最後の現象

2021-11-18:
今夕私は図書館での用事から“帰り道”途中まで,‘ 観察-意と ’から逸れなかった。常に自身の外的キャラクターかなにかに同一していれば,これは容易に崩れてしまう。だから,私は外的対象に向かったような自身の動きには常に注意すると決めていた。但し,重要な点には,私の感覚されるすべてにただ私自身の現実としてみるとき,‘ 明晰夢見( 今,この夢を見ようとしている私の )’目的投映できるか?

2021-11-19:
私は昨夜一度だけ路上に私自身( 非対称的に,私の対象としての )覚えた。若い日の“ 気の感覚 ”に似ていた。私は以前“ 感覚 ”と言いながら疑似的な諸相に変わっていたかのようだ。
夜のあいだ,“ 急激な眠り( -これも古い言い回し,不正確な. )”-強力な,重い眠気と言ったべきか。〔 私が今これを記すあいだにキッチンの床にちょうどネズミの太った一匹が現れた。昨夜,私が居間にいて少し考え事をしていたとき,私の右腕に触れていた新聞紙等の下に,あたかも小さなネズミが動いたかのような音と動きが遇ったが,私がその不意に見下ろして紙に触れた瞬間には,ゴキブリもなにも見当たらなかった。なにかの現象的な兆候だろうか?と思いかけたが見当が付かなかった。 〕
私は未だ起き出してはいなかったが,なにか観念的なものが(場面ではなく,ある文字表示であるかのように,)“ ”内のなにか不明な語のあとに続いてよい子,よい子という一文として表れた( これは2回同じ形に繰り返された。 )
-
その“ 重い眠気 ”の最後に一瞬みえた,ある近隣の交差点を連想させる,夜景に白いタワー型マンションその右手に下りの路地が急傾斜となっている形( その像全体になにか歪んだか滲んだような印象が遇ったが,やや高めの位置から眺めたかのように,路面は離れていた。 )実際には近所にそのような形は無かったのだが,なにかそんな“ 疑似的な ”もうひとつの現実が有り得るといったような。
[ 私の状況としては,恣意的な(グラフィックな)想像のやり方を一旦ストップしたように私からの漏れや刺激をやめていた。今回これはより若いときのようだ( 生物自然的な欲求に同一自任できないという少年の方が利がある。 )
ひとつ思い当たるのは,昨夕-夜,私は街路を走っていたが一度もそうした振りが無かったかのように(その一瞬)その視界上端ぎりぎりを見ようとしたかのように目を上げた。〔 “ 視界のすべていっぺんに見分ける ”といった注意付けが効いたのかもしれないが,そのとき考え付かなかった。 〕そのまっすぐ視野-上に偶然みえたのは高いアパートメント等かなにかのビルディング( 私はその一瞬まえまでそこに建物が立っているとは見なかったので,その光景に意外だった。 )
視覚自体が(一瞬毎に)切り離されたかのように常に連続していない( 視線移しの際に,視野のものを意識的に連続的に見続けようとしても,断絶の間がある )という問題もあるのだが,あとでまた逆接的な“ 非意識的-ぼんやり ”か,別の実験等に関する話題として述べる機会がある。 ]
私は路上にいたのだが,ある意味,潜在的に高い位置(空中)からの眺めを得たのかもしれない..

2021-11-20: 男子メンズ生理?
一昨夜,あの図書館入口に“ 明日は休館日です ”という札をわざわざ視たのに( 私はそのときには明日第3金曜日だとカレンダー記憶的に憶えていた, )今夕起きぬけにいつも通り行って無灯の玄関をみた瞬間まで,想い出さなかった。
慢性風邪気味のように脳のくたびれたような感じは遇ったが.,(カレンダー曜日等が頭に無かった時期とは違うので,)あるいは,これは私の‘ 夢-注意-意と ’を常にどのような状況にも憶えておこうとしたのが,他に関すること忘れさせたのだろうか,と尤もらしく思い込もうとしてみた。
だが,その夕方‘ 今日は金曜日だな,よし行こう ’と行った時に,おそらくそれは先週(の繰り返し)だったのだろう。直前の行動に自動的に繰り返したりしている(と,そこで意識されはするが)という兆候は既に遇った。
今夜も午前-朝方,それまでの時間ずっと手足に力が入らないような弱った感じだったのが,排泄のあと,例によってp-に充血しかけたように(それ自体が久々に濡れそうな)疲労感からの転換のようだった。以前にも書いてみたように,“風邪”だと思って寝がちになっていたが,(ずっとここが元気になったかのように)頭痛っぽさが無くなった。[ これがあの“ 小さな見えないネズミ ”と関係あったのかどうか? ]
だが,ここで漏れをしてしまうと本当に風邪かもしれないので( 私はもう自身の偶像には刺激していない, )朝のあいだにいつも通り自転車うんどうに出てみた。
私の見ている現実自身として
例の坂道設定ルート,途中で漸く右足動かして体の真ん中で走れる感覚が遇ったが,呼吸が自然に走りに掛かるまでの時間も合わなかった( -“ 体の緊縮 ”したような状況,動かすが難しい。リラックスと緊張とが的確でなければいけなかったのだろう。 )
[ むしろ,今回深夜しんとした暗い細い路地を通りぬけることに抵抗が無かった。私が心理的に(これの意味を)みれたらと思う。 ]

