中心からの明晰

2021-11-03: 中心からの明晰意識
注目の一瞬と“ぼんやり”との(と,私自身夢だの注意-条件化するために書いたのだけれども,)実際,ある注目の瞬間から“ ぼんやり ”に移るあいだに,持続的な観察と注意-意ととが意志的に正しく行われていなかった(;どちらか一方とのあいだには断絶されてしまった.)
意識的に観察してみようとすれば,先ず視覚的な注視から逸れるような瞬間の“意外”を一状態のあいだの変化として述べるのは困難である。
【 “ぼんやり”状態について本当に観察しようとすることは,あたかも“ 夢 ”自体に精神的に見ようとしてその原理-成り立ちに説明不可であったように難しい。 】
“ぼんやり”自体という認識が可能であれば,この‘ 移行 ’の際に(その)意とするが可能となる。
これすなわち,夢見への特訓である。

一昨日の記しのように,中心からの明晰さは一生の問題である。これが徹底的に心身の“受動と反転”を否定し,ニセモノに依らない,一視点主義を実質とする。しかし,仮に,否定されたもの自身が“ 夢 ”と同じようにそれ自体表れであったという見方も可能で( それが何らかの原動-現象であったとすれば,私-観察者の意識的否定に拠ってそれ更に強まるか,反動みたいにしつこく現れる., )
先ず,中心自体が思考であれば( わたしの映す鏡無く, )以前対象化されたような投影物の類い不必要となる。

[ 私はあのサン=ドニ著の退屈な引用等それらへの著者自身の批判的な第2部に白みつつ,それよりも,‘ もし私が今朝一晩中コーヒーを含まないでそれを夢にみるようにみるとしたら.. ’と思った。が,その瞬間,“ それは既にキャプランというひとの試したことがあるよ ”と言われた。他者に因る実験実例等があったなら取り敢えず読んでみるに之くは無いのだが.. ]

午後,夢場面自体には奇妙なイメージが遇った( 一度も“ 夢だ ”無し. )
ある室内に,他のひとりが“ 小鳥 ”と呼んでいる男のような姿が遇った。その人体のような形に,びっしりと鱗みたいにパーツ等が分かれていた。その腹部には目玉が模されたような黄土色のパーツが互いに斜に格子状で,頭部には赤い上下唇など幾つも張り付いていた( それらは作り物みたいに固そうで動かなかった。それらに覆われていたので,その“ 人体 ”という全体の形-印象にも無関係に,顔面や表情の表れるような通常部分は無かった。 )
それの習性を知っているという者が私に,白い陶磁のマグカップみたいな物を“ 小鳥 ”に差し出すそのやり方を(彼の手を添えるようにして,その生き物に対してカップの飲み口をそっと傾けるように,と)教えた。“ 小鳥 ”は正面に近づいてきてそのカップの縁にかじりついた。〔 次の絵では“ それ ”は台に横たえられた動かないその様子だった。その多数の目玉や唇などが模されたような凸部のひとつだけが外れかかっていた。わたしはそれだけを手に取り外してみたくなったが,無理に引っ張ったりもしなかった。 〕
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そこで夢が終わったのは( わたしがその不思議なパーツを取り外したいといったのが,生物本能的な動きだったとしても, )それが対面的な思わせのレヴェルに近づいて私の思考を喚起しはじめたからかもしれない。“ 小鳥 ”がマグカップを噛むという処では(明らかに,)幼児や動物相手に面白がって“噛ませる”振りかのようだ。
[ 先日ハロウィーンと称してコスプレ姿で集まった者たちの様子がテレビなどに写されていた。それが仮面性(偶像)に於いて発露する残忍さや悪心などと疑似関連づけられる,その当夜に起こったという事件にも象徴されていた。
目や唇が本能的な象徴だという見方は当然だが,ここでは既に性的同一アピールの脈には無い。異性的なアピールの類いは年々無意味-無価値となる。先日“ 生理 ”の話題が(お笑い芸人系の司会者や出演者などに依って)真面目に放映される番組等が幾つか遇った。これらも“エッチ”障害の無い(男女主体ではない)一時期には当たり前だが,未だに科学レヴェルには疎い。 ]
今日私の‘ 注意発生 ’は見ようとするのきっかけで起こっていた。

