私は“どこ”へも行かなかった( 所在-?)

2024-02-07: 右-見れない-?
..私は2月初めに一斉値上がりとなったのを(もはや)全く気づいてはいなかった。野菜生活100のベリーサラダ900mlを214円で買っていたの-が,急に267円当たりまえとなっていた。前回あのハローフーズ近くの図書館に寄ったときに,やはり214円で比較的最新の日付で置かれていたのを予めチェックしておいたので,イオン系などの値札をみたあとでは(,これの前夜-終業間際のドーム球場前店では257円程度だったと憶うが,2.28日付の物が棚の奥に少し置かれてあった。マンゴーサラダよりも1日遅れなのは通例だとしても,他店舗に無かったそれくらいの日付ならマークしておこうと)思った。[ 何店かでは,あとで再び値下げされていた.. ]
( 生芋こんにゃく板250g84円は良かった。)
前回“ 四季 ”など聴き比べのために既に借り出して一定期間かけていたので,“ヒルデガルド・フォン・ビンゲン”のあれを同時に借りられなかった( Sequentia “ Canticles of Ecstasy.”)[ あとで聖歌集のようなクープランによる曲なども聴いてみたが,なんのことか,わからなかった。]
私は自転車の最中にも右に振り向いて後方確認しかけたときにだけ,“きちんと見切れない” なにかとの面倒だと思った[ 翌夕には見れるようになっていた。]
-先ず,通ったことの無いドラッグストアなど3店に短時間で効率よく回って品揃えや値段をチェックしようと試みたが,3店目( その前後の繋がりが無くなったかのように路上記憶から辿れないミステイク, )あの図書館までの時間が足りなくなるのであきらめた。あとで,その“見つからない”理由を考え正そうとしたが,従来普通に帰り道の町内通りに近い目立たない位置に遇ったからだ-と( その夜道での灯り印象で光景的な絵としてそのひとつアングルだけ- )普通にその一方向からの通り路に限られていたからだ-と思った。更にあとで,その通り路自体が,(それ以前の通常ルートから偶々その時々の都合で大きめ道路より町内めに入って行った場合だったので,)半ば恣意的な“回り”になった部分だった-と思い直した。それらは人目の少ない“近隣”といった慣例なので,意識的に目ざした個所でなければ私の留めにはならなかったのだ-と。-だが,これも安直な思いつき? むしろ,以前からの理由ではなく,あとの都合かもしれない。“これ”や“あれ”ではない,未完了の表しが必要だ。

2024-02-08:
..夜のあいだに一度,普段通りドアや何かに右手を差し出して確認作業の瞬間,私はその右手自体に見れていない?( この腕自体にみようとしていない- )
昨日,体幹中心というよりも今一度右側で歩こうとしたときに,胴体内の右から縦筋のロールしたような緊張した動きが起こった。まるで長いあいだその筋肉の使い方が無かったか,左側のそれのようには緊張させられなかったのだろう( このような,左右に均衡の難しい“片側依存”-だったとしても,体力的な節約の為なのか(-片側を休ませる?)純粋に心理的-原因なのか,私は思いつかなかった。)
私のこれにはもう以前述べたようなP-自体との面倒も無かった( おはなし側は,“警察的”問題と“エッチごと”とは不可分だったのだと再び指摘した。)
このまえ(怪我に判らなかったと記したとき,)もし身体左右の本当に一致した均等と中心だったなら,通常の‘私’とは居られないのかもしれない..と述べかけた。( 2023-12-21 / 不思議 - 以後,このあいだの関連-自論等;
.. あの夜,私が純粋に“意識喪失する”ような状態だったとしたら,( 2023-12-30, / 記憶と身体 )
.. 先ず視界に腕が在るとき,この視点は腕に焦点するかもしれない。( 2024-01-10, / 実相と外観 )
.. これ自身との意識的符丁といったものが全く無くなったとしたら,(私は)その場からいなくなるか,( 2024-01-11, / 実相と外観 )

.. 身体的自意識というものは,刺激の要素も無意味となれば,喪失される。( 2024-01-19, / 体向-像現 )
);“私は偽ものだった”という認識の可不は当然おこるべきで,これを再検討するとしたら,“何”も起こらない。

