身体的反転(今これの(無い)夢)

2022-08-25:
感覚されるすべて = 現象

2022-08-24: 反転した行動
私は“分析”という語を喜ばなかった。しかし(一見,他に対する)無用な推測や憶測といった問題に依らないで,純粋に感覚のこれらだけを見れるとしたら,私の夢見はもっと進展していただろう。
感情-記憶との自己一致は(あたかも視野狭窄といったかのように)見えなくしてしまう。たとえば路上なにがどう辛かったという気配屋からではなく,私が今このときも完全に‘ 明晰実験 ’できているか? [ 最早この一点だけ。 ]
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行動(活動)すべては予め反転した表れ,という見方。
“表出”に因って行動しようとするのは自動的だ。私が観察するつもりでいたなら,それらは単に“現象”である。
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決して自身に何も求めない

2022-08-21:
なぜ身体的“反転”は起こったのか?
反転していた身体に拠って行動判断する。

2022-08-20: 身体は二度しなない( 写実の真相? )
私は一切受けないと今ふたたび意した( 何の必要が? )本当に“受け”なければ私自身,二度と“笑い”のために失われるとしたら,私の死だ。
(純粋な私にとっての)客体的に意識された身体だけが意識的現実であるという捉え方,本能的アピールや興味本位の写しではなく[近年の一般的インターネット関係など,既存の情報に一々反応してはコメントを発するという,一見のところテレビ受動型.,]
客体的に意識されている身体との夢見こそ今回の道理,身体は有り得るからである。

2022-08-19:
ある記憶や印象の甦ったら,これは夢だとフィードバックさせる。

求めなかった右(半身)側。

2022-08-14: 右の動かない?
私の右半身を支えようとしたのを今やめなければならない( 右側自身に拠って立て直さなければいけない。おそらく単に“突っ張って”いつのまにかまた左右対称に動かす振りをしていた。 )

“人物”という幻想
私の過去は間違い-ニセモノだった。私がだれにも依拠しなかったら,いつも“かれら”は私のものだった。私は未だ他人の声を聞いたことは無い。
“人物”という自身の捉え方(いまや存在しない)幻想-ウソだった。

(私は)今なにをしている?(していない?)

2022-08-15:
記憶されている“習慣”を解消してみる。

絶対に“私”に対すること?
私は“笑われる”理由を持たない..と(-無用ながら,自身の要請だと認めるのは難しかった.)
外的環境に依拠しないためには,今いちど内的な鍛え方が必要だ。

先週,ある図書館フロアにての夕暮れ直前,久しぶりに心理学の棚に回ってみたら,“ ミルトン・エリクソンの催眠テクニック ”という題名の本2冊が並んでいた。偶々目についたのはそれが明るい色の背表紙だったからだろう。
バンドラーとグリンダーが著者名だった。私は何年かまえに一度NLP関係の本数冊を読んでみて(ここの日記中に簡単な引用も付けながら ;メニュータブ>明晰夢記録(自覚夢)下段,引用文(自記含む)付など..)だったのに,なんでかそのタイトル2冊には覚え無かった。その一冊目にはオルダスハクスリーとのセッション内容,1ページだけカルロスカスタネダ-ドンファン師匠のドリーミングに関する台詞からの引用といった,不思議な形だ。(元は1975年?出版で,その日本語版は2012年という,ある意味“超越的な”UFOのような。)
初めに,エリクソン博士の“催眠”には(博士自身に拠る前書きには,患者との“対話”できることが何よりも重要だ,と-)例えばフロイトのように威しつけるのではなく,“クライエント自身”の具体性に因っているかどうか?の可能性だと示唆されていた。

2022-08-16: 今これの(無い)夢
“ これは夢だ ”の観察をできるだけ(途切れ無く)持続してみる。
( 前出 2021-03-21: / 覚醒への試行,カテゴリ:実験,ねむけ )

2022-08-17:
すべて自己性のものと捉え直す。

2022-08-22:
食べる(マターを)”という矛盾。

2022-08-23:
受けていないとき
探しているとき
奏している(追想)
意図的に奏してみる。