身体的意と( 一致,遇然 )

2024-06-21: 思考は遅れる
“おはなし”が言ったには,思考までのプロセスは24ある-という。..昔私は脳科学に関した本を少し読みながら“思考の段階”について日記中に少し言及してみようとした。-が,外的な問題といって散々置き-忘れられたのだろう。“反応”に面倒がるばかりでは解決ならない。
( 一昨夕,私は図書館とネットカフェからの帰り道に大通りを避けて(近道のために)久しぶりに栄町5丁目を通りぬけた。一見まったくしんとして人通りも無いかのようだった。私はなにも予期しなかったし,もし気に掛けていたらあの20年まえ池田公園周辺の不良っぽいイメージには通らなかった。なにか例のように路上グループの幾つかが私の通りすぎた後,男子というには気弱そうな集団笑いを発していた。仮に掛かることがあったとしたら逆向きなので,私の理由ではなかった。ここ数週間,以前のあれらのようにどれもまったく同じタイミング同じ笑い声だった。
私からは耳を傍立てる原因もヒマも無かったが,かつての単純なひとなら“裏つながり”または“組織的-”と言ったかもしれない。私は既にそのような見方は自分業だと何年も記しておいた。それら他者と認知しながら“聞いてもらおう”とすることは,自殺に過ぎない[ ..一方 “小鳥”に対してわたし自身は本当に他者然としていたか? たとえに“ショバ”と言ったら集団性は無いのだが,“私-個人に対するグループ性”として持った場合,謂わばもそれらが主体化してしまう,メンタル性の最悪なパターンとなる。
今回“彼らのパターン”は私に先んじるよりも後ろでだけ少々遠慮がちな特徴的な,時空的にも遅れたものだ( 私には本能的な動きのレヴェルではない。メンタル性の“反応”だったとしても,私の直観的のレヴェルからは無関係だ。)
-彼らが自動的な“受け”になったのだとしたら,その反応には“笑い”受けのキャパシティー以外なにも無かったわけだ。しかし,私の身体性との問題として言うなら,未だ完全一致していない,“分離した見えない状態” 置いている-?
30よりも以前の体に戻っていない。])

..私の身体-右側との不揃いに(再び)“受け”の問題だろうか?と見ようとしたときに,不図私は最近あの“笑い連中”が毎回どれも私の右背後だったと思いだした。私は歩道上に障害の無い限りでは車道際には逆進しないので,当然だとも思えるが,それだとしたら,左側すぐの歩道側やお店前には“彼ら”が一度も居なかった-という不自然である。
私の身体自身との問題点は,右半身の不均衡-力点の“ずれ”であった。この肉体との状態として,左半身は体の中心に緊張し得る( 確かな感覚, )右側はゆるんだかのように緊張されにくく( 比較的に感覚弱い. )左との均衡のためには私が強制しなければいけなかった。謂わば,この右半身は体の軸に集中しないまま,後ろにずれていた。
“彼ら”は偶然の状況かもしれなかった。それだが,このまえ記してみたように,この右半身の(イジョウ的な)不一致は私の意識性との関わり自体であったのかもしれない。完全一致が起こったとき私の思慮考慮は消失し“戻る”という見方だ。それだから交通事故の危険と恐れるうちには,これがそれとして半ば強制されているという即メタファーのような状況の方がよかったのだろうか。

カテゴリー: 私の観察,観察++( 最下段より )

2024-06-06: 今後のためのメモ
( 私の見分けのために;)
昨日,公園路上らでの少年“わななき”発声や,施設内での婦人“ふるまい”は,以前の何年間かみたいに,私自身との独り復気にかかり-応じたかのようでも遇った( 自ら身体-対称化されているとき(対称物が何であろうと)“反応”となる. -今日,無くなるだろう。)

自動的な追憶--,判断( 理由:)

( ..普通の日本語文のように,何に関しても“ の- ”で連結しすぎる. )

