· 

視覚的印象とイメージ

2017-08-22:
夕方ひっきりなしに雷鳴があったので私は河川堤防まで眺めに行った。ある落雷の一閃に視たとき私の眼のシャッタースピードが足らないかのようにその光が破線-連続状にみえた[:実際にはブレ無し映像だとしたら撮影側の速度が高いのだが,なんでか逆に言っていた。]何度か小さい落雷-直後に雲側に指先等を拡げたような雷電が走る。

2017-08-23:
深夜、私は寝付こうとしたが、あの雷電のしきりに光る様子がずっとあるようで、暗い室内に私の両目を閉じていてもそれが印象的にちらちらしていた。不図、玄関の方が気になってそちらになにかあるようにその昼間のようなイメージみるとそこに母方の祖母が生前の少し若い姿で上がってきた( 午前4時まえ. )
( なにか親類みたいなひとに事情があるのだろうか )意味わからないので再び寝てみると先だあの雷の視覚的印象-同然に微かなフラッシュが左に右にある。

階段上りに突然足を踏み外しかけたかのような一瞬-夢? 両足が跳ね動いた( 午前5時頃. )
雲間-光の枝が拡がり明滅したような昨夕のままのイメージ( 午前5時半頃. )

本山_八事-4周( 約26km ),なるべく疲労にしない漕ぎ方はわがものになりつつあるが、そういっても私は未だ自転車最中に発射するには至らない。更に一周できそうだったが午後10時まえに切り上げた。途端,雨。
〔 この晩にも本山付近に怪しい声掛けや拍手の印象はあった。私は差し向けなかった( あたかも他者自身-呼び捨てのような態度をそれ自身に拠って自動終了するべき )。私がもし私自身に外的刺激に依って動かそうとすればまた余計な反応がおこる。私は純粋に私の両足自体に拠って漕がなければいけない 〕。

2017-08-24:
私は14時過ぎまで日焼きしていた。途中、私は私の右手親指に( 左に比して )緊張が無かったのだと気付いた。私は私の右手側に避難があると推測にはできるが一体なにを避けたものか?とは考えられなかった。
ある時点で私の光熱が太陽のそれよりも増したかのように外の日差しはそれまでのように強くはなかった。

2017-08-25:
私の“ 性欲 ”は夢の発生原因そのものではなく‘ 夢 ’に対して注意を向けさせる“ ハードの存在物 ”との関係だと思った。なぜなら肉体の“ 手 ”と同じように、だれも肉体自体を完全にやめることはできないので、これらはひとには厳然とした神のように働くのである。だから‘ 自在の神 ’には対象をするような夢見が無いのだろう。しかし‘ ハードと自在 ’行為には包まれたり抱え上げられたりというような外来-目当てなどは不要である。

2017-08-26:
学校-教室内の教壇に近い所に私ひとりだけ立っていた処に女子教員かなにかが来たので不意に私ひとりが前に立っているのは妙だなと。しかし私は‘ 私は構わないじゃないか。’ 
〔 私はそこになにも思わなかった。責めるような問題も無く、私はしずかだった 〕。