読書ノート: 能力研究-(11)

2019-10-07: ‘ 憑依 ’について考える
“ 医師の心霊研究30年 ”,カールAウィックランド氏がその夫人の霊媒等を記したという( 主にその“ 憑依霊 ”との会話内容等として )。それら霊の訴えやりとりに拠ってその姓名や所在等が本当だったと判明したという。大抵その“ 死者たち ”が自分らの死んだのを自覚していない( かれに教えてあげなければならない )と。
その会話内容等には,私は私の若い頃に読んだロバートAモンロー“ 体外離脱体験 ”に於ける( 邸宅内での“ 元住人 ”との会話や,のちのレスキュー活動など )既述がそのままであったかのように想いやられた。
それらが本当なら、その“ 霊たち ”との具体性が,あたかも物理的なひとやものを介しての直接的なきっかけであるかのようだ( もし,あるレヴェル以上の知性や判断あるいは思念そのもののそのような“ 霊的 ”通信が可能であるなら、私は遠い惑星や宇宙人類や別次元知性体との交信も可能だと思うのだが,まるでこの宇宙には一点だけだといったかのように、なんでか未だには証明されていない )。
その第3章“ 潜在意識か,自己暗示か ”には,あるひとの関係者( 最近亡くなったひと )が,そのひと自身には明瞭に表れないが,偶々その同所か付近にいる他人に憑いたかのようになにかを訴えだすという場合..。
( あるレストランでクックをしていたO夫人のケース ):
彼女は一人のウェイトレスが、妄想と幻覚のもとに、奇妙な行為をするのをみて、私の所へ連れて来た。
ところが、その夜、O夫人が或る奇妙な状態になって眠ることができず、翌朝10時頃まで不安な状態が続き、そして、昼食の準備をしている最中に荒々しくなり、髪の毛をかきむしり、今にも自分自身を傷つけそうになった。
私が往診を依頼され、到着してみると、O夫人は錯乱状態で荒れ狂い、そして、どこへ行っても追いかけられて休息する場所もないとこぼすのであった。わたしは霊によるものと考え、暴れないように両腕を縛って椅子の上にO夫人を座らせ、話しかけてみたところ、その霊は男性であると言い、死んでもいないし、婦人に憑依もしていないと言いはるのであった。
その霊はジャックと名のり、ウェイトレスの叔父で、生涯、放浪の生活をしていたと言うのであった。指導霊と話し合った後、彼は次第に自分の現在の状態を理解し始め、今後、もう迷惑はかけないと約束して離れていった。O夫人は、その後、直ちに正常に復し、何の支障もなく、又、彼女の仕事をし始めた。

..しかし、そのような“ 憑依された ”ひとの変化は,主観的なひとの眺めには一見“ 精神的 ”問題であるので、おそらく( あるきっかけの直接的に導かれていないと )ある霊に因る動機-論理という見方は成り立たない。ウィックランド夫人が無意識トランスの“ 霊媒 ”であるから( そこに“ 患者 ”が連れて来られて話し出すと )拠って理由が判明するいう次第であると。
ウィックランド氏は;
霊聴能力のある患者は、憑依霊の声を聞くので、絶えまなく悩まされ、非常に苦しみを受ける。( 幻聴はしばしば精神科医によって観察されている )このような患者が心霊サークルに出席し、霊が患者から取り出されて霊媒に移されると興味深い現象が起こってくる。 ..というが,( 私は私の自己催眠が可能であったように個人レヴェルからの‘ 霊現象 ’化も不可能ではないと思った ),,但し、トランス状態自体がそのように誘引されるのかどうかという質問はあるとしても、ウィックランド氏はまったく精神医学的な意見を否定していたようだ。
このような心霊研究以後著作等には,モートン-プリンスという名が度々表れる。

