生理願望と精神意図,記憶

2022-10-11: 身体的メタファー
( 空気にとっての“表面”であるように,身体は単に映すだけ., )

以前-直前引用してみたように,欧米の“精神療法”実践研究者たちは,視覚や聴覚などの五感それぞれの系統的に再認識させようとしたのだろう( それらのイメージや印象の相互に切り替えてみるのも可能だという。-“チャンネル”扱いに関しては以前私の読書フログp2-/夢見の実践fにアーノルドミンデル本を引用したので,参考用に; )
それらなんらかの記憶慣習と結び付いている。 私の場合“おはなし”のやり方は言葉に特化していた( 身体的な‘ 表れ-感覚 ’という逆転的な特徴としてであれば,わざわざ“装置”みたいなものに代弁させはしなかった。 )
〔 たとえば“ 身体の拡張したような感覚 ”の類いは,あるいは触感の逆転したような‘自発的’表現だったかもしれない。だが,味覚や嗅覚は逆転されうるのだろうか? 〕
しかし,視聴覚や触覚などのどれかに限って再認識しようとすれば,その要素的な表現だけに限られる。もし同時現在の‘ 夢 ’のような形でみたかったのなら,特定の‘ 感覚逆転-表現 ’に頼ったのでは不便だ。( 肉体という物理表現こそが最大の受容器官なのだから,といった逆説もありそうだが. ここでは意図的の‘ 夢 ’第一とする。 )

視覚的要素,聴覚的要素,触覚的要素など,“通常感覚”すべて同時に表現できたら?( 例えば食事の機会みたいに- ..私はワインとお寿司の夢には遇ったが,そのあいだには,なにも“音”は無かったようだ。“ラーメン”の場合には,私の食べたりしたような覚えは無くて,その一瞬あとでは容器の中味は減っていた。そのように“ その中に在った筈の(ある物,)一瞬あとには無い ”印象と,なぜだか“ 夢だ ”と気がつかせるような-具体的要因があったのだろう。 )

[ 無論,身体自身に拠って( 場の )空気自体を表現しているといった方が,より意識的アップし易いであろう。 ]

ここにすべてを感覚する。
- これは今なんの記憶か?( すべて観察対象である; )情報すべて無関心に流入していれば,“神経”リスク無くなる。

2022-10-09: キャップは落ちているか?
右足の“着地”していないという(以前からの)懸案,最近私の頭-額に寄っている“しわ”も,右側に偏りの傾向が出ている( 例の如く,“奥二重瞼の所為で両眼だけを上向けるのが痛く困難であり,上目が必要なときには額の側から目蓋を上げようとしてしまう”といった,ある通り一遍の解釈であった. )
しかし,一般的にその“しわ”部分に掛かる力だけを問題とする傾向であった。両足が左右均等に着地できていないのは心理的問題かもしれない。そもそも右側全体が私の感覚的に離れているか動かされていない。
だが,この“右側”は本能的であるのをやめたのか,抑圧されていたのか( そうだとしたら,たぶん不意に-なんらかの反抗的な仕種や挙動に遇っただろう。以前私は“しつけられた右手”と書いたものの,それでも自ら箸や鉛筆を放り投げはしなかった。 )
“受け”にならないで,再び射的かなにかを(この右手で)やってみたら良かったのだろうか。このまえ夜間自転車のときには私は体の片側を一所懸命に‘動かして通じさせる’という(あの左のときの)やり方をしなかった。ああ,また突然ペダリングとのチェーン外れの所為で転倒ケガするのが怖いのだろう..
こう書いて読み直しながら,ペットボトルのキャップを右手で回して外した筈が,次の瞬間(左手にみた途端,不意に)そのキャップは落ちた。

2022-10-08: ふしぎな“たべもの”
“カピバラに噛まれた女の子”といったテレビ事故に,一昨日だったか(不思議な夢あった)想い出した。その絵の直前には憶い出せない。なにか灰色の円いものが風に吹かれたかのように(手前側から)地面に転がりだした。その一瞬に,薄いグレーの(古い型の,昔アメリカかどこかからの絵にみたような,警察官か警備員の着用していたような)帽子の形だった。それは上部の非常に大きく何角形かの均等な縁で,軽い薄い生地か凧であるかのように前に転がった。
次に,右足のふくらはぎ(膝と足首との間)外側に近い部分に痛みが遇った。私は振り返り見るようにしてみたが〔この夢では“夢だ”の意識は無かった.,〕その素足の右後ろに,なにか真っ黒い丸っぽいものがくっついていた( その見た目の印象では20cm-30cm程, )“あっ,噛まれた。”

