めいせきむ きけん ?

2019-02-09:
最近また路上に今度は“ ひとごろし ”という語を言う少年が時折あった。私は彼らが特に私に関連的に言ったのかどうかには一切関心しない( 投影しはじめればメンタルに“ 全員 ”といったのと同じで、“ 言い返し ”などしても切りが無い。自己に依る特徴化とは、肉体-性徴に認識を持ったりするのと同じことで、凡そ依存的欲求に基づいていた )。
たとえば“ 人 ”という言葉で表されるようなクッションは無数にあった。私が自分自身のそれにはなんであろうとみきわめるといえば、私のここは赤ちゃん以来つくられてきたものだった。
私は( 先程 )台所傍に即席ラーメンの袋をみて一瞬そこに“ 母親 ”というメンタル性が転化されていると気づいた。私は袋3つをひとつずつ持ち上げてはそこに“ 違い ”があるのかどうかと確かめてみた。私は普段そのように物品等にみることは無い。これは私の身体自体にも発生し得るのだろうと私は考えた( しかし、ここに読み取れるかどうか )。
私はなにかを理解するだろう( 但し、このようなことについて研究といいつつ依拠しながらに言うことは、“ 明晰夢 危険 ”というような探究者自身の完全な自主性に基づかない場合と同じく.あたかも私にはそれが自身のものではないのと言った如くに‘ 言わせたり言われたり ’という要請を招く。おそらく例外無しに、本質が一致していないような偽-目的すべてはそのように内-外の“ 批判的言動 ”に晒されている )。
-
最近さすがにすべてを命令形で言うようなひとも余り居ないようだが、“ 夢 ”というのは大抵“ Would you - ? ”とは言わないものだった。

夜、紀平梨花選手の演技をみていて‘ 体幹ありそうだな ’。宮原選手がまだ中国人ジュニアみたいにみえたときに、私はあたかもその画面に‘ このひとはこれから必ずトップになるよ ’と言ったが、ちょうど私の横にうちの妹がいて即座になにか疑わしそうに私のひと言を否定した。そのときのもうひとり選手は“ 黒鳥の羽根 ”をやろうとしていた.それもよくあるというには象徴ではあったが、このとき私には別のアスペクトは無かった。
しかし今回私はK選手の演技中に不図‘ あるいは腰の固さ、両足首の弱さ ’とみたときに、私の体自身の写しにみているのだと考えた。と、その直後、静止直前のK選手が氷上に一瞬不安定だったかその両足に支え直したようだった。

特徴的に映るものは私自身の体 ;2019-04-14

2019-02-11:
私は今日こう書いた,〔 私は“ ショック ”の子たちには永久に認知しない。私の知識にならないばかりか、かれらは関係無いだれかのわらいをわざわざ私に向けるわけだから、それらには私の研究価値が無い。
私は完全自由の独立体だ。もしかれらが“ 物真似させられている ”という認識があるのなら、私に面して言うのはまったく間違いだから、その元に帰せばいい。私のサイトは既に長年知られているので、私がかれらを利用するという意味合いは無い。 〕

私がそれを書いたあと、不気味な夢が遇った。私が家の前に出てトタン板囲い越しに下から中にみた処、女の子6コ程が同じ顔でみていた。私は‘ あなたたちがそこを占拠できると思うのかい? ’と訊ねた。‘ うん ’。
私はそこで少し考え始めて目が覚めたのだが、メンタルの問題としてそれらに無視しようということは、私がそれらに見合うものを私の中に認めないで( 私のエネルギーを,排外しようとするが為に )ロストするということでもあった。
私はこの夢直後に( このメモを付けながら )テレビ画面に“ 鉄格子越しに女の子たちをみる( 映画‘ シカゴ ’が放映されていた )”場面を少なくとも心理的に逆接的な一致だと思った。( 家のその“ 囲い ”部分には黒っぽい細い金属柵のような物が付けられてある )。夢での絵柄自体はまったく違うが、私はその映画放映予定を知っていたし、以前一度テレビで簡単に視たので、私には無意識にも記憶的の連関が夢でのその状況に反映されたということかもしれない。
( その映画放映まえに“ 筋肉女子 ”再放送があった。私はその初回放映にミハルさんの最初ジムでの背中場面にみて‘ ウェアが片側にずれている ’とすぐに気付いたのだが、( 番組中に紹介された )そのひとの実家やコスプレ業には思い至らなかった。私が今回気に掛けたのは肉体よりも彼女自身が“ キモチわるいといわないでほしい ”と言いつつ“ 虐められ ”を語ったという点であった。 )
しかし、原因と由来とが意識的-心理的に( 時間にみれば逆に表れているかのように )一致したと思われるような場合もある。

[ 私と言いながら夢の表れにも対立的な態度だった( それらは反発的であった. )先ず私は“そこは君たちの家なのかい?”と尋ねてみるべきだった。]

2019-02-12: 舞う砂に吹かれる遺跡の片鱗。
自発的努力に拠って得られたものは、壊されない。しかし、‘ 無関心と同時に、ある程度の観念的捕捉をできる ’という意識的の試みは、私に拠ってその場に統括されなければ意味を成さない。道端の子たちがこの‘ 意識 ’の側を拾って反応したのだろうという見方では、私はこれ( 路上への観念 )を操作に拠って能動的に変えることもできただろう。

今日“ トータル-リコール ”がテーマ曲だった。私はこのような“ テーマ音楽 ”を必要とする理由を心理的に見い出そうとして、( 以前私の日記に一度述べたように )どうしてもメンタル-サブ空間に対する‘ 抵抗 ’だという見方を拭えなかった。だが、これ自体がそれでもある、用法だとしたら? 受動引用を断るがために? ( あるいは“ 笑い ”のように )。
わたしの児童の頃には既に映像的に宇宙船の移動を想い浮かべたりする習癖があった( 10年後Jキャメロン映画にそっくりな宇宙空間の絵があった )。
だが、わたしは一度もわたしの‘ 心因 ’とは言わなかった。

2019-02-13: 未知の( 失われた )領域
寝ているあいだにも( 体勢に拠って )私の右半身を強化するは可能である。
‘ この右側に対する周辺の弱さ ’は、私には“ ハイル、ヒット×ラー ”という掛け声と結び付いているようだ( 私が今これを書いているあいだに、うちの鳥が別室にそのイントネーションを真似していた,“ おつかれさん ”というのもあったらしい. )7年来の不戦( 無-戦 )は無論だがこれはエネルギーを要しないので、一見すると論の側が強い?と思い違いされる( 名が違っても単に“ 身体的全体主義 ”という象徴との問題である。同時に、わずかな少年らが小鳥のように再び私の中心以外を演じさせられているかのよう、と. )それとも-? 
また‘ 霊体 ’的焦点化は失われている( 身体-固着により。 )このような‘ 状況 ’はどれも私自身であり、改訂可能だと私は考える。

2019-02-15:
私の両目蓋視野には( 特に右 )電気発生的と思われるような黄色い不規則な点滅が暫く。

2019-02-20:
- ‘ 彼女 ’に感情を受け付けさせない( 対象化をやめる。 )

私の右身体と夢見に重要なのは物質ではなく( 今足りない- )である。