私はこのように“ 憑依 ”現象に精査するというが( 私に於いては )私の‘ 夢見 ’にとっての正当を高めるためにも必然のことだと考える。
睡眠の夢には,明らかに見ようとすれば,まるで他人めいた( それ自身であるかのような )変な状態が当然化する。私は私として,そのような‘ ほかの論理 ’には一切与したくない( たとえそれらが欲求に基づいているとしても,‘ 私の夢見 ’のためには否定されるべきだ )。ここには‘ 私不在 ’状態がなんなのかを質すという知識的の意が欠けている。( ‘ 私 ’自身といいながら,未だこの文体の不備にも気が撞いていないと指摘しなければならないがように )。
しかし、ここでの問題は,否定形そのものかも知れない( 例えば、路上で拒否されたものが,更に路上での逆の言い掛かりに変わるというような。併しも“ 他人 ”にわらうのは元来不可能なのだから、それはそれら自己に対する“ わらいたい ”であるに違いない、と )。
私として,‘ 夢 ’に妥協しながらみる( みられる )という言い訳は無いのだから.、例えばこれまでに私が提示してきた‘ 方法案 ’等のどれが有効だったかをはっきりとしなければならない。

2019-10-09:
今朝,夢の最中には‘ 夢だ ’と言っていた。私が寝床に着いたあと私の右半身が生きているようだと思ったのを憶えている。習慣的な寝際と比べて違う点があったとすれば、鶏肉を半-茹でで多めに食べたのと( 炭水化物-無し )、レモン1個まるごと絞って飲んだ。〔 -この時点では果糖に関するデータがまったく無かった. 〕私は昨夕“ 脳の疲れ ”に関して検索メモしたので,その内容があったのだろう。
その‘ 右半身 ’的に,ある女性のような姿が偶った( 先日偶々テレビ番組に映ったナレーター役 )が、“ 彼女 ”時みたいには移行しないようだった。私は故意なマスターBよりは生殖本能そのものの方が用件なつくりが無くて先だいいと思ったのだが.,肉体自身に告ぐかイメージに依存するかという分岐的な問題自身には、しなかった( おはなしという対象-型にも,しない )。
体温と外気冷えとのバランスが感覚的に良かったのかもわからないが、私は朝方その夢直後までには“ 眠っていた ”とは思わなかった。
私が記憶的な絵に留めたのは、その夢の最後にみえた,その縁の不明瞭な黒い影のようなもの( やや不規則な四辺形か,その辺どうしの傾いたような )に対して、その左上から鈍角に向かって小さな雷光みたいな一筋が閃いた。それで私は“ 黒い雲と雷光 ”という連想的なメタファーと思った。
それより直前からのイメージは,おそらくふつうに室内用具の類いがあれこれ置かれたような狭い通路を,ある一定瞬間毎の画像送りとしてみたかのような印象。あたかもその“ 通路 ”が一節毎に分かれていて,それらとひとつずつ通りぬける度に蛇行したような潜りぬけたような印象となったのかもしれない( -腸内環境かなにかのたとえかもしれないが )。起床あとの私の想像では,住宅外観等の写る通りという絵に変わっていた。しかも,そのイメージには,色フィルターが掛けられたかのように青っぽかった( -昔の“ 華氏451 ”ナレーション画面に遇ったような )。
そこにどんな象徴が遭ったのだろう? あの映画オープニング( 各家屋テレビ用アンテナへのクローズアップ等 )は,“ 受信 ”と書き手自身との本質が同じだと言っているかのようだった。その劇中では,テレビ番組が視聴者に名前で呼び掛け応答を迫るかのような凝視モニターの場面がある。お話上それは“ 見張り ”という含意になるのだが、視聴者といいながら実際には監督されているという構図であり、‘ 夢 ’にもそのようなそれ自体の因が( 私の視る面に )自動的に働いていたかのようだ。

2019-10-10:
‘ 私の体に収拾 ’といったとき、私の腹部( 前部-胸より下 )やや青い光の点ったようなキューブ等が水平垂直何列かに収まるというイメージ。

・ ‘ 明晰夢 ’の芯をつかまえる< 他動に面するの自己内-効果? 受身-無意識-態と主動とを入れ代える。憑依をやめる。 >
ある瞬間それがそこにあるのがわかる( 外在化現象との可能性 )。
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( “ パラノーマル-アクティヴィティ ”という映画には,ある若夫婦寝室に据えられたビデオカメラが映像という主眼があった。 )ベッド頭側-壁正面左側に通路への出入口があって、なんでか真夜中にもずっとドアが開かれていて,如何にも暗い映りである。
( 妻が寝つかれなくなるというのは当然としても、夫がその奥から投げ跳ばされるというのは腑に落ちない。私の脚本でなら,おそらく途中で夫がいつのまにかいなくなる..,と“ 現象 ”本位に書いただろう。 )

