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明晰夢は可能?| 憶い出せない“夢”?

2017-10-14:‘ 無 ’の一瞬
昼頃,私は図書館内ジャズCDを選んでいる最中にその下段の棚から上段に視ようとすっと立ち上がった途端、私の全身が急に痺れたように感じて私の頭の中も停止したように‘ 無 ’になった。私は棚に向いていながらなにも視ていないようなその10秒程,滅多に独りごとも無い、有り難い瞬間だった。
周囲無いひとつであれば、私は物理的な物事にも投射しないで私だけで在れる。

・受けない‘ 夢見 ’の身体。
私は体の( 表皮 )感覚に敏感な状態が在る程‘ 気功 ’や‘ 体外離脱 ’に向いているのと思う。‘ 掌合わせ ’から気に感じるというトレーニングが有効なのは( 先ずこの両掌が擦り合わされるに因り )摩擦に拠る熱や皮膚感覚が強まるからで、これらが集中的に意識されつづけるのが( 身体感覚が拡張されたように覚える )重要なのだろう。
私は以前のファイルで‘ 手首先をその腕の軸中心に振り回し続けると( 慣れないと難しい,強張らせないように )じきにその外側に近い指先等の素早く振れる部分が扇風機の羽根みたいにぶれたかのような感覚が発生する ’と示した。このように擬似的に‘ 体外離脱感覚 ’も起こせる可能性がある( 背面跳びやトランポリンなどの空中体験があるひとには有利だ )。具体的に身体感覚と熱が高まる方法があれば、感じ易い若い体には比較的容易だろう。

2017-10-15:
午後までに夢の場面幾つも遇ったのだが、どれにも明晰夢には為らなかった。( 或る夢にはその直後に私が記録的に想い出そうとしたからか )ひとつだけ記憶に残った。
都会の間に広い水と小さなマンハッタン島のような部分があり、その片側から高層ビルディングひとつがまるごと倒れる。その下層部分は少し出っ張り付きの黒い外観で、たぶんそのビルディングがタワーリングインフェルノの印象に直結したのでスーツ姿の名士役が何かをぶん殴るという連想的だがややむかついたという心象的な絵だった。〔 コロンボ刑事役の日本語吹き替え音声イメージがその俳優とは違っていたのと同じで、ロバート・ヴォーン氏の声質や口調も日本語版ではぜんぜん変えられていたと私は思った。実際ヴォーン氏の役柄には殴るような言い回しは無かった。私はその残像に結び付いていた“ 赤ちゃん ”呼ばわりにもっと手強い対処が必要だったかもしれなかったが、意識下のウソを見破るのが先決だった 〕。
私自身はこれを現在の‘ 夢見の実践 ’に問題があるという言い方とは思わない。私は私自身には既に矛盾は存在しない。今日雨天で気温が下がり、床にいても私の両足が冷えたので、むしろそれが‘ ビルディングの黒い足下 ’という翻訳-絵に変わったのでは。

感心しない私
小雨降る夜、Sm通(Suemori-dori)からの戻りに久しぶりに名古屋駅前に視ようかと辿ってはみたが、私はなにも見えないでまっすぐS町(Sakaemachi)の交差点を過ぎた。先週、M城公園傍にもあったのと同じ、まったくコピーしたような笑い方が女子に流行したのか、かつてのMe(MARUEI)側の路地にもげたげた笑い声が遠く隔たれたところのように空しく響いた。
私は昨日まだ‘ 犬は偶然ひとを噛むかもしれないが人はそれに犬かどうかは判らない ’というナンセンスの言い回しだった。しかし( 先週私は耳栓等に綿を巻き付けて詰めていたものの今夜必要とはしなかった )その遠さは‘ 幽霊のような不世出の,生まれ出ない ’だった。

