの通り道は45年間“対戦”には無かったわけだ。 )
“音楽”と言えば,ある先週の夜中(他に客の姿も無いような)スーパーマーケット店内で,あるちょうど適当そうな魚の干物パックをみかけて買おうかどうかと判断しかけたその瞬間,店内放送音楽が唐突にあの“ロッキー”試合最終シーンのリングに変わった(そんな選曲あった?)私は不意につかれたような気がして一度離れたが,悪くない値段だと思ったので買った。

2022-10-28:
( 体は“疲れた”ようではあったが,私はまだ眠ってはいなかった。 )一瞬,夜道でのような,ある自転車の通りすぎた後部-荷台に傘が差されてあるような形にみえた。おはなしは“ その先でその自転車が鳥を避けようとしたが,その傘が子どもの顔に突き刺さった ”という,やや奇妙な話だった。その直後,あたかも薄いプラスティックの飲料カップが素早く踏まれたときのような“音”が,私の頭近くか寝かけた体の下側で実際に起こったかのようだった。

[ “事故”の警告だったという見方もできる。この日記のあとで,ある帰り道に,暗い歩道上婦人2人の歩いている足側に青い小さな点灯はみえたが( 私はその意味を見ようとはしなかった, )自転車で通りすぎた瞬間に“犬たち”だったとわかってひやりとさせられた。私は例の“奇異な注目”を避けようとして夜道でもサングラスを掛けて走っていたのである。 ]

朝方,私の片手で皿に受けた水を遠心に回しながらシンクに流そうとしたとき,私はいつも‘ 応用力 ’といっていたのを意識的にみる機会を持った。
身体的には,この‘ 応用力 ’は“ 気を扱う ”というあの言い回しになるだろう。人でさえも動かされるかもしれない。
“ ポルターガイスト現象 ”研究をやりかけたころの私には“ 現象 ”みたいな夢が遇った。それは夢だったが,私が“ 現象 ”というものを(身体的に,自然のフォースとして)どうみていたのかを表していた。

身体自身の中心再認識する( 再設定の機会 )
-( 夢の身体はどんなものにも変わる。 )

2022-10-29: なんにもわからない
起きて視界のなにかにみようとしたが,同時にそれ自体といった観念の伴わなかったからか,その視界自体は(再び)貼りついたかのような,奥行きの無い,無意味な絵だった。
すべてに非観念的であれば( 身体のこちら自身でなければ, )“空間に於けるそれらの存在性”ではなくなる。“他己”という性でなければ,すべて指示的ではなくなる。
[ -テレビという自己投影の焦点(慣習.)]
“現象”という自乗効果は(私にとって)限定的な表れだった。

2022-10-27: 無用の“うわさ.”
“新首相スナク”については,その選ばれた日に“ 4ヵ月のあいだ激しいだろう ”というおはなし予言だった( 但し,“ 彼の周りは- ”という注釈付きだった。わたし自身に関して,周辺の別の問題が私のことのようにすり替えられているおそれは遇った。時折,私が自転車で走り過ぎる瞬間に外国語でなにかこちらに向かって言う振りをするような子たちもいたが,私は心当たり無かった。
[ テレビの光景は私になにも利する処が無かった.,身体的感受の状態にあれば夢見自体には立たないといった如く.. ]
主張したいなら自身で理解できるように言えればいい,“なにかの子”-その関心自身の向かう理由( 今日わたしのおもしろくなかった自身も )自身に因って解明しなければいけない。 )
ここでのコンテント自体のプラスに転じるかどうかは,“ 明晰夢見 ”の証明に基づいた方式を確立できるかどうかに懸かっている。

2022-11-06: 動的の条件
たとえば(このコンテントについて)一箇所からの理解し易さが必須であるように,夢見の作業にも第一前提条件との処理でなければいけない。
‘ 能動的-夢見 ’という前提条件に於いてのアブセンス(不在,ぼんやり)に,“夢”を乗せてみる。

2022-11-11:
“酒”について言ったあの警句と同じで,“ 夢に乗るのではなく(明晰的観察のために)夢を乗せてみる ”というのは,感情や欲望などのどれにも適用可能の(非-同一の)開きだ。