2024-02-10: ふかしいいも
..自転車で動きだしたとき,再び私は右側に(受けない)自発としていた。耳目にうつるものがあればそれらはすべてこちら自身,しかし,自発体は(自身を写すためのものではなく,)ひこうとはしなかった。
そのとき私の不意に,“ふかし(不可視)いも”というワード遇った。( それは先ず“ 蒸かし ”ではなく“ 不可視 ”といったようだ。)-私は“,不可しいいも,か”と言葉にしてみた。自発体の,“蒸かし芋”といったたとえだろうか?
.,尋ねても意味には変わらない。私は“可笑しい(おかしい)”とは言わなかった。

2024-02-12:
..夜中,セクエンティアの歌った曲に聴き直そうとして(ラテン語の歌詞なので対訳に依らなければ意味不明,)室内-視界左側の光景に,一瞬なにか不自然な動き遇った。物ではなく視野のなにか(歪むというよりは,動いたような。)
..修女たちには失礼だが,あのブラッドピット演じたルイというヴァムパイアの最初場面に遇った,“ 彫像の動き ”連想された。
私は日記には述べなかったが,昨年末頃,偶々“生きのよい”野菜など眺めた瞬間に,それがわずかに動いているかのようにみえたことが何度か遇ったと想いだした。もしアンライスがそのような体験自身に因って書いたのか私は知らないが,なにか“それ自体の動き”みたような体験おぼえたひともあるかもわからない。
..“錯覚”の直後,視野の中心-やや右に青いドット光のようなあれが閃いた( 昨年末だったか,視覚の全体に一瞬だけ薄青っぽく変わったような印象も初めて遇った。それらは私の思考レヴェルとは直接関係無かったようだ。)私には以前のそれらは“彼女”という能動的体験性に関連してから後々表れたので,“彼女”ではない表れ方には予測も希望も無関係な,状況的なにかの反応といったばかりだ。
..毛布を頭に被り目蓋とじて音の響きに聴き入ろうとしたとき,今度は(頭の左側-端から)比較的はっきりとした3つの鈴(ひとつ同時に)鳴らしたかのような音。?
それは聴きかけの音とは違っていたし,私の意識状態にきっかけとなるような動きも無かった。そう言えば,以前,自転車で夜道うんどうルートを設定しては走ってみた頃に,あたかも木板が鐘つきに鳴らされたような-音の(あれも左側-真横に近い方向からだった-)遇った。

2024-02-12: “ 面倒臭い ”という(過去の)言い訳.
昨年の終わりか1月頃まで私はダイソーの“ 2コで108円 ”にフルグラやその糖質オフの50g袋があったのを一度も知らなかった。もしグラノーラに“おかし?”と言わないで400円ちょっとずつ出せるとしたら,近隣のドラッグストアで買ったかもしれない。[ -数日後,近所のVドラッグにあのベリーサラダが214円で置かれたいた。昔私はそこで一枚5円コピー機を尋ねたら( 広告チラシに書かれていた-が,別店舗だった, )薬剤師姿の店員が向かいのコンビニ店舗にならあると不機嫌そうな受けない口調で言った( 私はコンビニ店舗に目を向けたが,見当たらなかった )それ以来一度も寄らなかった。]
,麦フレークって? わざわざ焼かれたものを栄養分と言い( “ ローフード ”の話題人記事に遇ったのを読んだ頃,私もいっぺん加熱料理に自省した。このまえ“ 9割の栄養- ”本も50度C-55度Cくらいでの蒸し野菜などをすすめていた。加熱することという習慣に依拠するのは親子のひとつ覚えみたいなもので,動物の体は本来あちあちの物などいきなり食える筈は無い。
この(下線)一文を声に出すようにして読み直してみた処,“それなら硝酸アルミは無い”と,なにかYのような口調で言ったが,連関なのか?( 私は彼女のなんで持病がちだったのか,一度も聞かなかった。) -