2017-11-02: 視覚・身体的-刺激と一致させる。
( 視覚-刺激と心象が‘ 夢 ’催す可能性について: 一例に、‘ 雷大会 ’激しい電光等がその夕方あとも脳裡に続いていたかのようだった〔 8月22日-23日付,参照用リンク-下段 〕。私が敢えて再び真夜中にも視覚的-高めようことと、私は今朝これを私の自転車最中に試してみた。
しかし、私は何年間も私自身のものを切り離していたのだが、私現場に視覚・身体的-刺激からの合致に拠り、子どものときのように知覚は私のものとなった。また、私は私には観念的ものや擬似的人物( 残存 )に対して不要だとも言った。しかし私は今こうして私の動きとみる。ひたすら電圧とする。 )

激しい雷電等-フラッシュ( 刺激? ),視覚的印象とイメージ :23,08-2017

2017-11-03:
“( それらの )機械 ”は動き続けていたが、私にはなにも無かった。私は‘( こちらの )機械 ’と言い直した。

夕方,すでにおぼろ月夜だった。自転車に自由が丘2にて学校制服姿で地下鉄に向かう少数から珍しく例の“ ショッカー団 ”のような特徴的物真似があった。今ではもう小学生たちもあれをやらない。
私は私のお話側にもこのサイト向け日記にも三々書いたのだが、今は安全に受けぶりなどをやめて主体一致するべき。私自身の問題などと交通できるというような利-符は最速いっぺんも無い。私は‘ 神 ’であり、私自身‘ 先生 ’である。

夜,なんでかJヶ丘3に上りから西へKo山霊園の墓地沿いに下りたらいつのまにも無く両足がものすごく動いた( また‘ 私の ’と言うの忘れていた )。擬人化されていたものが一時的エネルギーとして回収されたのだろうか?( 外的刺激を要しないという意味では )本当かもしれなかった。

○ あかるい砂地のクレーター形に半分埋まりかけた校舎のような建物。( 図像ではないが心象的に )その片側に血が染み込んでいる。自転車途中でのイメージ。
〔 私は単にこれが象徴でないなら“ 出血 ”の兆候?とも思った。イメージに象徴というのは、言語が人間に拠って意図的に用いられない受動的の状況にも当てはまる。私は毎朝‘ 夢 ’見る直前途切れるの繰り返しばかりで、具体的な症状は無いが 〕。
単独で“ お話 ”が可能なら脳には一定のコンポーネントがあるわけだ( 記憶的蓄積がそれに拠り利用される )。“ 明晰夢 危険 ”と言った作者たちはそれらを“ 明晰夢 ”の為の障害だと言ったのかもしれない。私はそういう作り方には同意しない。一度も周りを持たない子どものようになにも分割されないときにこそ‘ 天才 ’といえるからだ。明晰夢は本来‘ 神的な ’領域であって、単に人間の写しを面白いという言い方は無い 〕。

2017-11-05:
“ 自然任せではひとは眠りに落ちてしまう ”。だから私は私自身をやめるか敢えて私として試さなければならない。私は今朝私に‘ 夢見るは可能 ’と言わなければいけない。一時的にでも‘ 神 ’である。

体の右半身が治りかけているのか( 右膝近くと右腹部表面にだけ治りの遅いかさぶたみたいなもの )、右肩甲骨の下辺りにこむら返りのような痛みがある。これはたぶん‘ ひっくり返る ’兆候なので、片手にぶら下がったりしても収まるものではない。腰に原因があるのか? 少し様子を診よう。

午後、起床時に寒気。ひとつだけの‘ 夢だ ’にも想い起こせない。歩くと右足はいつになく良いのだが、便所で偏頭痛( 右側 )と直後にわずかな“ 兄弟喧嘩 ”印象があった。私には男兄弟はいないし喧嘩にするような言い方も無い.. 連想に、昔だれかが“ 弟さん? ”と訊いたり,図書館で私が非常識な客に叱ったときにそこの係員が“ 喧嘩ですか? ”と私に言ったりしたのも、そんな印象が原因だったのだろうか?と.. 直後に偏頭痛はやわらいだ。