忘れられた感覚

2021-05-16:
Jヘイリー“ 戦略的心理療法 ”では,先ず催眠者と被害者とが“ 対称的 ”から“ 相補的 ”コントロールとなる場合について,述べられていた(;案外,トランス-催眠に関して詰まらない程に基本的な見方から示しているようだが,あの“ 空間と移動の表現 ”に読もうとしたときのような,読書の心理的文節体験である。)
[ 私としては動物的なレヴェルでの“原因”が人間的な記憶とのベクトル-表現間違いに変わっていると判断されれば(目的と理由との本質的次元が異なる-と,)それは十分に精査されなければいけなくなる。
無論,ヘイリー著は1950年代までのエリクソン(催眠)系で,それの話題項目には立ち入らない。 >夢見の実践f:資料ファイル編にて. ]
ちょうど今“ レストランでのテーブル上-ディナー皿 ”にみたような印象が,その絵としては,“ 赤っぽいタイル地のような平面に,窪みの白い陶製-器 ”みたいだった。
そう言えば今朝,ある夢には変わった点が遇った。室内に“掛け布団,その左端に黄色っぽい部分の継ぎ接ぎされた”が置かれてあった。ある若い婦人ひとり〔私の古い記憶からの〕が右側に立っていた。もうひとり,若い長髪の男(モスグリーンの上着姿)その寝床上に倒れ込んだか眠りかけたかのように半ばゆっくりとした動き。
その場面-絵よりも,私が直後に覚えた“古い激しい郷愁のような”感情の方が問題だった。私は何年もそんな感情を覚えなかったので,それが“その若い婦人”に関する哀愁なのかどうか?(-私が長年遠ざけていたか,関わらなかったもの)あるいは別の,もっと古い幼児期からのすり替わり,またはフロイト論でいう“ 遮蔽- ”に因るのかどうか。今の私には,その“ 感情 ”自体が既に不可思議だが..。

- もっと“抵抗”バイアスに即する修行が必要だという認識からは,恒常的な‘ 夢 ’意識(‘周囲’すべてに)夢見が必要である。
再び私(の視点-積極的)付置してみる。先ず徹底的に‘ これは私の焦点である ’と言ってみる。

- 通常“ 夢 ”では,存在自体が観念物に(ある程度)委譲されている。今この場に‘ 対象 ’面という認識が無ければ,私は存在していない(それらが意識している,という反転的状況.)