2024-05-14: 遇然の順序?
.,今週になっても(不意に)テレビ番組で“ 四季 ”の音楽が掛かったりすることが遇った。単に私がこの何年間かの再ヴィヴァルディ傾向に気づかなかっただけかも? 例えば“ ジョンウィック ”3は既に数年まえの映画だったし,私が“乗った”に過ぎない-( 意識的な聴き方をしていなかった者はそれには一度も気に留めなかった-と? )私の記憶にはヴィヴァルディ弦楽曲との連想で時折アメリカ版“ ザ・リング ”のあの塔台に向かって一本道を抜けて行く乗用車の1カット絵が浮かんでいた( あの憂うつそうな暗い緑色っぽい画面だった。あの映画の音楽はハンスジマー名だったけれど,彼の何々風は似ていなくて,元のとイントネーション違うと思われた。)先程,あるBSの宣伝無料放送にヨーロッパ製“ 黒い森 ”というドラマの1話分が放映されかけたのを私は視ていた。この背後に“ 恋人 ”と題された協奏曲集が聴きかけで( 私は最初そのタイトルには聴かない予定だった。例のピノックとそのイングリッシュコンサートの演奏録音に同時何枚か借りていて,“ ラ・ストラヴァガンツァ ”一度目のあとにそのCDを掛けてみた。)-だから,さっき“ 記憶を無くした判事 ”が森のカーヴ道を乗用車で走り抜けるというよくある空撮映像がこちらの弦楽音と重なった瞬間には,単にその偶然の順序ちがったみたいだった。
それよりも,そのドラマの最初-雪山のような所での捜索シーンに視たら,なんでか“チェッキーカリョのような役者が出ている”と思った。その画面上かCM放送にクレジットされていたのかどうか?( 私が意識的に視たり聞いたりしたならそれと憶えていた筈だ。)私は単にフランス風のひげ面男性たちといった画面にチェッキーカリョの顔と自然連想したのだと思ったが,あとで本当だった。途中私はこの原稿を書きかけていたので,なんのお話なのかわからなかった。

2024-05-12:
先週 05-10の日記用に;
予め用意したことは必ず憶いだせる。
予め意図したこと,必ず憶いだす。
予めの意図(予めの挙動-)必ず憶いだす。
;と-推敲しつつ書きだしてみたものの,それら言い回しにはぴったりとは来なかった。先週私は再び“能動性”に於いてこのように自発夢の実践的研究は可能か?捉え直そうと思案しかけたのだが.,もはや自己との能動性といえばマスターBに耽るような駄夢のたぐいで,“私自身”に問うことも無意味のようだ(“ ぜんぶ小ささ,テレビもなにも.. ”)私自身のメンタリティとしてあの街路少年らの奇矯な振る舞いなどをあのとき対称化できたとしても,それが本当の理想的夢見に寄与してはいない,あたかもZ大統領の悔しい戦いは終った-といったかのように,最前のものを最後に移すことは無為だったと思える( あるひとが“ ..生まれてはいなかった ”と私に向かって言ったが,それは“ 生まれる ”必要性自身であった。)-謂わばも,それらは単に反映されていたのだから.
..(予め)現在意とすると書き直してみたあと,私は身体性との問題を解離的方向から再一致させる( 詰まりは身体的意とと )記してみた。 先の3とおりの言い回し( 慎重に読んでみれば,その“意と”と“憶い出せる”とが主語として混同されてしまう- “ ラーメンが食べたい(ラーメンが食べたがる)”同然に,日本語との大問題と言ったべきかもしれない, )
これらの主体的媒介(媒体)必須とする場合には,先ず身体性( 夢の身体; この語自体に拠っては包含的な意味合いだが- )若しくは身体性自身という一致的もくろみを持った筈だ。[ もっと以前の世代では“すべてへの一致”といった包含性を,これだ-と言ったかもしれないが,私はこのまえ述べたように外界性格化には二度と持たない。]
私はここでの最近ログ概要に自ら“身体性”というワードで辿ってみた;
体向-像現( 今年1月分 )など- および,既にカテゴリー化してある身体一致的との(浮上可能な,なんらかの)論理点,見つかるだろう。( 私は以前“分析”というカテゴリー名を付足したように思い込んでいたが,積極的には採用しなかったのだろう。)
例えば “身体的反転(2022-08-16;)”というワードで何が表れていたか? それから“反転”といった語の付いた題名の幾つか,身体一致的というカテゴリーとともに“右側の動かなさ”も同時共通した常態として反省に及んだべき点かもしれない。

..自己信用する必要性は無い-というのが“私”との見方になったのだが,さりとて自主運営的モティーフの消失にしたがって“ 能動的-夢見 ”の可能性が現在に死ぬというわけではない。

2024-07-24:
今日かれらに“ 私の足,私の目,私の夢となってくれ ”と言った。

2024-09-17:
敢えて身体的保持しているときには外的な不安となり,
あるいは外的存在されていると-(身体一致的な)材料の起こる?

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このページの初出は 2024-05-14,
更新日付; 2024-06-22,
2024-07-25,2024-09-19