“地面”は平らだった,なんの面だったのか判らない。あたかも“帽子”と“黒いかたまり”とは(絵の場面としては直接繋がってはいないが)その脈絡の無い2つゆえに,前後に同じものからの表れではないか?という連想だった。
ふれあい園のカピバラは檻に入れられた。

[ どんなに“症状”の表れを叱りつけても怒鳴っても,それ自体は変わらない。あるなにかの振る舞いに否定的である程に,より良い方向に変えるのは無理であろう。 ]

2022-10-07: 関心の原理
過去性イメージに依る-苛立ち(不安;)
[ なににも話しかけなかった。再び帰ろうとしていた。
以前“あの路傍”になにかを‘みていた’とき,どれも同じだった。
(反応性の私は,いつも物憂さと“時間のずれ”にあった。)]

あの世の家族観,あのキャラクターたちを無くして,これだけを見れる。
(2003年には度々路上で顔見知りから“無視”されて変な気がしていたが,それ自身でもあった。未来からの還元が正しさだったという意味では。)

私は“睡眠”直前に意識的の条件点ければ“睡眠”直後に憶い出せたが,そのあいだに掛ける方法とは未だに思い束なかった。
昨夜,私は室内に読書しながら私の体を伸ばして床向きに(両腕と両足先で支え)浮かべていようとしたが,そのような体勢では同時に読書を試みた覚えが無かったのか,非常に難しい。しかし,肉体的な身体運動の最中に一度も冷静な“読書”が出来なかったのだとしたら,例えば自転車の最中には他の何かを理解-把握するという作業が不可だったのでは?( 知覚情報との指示的な部分に依って止まったり動いたりしただけで,概念的な思考は伴わなかった? )
こう考えてみると,身体運動と‘ 夢見条件(これは夢である)’とのセッティングのために,再びトレーニングの要が起こる。だが,私は一度も夢最中での“夢だ”では自転車途中ではなかった( うたた寝のように休みかけたか眠ってはいない状態で,途端に路上のイメージなにかが自転車最中のそれみたいに印象的にみえる,といった場合のみ。 )
[ もし更に感覚化が必要であったとしたら,肉体可能性としてのその動作は同時直接的に捉えられなければいけないのだろう。 ]
おそらく肉体運動の最中には‘ 夢だ ’条件点けられてはいなかった。あるいは,自転車などの途中に於いては(もし,不意な)状態的に現れるような“夢だ”の状態であったとしたら,この身に危険だという本能的な(反転的な)注意のためだったか。
第一に,身体運動とは,ある満足の機会であったから( それが要求に比して肉体や精神には辛かったとしても, )これ自体という“夢”として現れる要素にはならなかった-という例内的な見方だ。

2022-10-06: 夢見化されていない
(偶然の)記憶想起と合成.,あるシーンとの“かかわり”
視覚または知覚的反応のモメントと,それ以外。

2022-10-05:
ここ自身というだけ。

- 障害は(いつも)目的自体だった。

先週1日付に,飽きる(瞬間に)条件点ける( ‘ 見入る ’との対称- )の試みを記してみたがあとで,どうしてかその語として憶い起こせなかった。あたかも夢に一度みたなにかの印象のように,言葉で説明できなくなった。
最近の私は“(長い意図や自己命令が続いたあとの)一種の飽和状態に因る健忘 ”という例の説明をしようとしていた。
‘ 飽きた ’に直接条件点けるという作業は逆説的なのだろうか( 第一目的は‘ 夢だ ’だったが,その指示が‘ 飽きる ’自体に掛かったのだとしたら? )
[ 予約されたワード-‘ 飽きる(瞬間)’自体の,‘ 見入る ’との対称形となった?) ]

2022-10-13:
ある“ 記憶 ”自体は‘ 夢見 ’条件点けられていない。
だから,再現されている憶い出されているでなければいけない。
-すべてを‘ 夢見 ’との条件化する
(‘ 夢見 ’との再帰させる。)

記憶自体にセンシングする。