・ やる気を意図する。

2019-10-11: 還-元
ひとたび‘ すべてに観察すること ’と私は言った。今も“ 精神汚染 ”痕跡は残っている( 自らつくった“ 子供 ”像のように? “ 無意味な暴力と ” )。私の目的とそれ以外とは明瞭に見えなければいけない。
現段階では,私の霊的に見極める( やめさせる )最良であろう。

‘ 能動的想像に( 夢-注意を )書き込む ’という記憶的のアイディア:
○ ‘ 新聞屋台に記事面の読んでみる ’というかつての方法( -維持的に視覚化できる; イメージノート収録 2006-12-15,2007-06-24 例 )+そこに注記‘ これは夢である ’と書き込んでみる。

ここ数週間,顔面維持のために筋肉運動を適当にやってみたのだが、私には呼吸を起こすのが先決のようだ。幾ら表面的に触ってみても深層を動かすには至らない.,むしろ蒼褪めてしまう( たぶん,私のここ数年経験的に言えば、淀みの無い一発的な運動あとが身体には最も良いようだ( 短時間に最大速度だせるような自転車うんどうなど )。反って前後に気を揉むような神経的な“ 鍛え方 ”は合わない。 )

2019-10-13: まちうけの象徴
“ 夢、夢見ること ”後半に読んでみて、私はやはり‘ 分身 ’に問題を解決することが先決だと想った言う。例えば( 自身の像を含めて )キャラクター化に依る人物記憶等が‘ 夢での分身 ’に変わるものというならば、最初から( 赤ちゃんの請求そのものを )無してしまえばいい,わざわざ分析なんかしなくても。“ 歌えることが無いなら歌えない,なにも知りたくないなら知れない.. ”昔そんな歌詞があった。
私は単純に‘ 見よう ’という欲求が強ければ簡単な明晰夢になったと思う( あるいは受肉するそれ自体であるかのように )! -私は一度“ 坂道に上がってきた女 ”には対称的だった,そして振り返らなかった( つい最近まで私は“ 夜道 ”に対して同じく、私の走りぬけたがその場に振り返り視るのは難しかった )。あの瞬間には私はあの“ 両眼 ”に狼やハンターというような印象にはならなかったけれども、それとも、たとえば酒好きやスモーカーが呑め!と言われて反対に断ったという場面みたような。私が最後にあの“ 両眼 ”に遇ったのは純粋に私のイメージのような面でだった(
‘ カエル ’: 2018-09-18

昼間、昨日以来,市立図書館等のネット端末が使えなくなっているという情報が不足していたので( 一旦おはなし側が止んだのか、もう“ 勘 ”が働かなかった )。私はわざわざ他館へと遠回りに走った。その戻りに名城方向への途中,W大通付近で偶々地元人以外の何人かが言いかけた( 私は遮光用に例の顔面毛糸帽を被って自転車を走らせていたが.,)今日行き来の最中にはようやくいっぺんも“ 笑い声 ”に遭わなかった(-何年か振りに 。私は先週までH中学校あてにクレームを発しようとしていた,私の通り路での制服女子たちによるげらげら笑いの件で。)
仮におはなし側に“ 感染 ”因子が遇ったとしても、あたかも男子がやめたあと女子ばかりに偏っていたのは( 私からは事情が見えないだけに )おかしくなかった。
私は私が直前に書いたこと( “ あの光るような両眼の女 ”または“ カエル ”に関して述べたこと )-原因が遡及されていると考える。私はそのような表れには生物本能のようなものが必ず代表されていると思っていた。特に‘ カエル ’のときには,その興奮というよりは犯すという欲求そのものの場面みたいでも遇った。だが、結局それは普通の“ 性交 ”と同じく,自身からの偶像をタネにしただけで、同一できなければ今の私のように‘ それがどうした? ’と言えるだけだ( 私は実際他人とは一度も同衾できるとは思わなかった。 )
“ 時折食欲 ”が性交欲の転化かもしれないという点にも私は直に言及する。

2019-10-14:
‘ 外在感覚 ’を受けるということ。外的 / 内的なポルターガイスト。

- C.G.ユングに拠る“ 無意識の複合体 ”力:2021-02-21,