身体の影

2018-05-29:
帰り路,私は夜道視界にあの粒子状ノイズのような表れをみた( 私は普段それを意識的には見ない。私は睡眠無しに図書館で前期ファイル等からの再編集ページに更に表示-整形し直すための検-訂作業だった )。それは夜道光景というアイディアではなく、純粋に脳内のなにかだ。

2018-05-30:
朝方私が夢も無く‘ 夢見の実践 ’と言葉で言ってみたらその一瞬だけあの“ ヘアリー ”が跳ねた。例えば“ ボールが飛んだ ”という句に問題視する場合のように、“ ヘアー ”自体に私の論理が働いているのかどうか( 毎回きっかけとしては私の体を寝かけてから私の‘ 夢に着こう ’と苦心しているときにそれが遇るという、私の要件との心理的タイミングではあるけれども )。

・‘ 影 ’をみる度におもいだす。夜道-影の境い目にノイズのような粒子状をみる。あのCカスタネダのお話ではその呪術師匠からの方法として“ 影の部分をみる ”があったように、私も若いときでは一度‘ 物の影との境い目を意識的にみる ’実践していた。
私の今回アレンジングは私の体の影そのものに‘ みる ’を点いての,(物理にみるよりも)私の一致的な方法である。
私がこれを携帯メモに書きながら同時に影にみるのイメージを持ったからか、なにかレム睡眠に近い状態が再現されたのか、私が普通に歩いているうちに私の体のものがまた充血しはじめた。

2018-05-31:
私の右側がようやく身体として同調しはじめたときに、私は今いっぺん‘ 身体の擬人性 ’に就いて考えさるを得ない。
これは“ 夢で両手を見つける ”の領域でも遭るのだが、私には‘ 擬-性 ’との問題だ。
私は昨年私の左側を肉体強化する以前に“ 彼女 ”のものとしたが、これは応用で,いわば自身‘ 匂い ’に拠る身体化であった。
前回これは‘ うんどう ’転用となった。私にはこれは適性の処置であった。これが今度‘ 夢 ’の領域として直結していなければいけない。

- 以前には,私の‘ 体外にあるかのように同時に意識される点 ’という意味での“ 影 ”も遭った。これは( あたかもその性質が“ 悪意 ”と認識されるような心理的な問題で遭ったとしても )私の集中点と認識されるべきであった。
:関連する以前の日記,( イメージノート,03,11-2011 )


自己を敵対視することは一見“ エクソシスト ”のお祓いのように難しい( 映画版では先ずカラス神父の台詞に“ より悪化させるおそれがあります ”と忠告があるが、彼自身の精神的の問題を反映している。しかし、不審にも彼がリーガンの録音音声を聴いている処ではなにも述べられない( 彼女の父親はローマにいる, )それから“ 現象 ”という面に引っ掛かってしまう。 )実話に基づいた,疑似的な物語ではあるが。
私は外的にはあの物真似少年たちに厳罰を仕付けようとしていた。それは私が最初の夜この映画のテレビ放映を観たあとで小学校同窓生にその教室内で水を振りかけ十字架を向けたという一面に表れていた( 私は“ とり憑かれ側 ”を少年たちに否定した )。
- この映画に関して‘ 観たがらないのは弟が嫌うからだ ’と言った。この直後私の身体的記憶か、最初の射精のそれのようなひやっとした擬似感覚があった( 時期的にみれば,合っている。 )
私には実弟はいないが( おそらく )ある種の若い婦人に投-映されていたのが、見えない‘ 弟 ’だった( あの映画ではリーガンには兄弟は居ない,実相的には母親たちにも“ 親 ”とは言っていない処. )私は私の言語的レヴェルでは一度もこれについて考え無かった。


明晰夢にトライすることは、絶対に‘ 私 ’視点を強化する。統括的に完全な一視点を持とうとすれば、当然これに対する自動的‘ 他のものたち ’を設定分離するということでもあり、それが“ めいせきむ きけん ”と謂われるゆえんである( 元々“ 体外離脱的体験 ”自体が,ノイズを伴う“ 金縛り ”という半ば肉体と身体とに依拠しながら分離的と捉えられる処の現象によるのであった )。

2018-06-02: 完全のために
意識レヴェルを‘ 私自身受けない ’にまで上げる - 完全な私であるために( ‘ 外界 ’の無い,私だけに )。
〔 ‘ 夢見の実践 ’に対する妨害のオバサン側は一見外部にあるかのようだが、はっきりと意識的に回収されなければいけない。例の六面体パズルが普段にも増してすんなりと解消されないとき、私はその原因を私の心理的に見ようとする。“ 学校教科が苦手だった ”ときに、私は私の心理学を必要としていた。
私はあの路上少年たちの活動には対外圧力ではなく自主的回収あるのみという理-解消を念頭に、私自身の一致だけに収斂-収束する。 〕

私は私が“ あの嫌がらせの者たち ”自身として嫌がらせにされていたのとは考え付かなかった。この数年間の私は純粋に被害者だったのだが、一方にこの状況が遇った( しかし、これ以前に別の側が“ ころす ”と言ったのを私が思わず代弁してしまったというおそれもあった )。
そう言えば、私はサドル無しを理由に何度も巡査たちの職質対象となったが、それタイミングとして私が路上で少年少女などの嫌がらせのような振る舞いにむかついたりしたその直後であることが割合に遭った。( だが、守りにもしない,やらせの為に自身“ むかつく ”という引っ掛かりを持ったりはしない方が良いと本質的に言っていたからだろう。 )
ある一時期の私には私自身の‘ 母の匂い ’のときの方が良かったようだ,これはアウェアネスの問題だろう( 気づきというよりも慣習的なマイウェアという意味で )。私自身が本当に‘ 先生 ’であったら良かったように、私の文書がいつでも他にとっての良質なイメージで在れば-幸いである。

+ ‘ おかあさん ’と食べる ;13,4-2019


次回 “ ネジ回しとネジ ”への象徴-説:04,6-2018