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投射現実

2021-02-10: 投射現実( 玄理 )
“目の前のもの”という刺激物には,原理自体が無い。

2021-02-11:
今一度‘私’ではなく,非-同一的に観察するという試み。

2021-02-12: 覚醒(明晰)夢,という概念。
(知覚的に)形象として捉えられる処のものはすべてそれの心的な意味合いを持つ。投影-? 映画-? 匂い-?
覚醒時(-イメージング)明晰(-分析)夢

“ UFO ”自体は一度も信仰対象になったことが無い。

2021-02-16:
“ 早発性痴呆の心理 ”-コンプレックスについての3章目に,ユングはフロイトの語を引用してこう述べた;
..低い声で歌ったり、口笛を吹くことは、完全な‘ 注意の備給 ’を必要としない活動にしばしば付随する。それゆえ、注意の残りだけでもコンプレックス思考を夢幻的に動かすのに十分である。しかしコンプレックスが明瞭になることは、目標を意識した活動のために妨げられる。つまりコンプレックスは漠然としか認められない。メロディーの自動性はその例であるが、これには、コンプレックス思考が普通隠喩いんゆ的な形で含まれている。..
注意散漫実験によると、注意が低下した状態では、思考は非常に表面的な連想に従って進むという推測が正しいことがわかる。注意が低下した状態は、表象の明晰さの低下という形であらわれる。諸表象が明晰でなくなると、それらの相違ははっきりとしなくなる。そのとき、諸表象の相違に対するわれわれの敏感性も当然なくなる。
-と,あるのだが.. 私としては,どうしても“ 表象の明晰度 ”という言い方には納得いかない。私は観察視点は私の注意自体だと思うからで,現象的に依拠するものではない( ユングの文章では,“ 心的分子 ”との表象という。けれども,)-なぜ普通夢自体に注意の私として対することができない? 私の最初質問であり,普通夢がコンプレックスの表れなら,その連なり自体に対して(私が)どう観察できるのか?という問題である。
〔-私には“夢”自体の奇妙さとみえてそれに対して判断が働きだすという場合の“明晰さ”という意味合いが遇った。物理的な表現としてのメタが,私の意識的活動と同時にそれ自体に勘合するかどうか?という観察課題としてみれば,先ずその反応の有無がテスト対象となることに拠って,私これの能動性を試そうという,私にとっての‘夢見の本質’だった。
ユングその章での題材は“コンプレックス”なので,あるコンプレックス表象に対する注意視点が必要だとしたら,これ自体(注意喚起のための,“ 明晰な私 ”か,理性的に働くような)特定のコンプレックスが無ければならないというわけだが..? 〕
刺激(印象)に対するこれの反応がすべてだというなら,刺激に対して単に拒否的であろうとしたことが(-私の無反応,夜中墓地のあいだを通っても感じないひとのような,高所の意味がわからなくなったかのような)失敗だった。

2021-02-17: 失敗(つづき)
要すると,私の視点としてみるとき,それには不明なところがあるのだが,ここでは別の意識が常にそれ自体としてなにかを持っているというパラレル本位の見方ではない(“ 別人格-解離 ”説に関しては以前モートンプリンスの著書に参照してその私なりにどう読んだのかを一々書いてみた。)
ユングたちが示唆したように,それらは分子の関連だとしても,(私には,特に“夢”の表れのような形で)記憶連想の系統立ったような傾向もしくはその連関となるような原因が存在するだろうというわけだ。だから,逆にみるとしたら,私の現象面としての見方が理解の限界そのものかもしれない。
先週私はその場での思い付きで“不意なワード”に対し直後そのワードを繰り返して言ってみた(人の応答のようにではなく,それ自体に機械的に,)別ワードが遇ったら,その度に。素早く発音してみると,殆んど同時“おはなし”みたいに,なんらかの記憶かその自動的な連関に依っているのがわかる。
〔 私の自己データとして読むだけなので,このような試みに外面向けには着かない。“反転”例が遇ったとしたら,私がこれまでに記してきたように,“外的(路上)拒絶”という態度が私の対立自身として分離したのか,逐一の記録等から読み解けるだろう。
いま“ 投射反転 ”しているあいだには“夢”として表れることができない,という直観である。〕
-
ユングが例のコンプレックスという章節に,“寓意(アレゴリー)”について述べた部分がある。..われわれは寓意的に対して、象徴的ということばを使う。寓意は、感覚心像によって強化され、意図された、一思想の解釈である。これに対して、象徴は、一思想の明晰でない、副次的な連想で、はっきりさせるより、むしろかくすものである。
逆に言えば,ある“寓意”解釈のために感覚心像として利用されている。だから“夢”として表れることができない。
私は昔ワグナー楽劇のヴィデオを視ていたが(“パルジファル”など)おそらくもその頃には‘ 夢見 ’無かった。それ以前“聖杯”に関するトロワの描写やカタリ派の歴史などにも簡単に読んでみたが,私自身にはこなかった。“どう読むか”という問題はそれ自身で,いわばに道を辿ってそれがなんらかの地図になったらゲームオーバー?
心像自体としての表れが解釈されたり分析されたりするために表れ出るわけは無い。