2021-11-04: “ ぼんやり ”注目
“ぼんやり”からの目覚めといった後付けの注意-方法に比して,ある妄想的な(不意な,それ自動の-)想像や念が起きたら(+それに同一しない)視点を持つという,逆接の式。
無論,何度でも意としようと繰り返せるが.,このような意とは体験的な(生まれるときのように,これ一度きりの)記憶として遇った方が根強い。

[ 今日も外からの“うるさい拍手”は増加しているが,私からは心理的にも一切タッチしない。ここには無用な障害だからだ。たとえ彼らの何らかの写し動物が派生しているだけなのだとしても,私自身の影響ではないだろうし,私として直接に受けたり聞いたりするつもりも無い( 私はむしろ直情的な論には危険視していた。それらがただ私の夢見-条件として慣例化されるという点に於いての有用性だ。 )
今日までのこれら記録が私にとって正しいかどうかが本当だったのである。 ]

2021-11-05:
わたしは自転車で滑走するようにその屋外通路のような敷きの上を移動していた〔その白っぽい平面の半分は斑に緑-青っぽいのっぺりとした立体感の無いもので覆われていた。その印象はコンクリート面に比べて植物というよりはただ緑色に塗られた絵のようでもあった。〕.. わたしは無人構内のひとつに覗いたかのように,その学校屋内の長細い一室みたいな処にみた。その床には次第に破片等,ガラス片等や玩具人形の首のような物が遇った。それから,室の真ん中に〔台座上にその全体が包帯巻きされたかのような,なにか据えられたアヌビス像のような形に,比較的大きな〕犬の像が遇った。わたしのその室内にみた処の左-奥に,ひとつ連続したような部屋が遇ったが,そこだけが妙に暗くて恐ろしげだった。なにかありそうだったが,わたしは敢えて‘ 入ってみよう ’と呟きかけるように言いながら近づいた。
〔 不安の所為か,その場面はそこまでだった。無論,私はその場では気づいていなかったのだが.,先ず屋外通路面の“緑色”が,先日“ がらんとした事務室のような室内 ”で見せられた,キャンバス地に単調にペイントされた画の部分(その少年の両目周りだけが均一に赤く塗られていた)と連想される。“破片等,犬型の像”には不明。
この夢でのわたしは実況中継しているようなつもりだったのか,わたしが暗い奥の部屋にみたとき既に,観察してみようという意思があったのだろう。他者との投影という外的な問題よりも,私自身に話しかけるようにして‘ 視る ’方が上手くいく可能性がある( 自己の外的投影と内的投影。 )〕

この左側
上記にも‘ 右-奥 ’と書いてしまったが,わたしの視界-左側だった( このまえ私の夢記録等に読み直していたら,やはり左右の言い違いが見つかった。私の記録した夢場面などには絵的に憶い出せる場合が殆んどなので,大抵どちらと指差しながら言えば左だったに違いない。 )まるで左側と無関係であったかのように,わたしには右側の優勢が無かったのだろうか。
私は今夕自転車での帰りのあいだにこの右足を対称に動かそうとしたのと同時に,初めて右脇腹が緊張したのを感覚した( 久しぶりと言うべきか,私は何年間かこの右半身の身体感覚だけが比較的に弱いのだと思っていた。この右半身に余計な力みが起こって上手くリラックスした運動ができなかったのは,なにか怪我や辛さが心身に残っていたとしても私からは遡及-特定できなかったからかもしれない,それは恐れと結びついている,と.. )
私はそのとき右側-視界が比較的に視覚できた。あたかも“ ぼんやり ”状態とのあいだに断続されていたあの意識的の問題みたいに,それが自由に焦点的の瞬間(右目でみる。)

2021-11-10:
( 周縁にではなく )根本的に緊張させる

2021-11-23: 最後のうんどう
0時過ぎ,初めペダル上の右膝-下側が痛むのでおそるおそるだった。が,実際に上がってみると前回よりも進みが良かった。例の緩やかな3km分でやめるつもり-が,倍以上になった。しかし,本当にきつい坂上がりの最中,予定どおりに‘ 私の注意-意と( これは夢だ!と自発的に )’起こせるか-( そう言えば,夜景の向こうに続く橋や路という印象として再現されたかのような絵の類いは遇ったが,坂道途中のは一度も無かった。 )
[ 一時期“ 坂道上がり ”自体がその周りに対称化してはそのケツに依って上がれるという三次的な意味ではあった.,あたかも,より大きな観客対象がその運動の成否に関わるといったかの言い訳みたいな.. ]
区内に戻った時,また膝が少し痛んだ( あの“風邪気味”のあれだろうか? )