メモ; 自己像( 鏡,あらゆる夢 )の行動( -未だに注意条件点けになっていないもの. )
- 欲望と利用されるもの(の種類に留意する。あらゆる“偶像”のヴァージョン.)
それらと,“おはなし”表れとのタイミングに(対比的に)注意してみる。

2021-11-22: 非-感情論と夢.
また体に力が無い,朝うんどう出来なかった。外気圧少し高い。

〔“ 感情との同一(自任) ”といった過去からの問題,常に考えさせられる。ひとの間違い行動や態度の選択などは殆んどそれ(受けたがり,自己同一化)だからだ。
これについても(私の)すべてに観察するというこれまでの視点-方針は生きている。日常すべてに“ 明晰(夢の)機会 ”と捉えれば,常に油断警戒が成らないのも本当だ。〕

直前に寝床で( 非-感情=無-反応に )唱え続けてみたように,ある夢の途中“ 明晰夢見の実践を検索ください ”と言葉に発して言った。だが,その自動的な場面にはその言葉が唐突だったので,目覚めた( -私はあとで夢の場面自体には想い出せなかった。 )
確かに再びお唱え効果は遇ったのだが,そのまえに対人的な言葉としてプリントした所為か,今回私の“ 夢 ”気付けには効果無しだった( 私-自身よりも自動的だった。 )
常に“ これは夢だ ”と私-自身に認知させるためには,単にサイト名称として自己認識に訴えるだけでは無効果で,常にこれは(私の)夢だというチャンネルが在していなければいけない。
ただ,自動的な感情などの従来が私にとって無意味-無反応化していれば,対象との阻害されたり妨害されたりの問題ではない。感情的な受け答えに私の理由を求める必然性も無い( すべて自動的な自己応答に過ぎない,“わらい”も“いきどおり”も同類だといったように- )
潜在的にこれは(私の)夢だという確固とした常在の必至である。
-
このように考え注記してから私は起床した。動きだしてみると( 自身-対象化が収まったからか, )両手の動きなどが一致したように素早かった。

2021-11-23:
昨夕付けには私は“ これは(私の)夢だ ”という記念が一番だと書いたが,今夕読み直してみたら,“これ-”が優先しているのは間違いの元だ。一見正しく言っているかのセンテンスでも,語順としては未だに“これが-”といった主語転倒の次だった。
[ もし(常に)“ これは夢か? ”という(質問として)記念するとすれば,先ず“ 現実への疑問 ”が浮かぶのが通例だが,動機としての強さに欠ける。寝ているとき以外の“ 現実 ”は大抵いつも目の前に在るからだ。だから,なんにでも‘触れよう’というひとには確かめ我意があるだろうが,私は‘触れてみたい’を認めなかった( 飽くまでも欲求は観察対象だったので, )理性的な実践の基本が第一である。 ]

2021-11-24:
私の日記中に表れているここ最近の(夢見のための)試み等について,段階的な項目として今回3つまたは4に示してみた;

1. すべて,一視点というアイディア(:視野の特定物には集中しない.,)
2. 心的観念物には乗らない(:欲求本意の対象化しない.,)
3. 自己像性の原動(:転移-反転からの回収が望ましい。)

先ず,私の方法として,基本的に,なににも“対峙-応答”しないという原則。すべて(の求め)に応じない。
私が心的観念物のあとに自己像という順に書いた理由は,本来,空想的-仮想的にキャラクター性が形となって表れた際には,それらは自己の(観念的に求められた)自画像ヴァリエーションであり,鏡像といった限界でもあるからだ。

4. 私の(視ている)夢である。

私は前回おはなし側に言うように“ 明晰夢見の実践,と御検索ください ”と言っていたが,もし同時に‘ 意と ’のチャンネルで(私は夢を視ている最中だ,と)注意点けるのに成功していれば,潜在的にでもあのお唱えは同時に生き続けただろう。
これらのポイントと関連的に見れば;

a. 私の視野( 視点常在 )
b. お唱え( 表面的-形式的-暗示 )
c. 意と( 明晰夢見への付置 )

このうち,b“ お唱え ”については“ おはなし ”の類いに代わる自発的なアイディアであり,a-b-cを1-2-3と順序付けるとしたら,仮に上記2と3とを逆にした場合,3番目のポイントに非本質的な“おはなし”や“お唱え”を置くという無意味な関係.,( しかし,“ お唱え ”自体が更に認知的-意識的に促進するか,能動的な夢探究またはコントロールの喚起できる意とであれば,有意に働く可能性がある。なぜなら,普段2のポイントにあるのは,音韻-記憶-言葉に依って概念化したり語ったりするような,思考の機会または論理性だから。[ 私の自動的な“おはなし”と思考とは転換可能だが,ある種の質感が伴ったような印象などの形で表れる場合もある。ある特定感覚での“ 表れ ”に慣例化すれば,それに固着するかもしれない。ただ,身体感覚や言語転換が可能だとしても,それらから思考のような一貫性が起こるとは限らない. ])
普段お喋りのような場にも適用できうる。

上記に記しながら私はおはなし側が“ 耳と目(を同時に使う)に拠って通信できた例がある ”と言った。私は“ 耳と目 ”を(分けないように)一致させてみた。すると,不思議な(あたかも子どものときのような)しずかさと同時に,不意に,室内の板などがミシミシ音を立てた。