最近また(なんでかわからないが)路上のカップル-特に男子の方が自転車の私通り過ぎた直後に怒鳴りかけたかのように声を上げたり,私が安全のために2人歩きを避けようと瞬間に,ある昭和56年みたいな咳払いのことが度々。私は狭い歩道での対向には必ず休む程度に他を過ごそうと思った。私は通行人に頭を上げたり下げたりはしなかった-- 女の子は右に左に歩いていたが(不動だった)若い男子の者が仮だとしたら,それこそU国も世界もおわりだった( 最初から私-自身にもとりつかれていた。
[ ..なにか判らないこと- “他に対する中間物”というような意味合いは,優先しなかった。慣例的な-みなしはBとの利用同然で勝手なACEを過ぎなかったからだ。] 昔OT婦人が私と歩いていた時折に通りかかりの何かに向かって“こら!”と笑いがちにか声を発したりしたが,そういう振る舞いには実は冷淡だった。 最近なにか物が手に持ったのに(ふと)落ちてしまう-そんな回数も増えたように.. )
..自身のそういう感じにみなしたこと,あたかも夜道で偶々いくつか提灯のあかりをみかけた時に。

2024-02-14: “未来の影響”を?
今-“未来の影響”といったら,ノンセンスだ。
..未来に存在しようとしたこと-? またじきに郷愁となる。
いま,これから..
現在しようとする。

2024-02-15:
“未来からの-自身”と言い直してみたとき,“おはなし”無くなった。
現に“別の”イメージで語られていたものは,“未来-自身”だったのであろうか?

2024-02-17:
今日午後のうちに,なにかが終わったような感じだった。
(昨年)ある時,私は“おはなし”予言できなくなった。なにか潜在的な別のものに依拠していたのだろうか? もし-自己還元的に見れば,未来の私自身が過去に観念的印象として示せる当時動機も無くなった-..?
私の自転車はまだひん曲がってはいなかった。私は毎日夕方に排泄の時間となるので,16時以前に出掛けるならどこかで利用しなければいけなくなる。返却できるCDと(そう言えば,あの図書館には珍しく便所の仕切り内にウォッシュレット付きが遇った,)ベリーサラダ235円で新しい日付の紙パックがあれば,ここ数日停滞したかのような日付のものを近所で250円以上で買う理由は無かった( 自主-体力のためのサドル無し自転車なので,むしろ経済的問題と言えば逆説そのものだ。)
私が体の調子をみているうちに,18時過ぎ,(交通量から判断するとその時間帯に走りをするのは無駄な慌て-損だ。)図書館ついでの時間も無くなったのだが,未だ店で商品棚をみるだけなら調整可能だろう.. ようやく玄関に出たその瞬間,ちょうど雨が降りだした。“今日もう行くな”と言われたかのようだ。
(私は)何よりも無く“予言”できなかった。

[翌日(日曜日,)17時の3分まえに着いたので例のカザルス返却,“スカルラッティ:ソナタ選集(スコット・ロス)”と交換した( もう一枚このまえ目を付けておいたクーラント名のCDは見当たらなかった。[“クープラン”との間違い? ])“ 四季 ”のチェンバロパートは聴き取りの殆んど難しい演奏録音ばかりだったので,チェンバロ独奏の方では聴覚神経的にならなくていい。
( ハローフーズで再びベリーサラダ235円ちょうど3.11日付が手に入った。マンゴーサラダと日付逆転したお店も遇ったようだ。)あのこんにゃく84円も(あるサンドラッグでは同一商品が95円だった。仮に自転車の足が使えないような体調であったらその近所区内で充実野菜とそれとを買い足していたかもしれない。)それよりもコーヒー代が無い。昨年トップヴァリュのフリーズドライ-アラビカ70%モカ系だけにコストダウンしていた,(冷凍庫保存できれば水に溶かすだけでいい。私は湯で一定の加熱したあとの生姜水を混ぜてはジンジャー&コーヒーにしていた。私は先ず製造工程で加熱されたりした食物だとしたらそれ以上の再加熱は不利だと思う。)
今日気温が遇ったのか,私は上掛けセーターを着ないで首に巻いて自転車だったが,図書館に着いたら額に汗が流れた。“おはなし”は(体も加熱しない方がいいよ-と)暗にヒートショックを警告した。その時には思いつかなかったが,おそらく,このまえ“ 400才のサメ ”など読んでみたからでは?(冷水温中-ゆっくり動くだけの魚は自身に迫激しないのだろう..)]

