最後の現象-(2)

2021-11-25:
例の実験( a-b-c項目等の実践:前(1)より; )
昨夕までの眠りのあいだに,不完全ながら(夢毎に)私の意識が取り戻ったかのような一瞬とともに終わった。未だに出遅れている?
[ 問題が起きるのは,例の2であったb空間が( あたかも普通な“夢”のように,1の視点が欠けた状態, )無意味なお喋りやお話し中自体に代わってしまう場合.,2がトップに,1と3との連繋が無くなる。“ まるきり夢中を判断したり止めたりする者自身がいない- ” ]
1(視点)と3(意と)との連携は一致できればいい。要するに,“ 耳と目 ”がひとつであり,どちらかに傾くかもしれないが( 視覚的印象,聴覚記憶的印象,それらの合成等, )
仮に,睡眠時か真っ暗闇でない限り,普段視覚が途絶えるという環境も先ず無いわけで( -瞬間的な,まばたきに関しても,一瞬でも“ 感覚(印象)の断絶 ”だと言えるかどうかという問題として,私の一度述べかけたものの., )聴覚環境に関しては,必ずしも常に物音が絶えないといった状況も無いので,もし,お話し中で埋めようとするひとが,独りきりでも台所ででもフォーニーな記録や言葉などでの語りを発する。( 私は海辺や風林に暮らした経験が無いのでわからないが,始終“音響”の絶えないような場所に孤独に生活できるものだろうか? )仮に,目としての普段の視覚が全く遮断されたりしたら,無音環境での“ 聴覚的な ”再現性に等しいのでは?
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1と3,2との問題,ここには分離が遇った。観察と注意(意識)喚起が“ 耳と目 ”の一致した働きのようであるとき,これという語りは発生しない。事物への注目や関心に依ってこれ自体になるなら,耳目との感覚自体よりも,確実に自己の投射を反映している( 中心現実. )
要約してみれば,観察 | 投射という図になる。

2021-11-26: “私”の無効化
また路上に“笑い”が増えた( 私の図書館から帰り近道にN池町の教会前を通っていたのだが,数日夕方その付近歩道に,偶然なのか,数人が歩きながら“げらげら”笑っていた。 )私にはなににも感化しなかった(;一時期“センシングされている”といった見方は,皮相的であるがゆえに,悲劇的でもあった。)あとで,実際に繁華街に出たら(私が‘ 明晰-意と ’に従えるかどうか)もういっぺん試してみようとも思ったが,体調というべきか,p-に疲労感がなりそうだったので,やめた( 3日毎に生理が? )
無論,私の“ひと”という言い方は自己センスに過ぎなかったし,今,正気の夢見一意であれば,古い“私”という形に拘泥するような要請こそ非-本質的だ,と言える。“私”を守るために“かれら”呼ばわりしたり“私への更生”を奨めたりはしない。“私”が余計な韻を負ってしまうのなら(じぶん自身に聴きたいのでなければ)永久に持たなければいい。
また‘ねむけ’に戻った。

明晰夢見の意図が一意であれば,‘ 私 ’は雰囲気として観察されるだけの環-境となる。なにも同一不必要。この点は質量も大きさも無いモノポールのような中点で,その他は情報に過ぎない( “環-境”というメタファー., )
[ - 環-境との自己対称,明晰視点。 ]

2021-11-28:
対象化されていた(形ある自己像のようなもの)が,無為-無意味,と解消されたら,今再びこちらのエネルギーなる。
[ 先ず,おはなし側に“自分”と言ったりする部分を決して認めてはいけない。詰まり,なににも自身にも“自分”という言い訳を認める必要は無い(それは不正義だから.)
それから,偶々印象に残るような自身の“擬性像”の類いには,必ずしも女子男子の差が無かったようだ。想像利用する動機が生物本能に遭ったとしても,それが生殖線の相だとは限らない。単に身体的な若さや特徴の写し,または要望かもしれなかった。
これのあと,久しぶりにジョンレノンの“ GOD ”が再生した..I don't believe in magic. ..なんのことか,数秒かかって“ しまった. ”と冗談に言ってみたら,次は“ チューブラーベルズ ”だった( 先日図書館に偶々オーケストラ版が遇ったので聴いてみたが,冒頭アタック音が強すぎてびっくりさせられたり,バグパイプ音が遇ったりで,超然とした面白さは無かった。 ) ]

立位の身体で回転しながら視てみるが‘ 振り向く ’の行為である,と気づき。
このときには私が言った“ 視覚( 一瞬,意識 )の断絶 ”障害には無く,もし左右どちらかへの回転に抵抗が起こるなら( できないなんらかの理由があるなら, )確認できなければいけない。
[ 明晰夢研究者は“ 夢最中に身体回転してみるに拠って場面が変わったりする ”と述べていた。私は一度も試してはいないが,もしその場の光景を視ながらやってみたら(自動的に)それらからの連想的に現れるのか,違うものが起こるのか,あるいは変わらないのか? ]

“ 気の運動 ”とは,動的に作りだされるものなのだと私は思った。先ず“ 夢 ”にも意図的に展開する必要が無ければ,なにか受け身に観るだけの映画みたいな。

2021-11-29: “ オーヴァーヒア ”の終わり
寝床で朝まで一睡もしなかったが,イメージも場面も起こらなかった。

なぜ“ 視野,と私(1と3,2)”こちらの夢見に利かなかったのだろう?

-白っぽいモノクロ画面( 画面なにも見えなかったが,その絵が現れるまえに核爆発の映像だとわかっていた。 )回転式の調節ツマミを一方に素早く回すようにしてその像が適正な明度コントラストに映るように調整してみる.. 立ち昇るキノコ雲の形がみえた。
[ 私の印象に残った夢場面はそこからだ。簡単な線画の漫画絵に描かれた1フレームずつのオーヴァーラップ画像みたいに,有名な物理学者AとBがそれぞれデスクの下に倒れたような姿が,次の絵に,やつれ細ったところ。そのあと連想的にか,“ そのときその爆発で生き残れたのは地下監房にいた男ただ独りだった- ”といった文脈(-あとでそれも昔アメリカの短編小説に書かれたような悲相なお話系が思い出された。)]
それら場面自体は古臭いイメージみたいで無意味だった。しかし,わたしの手を使って調節ツマミを動かすといった動作は(その場では予め現れているその“空白画面”の動機を補足しているとはいえ,)確認の手順を伴う可能性があった。
-“ 目と耳 ”と,“ 表れ ”とに,私の手を加えてみる
〔 以前私の記録になった例で,私の指にLEDライト光を点して重要な心理学系の本を読もうとしてみたり,寝しなその点灯光に私のアンカー設定してみようとしたあと,実際に“ 夢自覚 ”が遇った。( 電池の持ち時間は少なかったが., ) 〕