[“覚醒夢イメージ療法(シンボルドラマに於ける象徴像としての形姿としての表れに(敵対視しないで)そのようなコンプレックスとの不安解消のため,豊富に栄養を与えて‘和解’を試みさせる;)”子ども青少年セラピーに関する本があり.,その一節にも,
..現実的内容に固執する子どもには、自分独自の童話を作るという指示を与えることもできよう。しかし.. 覚醒夢イメージ療法では、できるだけ魔術的方法、あるいは童話のような方法で課題を解決するような方法を避けている。たとえば、不安を呼び起こす象徴的な姿を魔法の杖で黙らせたり、自分に権力をもたせて世界を変身させたりはしないようにしている。..
-といったように,その基本はイメージングの深化ではなく分析である。しかし,子ども自身が現実的なら敢えて象徴的に支配させたりするファンタジックな,という一種の自己(矛盾)問答ある?
先週ユング象徴説についての言い回しにも,“分析心理学セミナー”終わり数章分(ライダーハガードの“her”という題が,“あのひと”と翻訳され?)よめなかった。お風呂場にたとえば,まるで裸で室に入って服を着てからお湯を浴びたといったような.]

2021-02-18: 分析の価値?
私はフロイト論稿にはそれ自体のダクトだという見方が良いと思った(昔“ 地下の大王 ”かどれかにも“フロイト自身の精神分析”というように書かれてあった。)自己分析が必要なら一個としての体験に測る以外には無い。昨日その前日,私は以前路上等に“集団(かれら)”としてみていたものを(私の映写としての一人称に)戻してみた。
(-私は今これを書きながら,あたかも夕暮れ過ぎ半ば陰の中に樹木のねじれたような松みたいな形がみえた。)
“彼ら”という存在的な観念はおそらく与えられたものではなくただ純粋につくられた(同時に投影される-)まるで何年間も明瞭な“印象”として想い出すことの無い,過去からの遺物であったのだろう。

- 私の内的一致した形象として(夢見の実践-originalに自動検索するための方法)再起する。[“ご検索ください”が方向違いだという見方。]

2021-02-20: “妄想”というものは大抵“刺激物”に依ってきたので,私が良心的かつ道義的であろうとすれば,それの自動性は許されないか,変哲な“音楽”リピートのようである(仮に自発的なと銘打って“好み”自任することができれば,異性-姿にも試合スターにもヒットソングにも“異常”と言われないままにただ利用している.)いや,芸術家であっても運動家であっても,自身のなにかが表現との同一性と自認できるかどうかというだけで,それの名前かどうかはわからない。-

朝方,“ オカ×トの心理学 ”読んでみた(かろうじて,ユング自身のバーミンガムシャーにて泊まり家での“ 耳鳴り体験 ”といった部分のみ。そう言えば,昔“ポルターガイスト現象報告募集”と書いてみたが,まったく反応なかった。)
-ユングと現象(:2021-02-21, )
その読書のあいだ私は何度かくたびれて眠気に遭ったように両目を塞いだが(なにかがそこに進行したかのように,瞬間的に)印象が遇ったようだ。一瞬(同時的に)起こる偽りの現在というものがあるだろうか? あのT図書館傍“幻の出入口(その妙に古臭い玄関口みたいに, / 現象カテゴリーにて.)”これの類いだったとしたら? しかも,後では,それのなんだったと説明できないのは不気味だ。

〔半-動的な想像,〕青い水玉-卵の上を滑空する。その玉は微かに白い空気の薄い膜に包まれている。

2021-02-22:
- 性根に直接‘ 夢見の ’中心とする。
〔 ..ひとつの箱が開いてそこから溢れだす ..月面の,白い平皿型クレーターひとつ ..そして半ば岩山のような(幾つか窓のようなもの).. 〕

例えば質問語のひとつとして,“ 母親願望からの転移 ”と言ってみた処,“吊り鐘(寺院のそれみたいな)”イメージが自動的に遇った。だが,これに対して追及する必要か,それとも他の方法が良いのか?〔私は“ 覚醒夢を用いた子どものイメージ療法 ”を読んでいる(参考読書にはいつもページ順に読むことに時間が掛かり過ぎて難しい,)
そこで私はその終端-第3章“ アンナ ”の場合から一節ずつ遡り読みだした。〔‘ 夢見の実践:資料ファイル編 ’参考図書1に説明.,〕欲動とのコントロールが放れるとき,“見つめる目”自身であることは**他にとっての‘露出’嫌忌であったとわかりはじめ(-自己の性的確認のために他を利用することは厳しい反対を招く-)ようやく自己分析に移るが..〕
原因遡及的にみるための手立てが予め起これば。

**“ じっとみる両眼 ”という象徴性(:2019-09-15,)