2024-02-19: きゅうり一本と聖杯伝説?
[ 前略,通常の“私”無しに事物を視るこころみは(いわゆる“焦点”無しでは,)非常に難しい。観念的な“私”の視点でなかったなら,単に記憶に残った夢同然であろう。]

“夢”は分離されている..(本当のルーツを-)取り戻す。

野菜-主食など,酢で染めるように試みはじめてから,(体の余分な脂肪分自体も溶け落ちたかのように,)肉は全く最少限になった。自転車で初速が出なくなったのは(齢?)栄養不足かもしれなかったが,適度に発酵ものや酢などが在った方が体調がよいようだ。
(私は)“若いころ”の自身について母親との関係だ-と思った節は多かった。わたしの記憶上からの問題だろうかとも思ったが,たとえば路上の者たちや女子男子などの一々変な声を上げるなにかの“反応”みたような場面は続く-と,私はこちらのメンタル的に自任しているものとの問題だ?-と思わされたわけで.,(但し,私は既に“両親”とのコンプレックス的な要素は無かった。元々いままでの自転車ルートうんどうなどは私にとって肉体維持-向上という50代への物理的必然からだったので( 私の“明晰夢見”という目的からみれば,あたかも“メラリス”の中で自身の夢をみているに過ぎない,けれども,わかいこのように“出かける”というメタファー(アントノミックなのかメトニミックなのか態度の違いで,“外的様相”は変わる-と)街のなにかや歩くひとなどが鳴き声を上げるとしたらそれこそ在来していた。[ 私は最早“街なか”とは言わなかった。])そう,それらは“街路”といったが-メイトリックスの子自身だった。)
“私を食べるかもしれない食べ物”--それ自体が吸収性のものなら,栄養分を逆に奪うかしれない.. 酵素反応自体は肉体のものだから,もし成分表的に勘案できなかったら自動的な理処だけだ。

今夕最も美味しかったのは例のこんにゃく一切れであった。もし今晩KFCチキン100ピースもらえたとしても,そのこんにゃく一切れの方がずっと良かっただろう(こんにゃくの切り身を寿司ネタにして10貫を酢みそで味わっても一々糖値を気にしなくていいとしたら,かなりハッピーなときだった。)正月まえに一本だけ買えた“ ざくろ酢 ”がなかなか旨かったのだが,買い足せないので,久しぶりに野菜など塩水漬けにして自家製のブレンドにしてみようと何日間か発酵具合をみている;
[ 私は未だ麹と手入れの方法でやっていないが,余程保存の条件が必要でないなら,塩無しでも果物などは自然に容器の中で発酵しはじめるので,私は酸っぱくなるまで(冬季には)やや温かい面に容器を置いたり,ひんやりとした場所に移したりしてみた..
( 近所の図書館でIE端末の待ち時間に健康食関係の棚みていたら,ちょうど“ 手づくり酵素ダイエット ”というタイトルが偶ったのでチェックしてみた( その日,出かける直前なぜだか図書館カード類の入った小ケースを携帯していかなければならない-という(あの)“ちょっとした必要性”の直感は遇ったが,予定には無かったので持たずに出た., 3冊借り出しになった。)“ 酵素ダイエット ”や初期の好転反応について,一応お子さんや妊産婦さんへの注意書きが遇った。,酵素の働きは48度C以上で失効する( 48度C-60度C.)シロップにしたいからか,“白砂糖を”と書いてあったが,私は基本的には甘味に漬けないで酢になるまで置いておく。)
【 追; “酵素 健康”などのワードで図書館検索にリストアップしたうちの何冊か,最初に“ 本当に役立つ栄養学 ”を借りてみた。その本によると,“酵素ダイエット,酵素ドリンク”などの酵素に関する宣伝は科学的には誤りだという。( ..“体外から取り込むものではありません。..タンパク質でできていますから消化されてしまい、活性は失われています。..酵素が作用する相手は決まっていますから、体内で作用するとは限りません。” )
もし科学的よりも希望的ないい方を選んだのだとしたら,たとえばここでの夢見といった話題について,例のカルロスカスタネダ著に於ける“ 夢見 ”の意味が(,明晰夢見との理論または動義として問う視点者としては)お話自体によるイントロダクションの役割だったのではないか-- 方法論としての箇条書きよりも(自己分析の従来的な記述よりも)体験そのものの文脈として利用したわけだから。
あたかも“ 月 ”がそこにあるから探索活動ができる..といっている者たちの,表面的な目的であったかのように。】
そう言えば,何年か以前にニンジンなどを漬けてあった瓶にその残りの液体が置かれっ放しになっていた。昨年末(,少なくとも4年間程放置されていた)その蓋を開けて味見してみたら,夏も冬もそこに常温のまま放ってあったのに,全く変化も無いようだった。私はそこに昆布やレモンなどをちょっとずつ入れてはとろとろ感を加味してみた。]

2024-02-24: 韻と動
..例のランパル氏とシュトゥットガルト室内管弦楽団でのペルゴレージ-フルート協奏曲第1番(特に2曲目アダージオ,デッカ100の一枚で“ 四季 ”とともに聴いたのがきっかけだったが,“ 古典派フルート協奏曲集 ”にもCPEバッハの曲などと収録されていた)..私の思い入れはあたかも過去のラインによっていた( お葬式にこの曲を..と言った時のように,それは最初にJSバッハ曲を聴いた10代初め頃の“哀愁”みたいなものから,“自分自身”にさようならになった時にはそこに無かったものだった。)
[ このまえ県図書館でCD5枚借りられたので,ペルゴレージ名での曲に関連した何枚かも同時に聴いてみた( 一昨夕,デュトワ指揮の“ スターバトマーテル ”と交換してみた。)県図書館は29日-14日まで2週休みなので,時間無しに聴けるときがちょうどいいと思った。]
私はそのフルート曲を“かわいらしい,哀切のある”曲集として聴いた。..そして,たとえば,自転車や買い物のための下調べ途中で背後にまた“咳払い”を繰り返されたようだ-思ったときに,ある無力な少年に過ぎなかった日の心象と,その切ない気分のようなものとは,“わたし自身”に依拠したものとしては同じだった( あの少年らがどうして私に際して一々物真似のような振りにはしらなければいけなかったのか? )それらは単に投射されただけだろうか。
..私は“少年の思い入れ”をやめた。そうして,夜のスーパーマーケットでインスタントコーヒーと半額になった海藻とを買い控えなければならなかったときにも,他の客の“咳払い”に遇った.( トップヴァリュのあれは5月付から6月付に替わる筈だが,毎月25日前後だったので,次週までコーヒー無しになる。私はいっぺんに50g-100g以上の炭水化物-糖分を摂ることは先ず無いのだが,コーヒーで血糖値をコントロールしようとしていた頃の習慣で,大麦やもち麦などを少しずつコーヒー&ジンジャー液に浸けておいて,半日後それをすくって野菜などのあとに食べたりしていた。)
先週路上で女子2人歩きが“ 汗くさい ”と言っている会話が何度か聞こえたのだが,今週になって年輩婦人たちの“ 汗をかいて気持ちいい ”という言い回しにカヴァーされていた。私は状況的にみて更に落ち着きつつあると思った( 私は体臭を気にされても消臭代は無いので,致し方無い。むしろ,現金の無い私に文句あるなら今すぐ私に現金をくれと請求するのは当然の権利だとも言える。)
そう言えば,先週,名古屋の激安スーパーマーケット情報を検索してみようとしたら,24時間営業を含む何店かがその最初に,あの港区“ 記憶途切れ ”地点と思われる辺りおよそ1km範囲内( あの直前私が夜道として運河沿いに橋へと辿った道路- “おはなし”によれば700m内 )という偶然だったので,“もう一回行くことになるのだな..”と,あの夜以来の辿りを思わされたのである。