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象徴と象意

2017-10-26:待ち受けの論理?
私は最近“ 自転車うんどう ”ルート自体があの路傍たちの要求だったのではないかという見方をしていた。毎度わたしが素直に帰らずに逸脱して‘ もう少しだけ回ろう ’と街路に向かう度そこには待ち受けていたかのように笑い声・拍手たちが遇った。
再びこう思って直後,不意に松の盆栽みたいな物を見下ろしているという具体的な絵があった。私自身の記憶だというなら2才以前のものだ( 幼児のわたしがテーブル上のそれによく似た盆栽の鉢で遊んでいたのかわたしの前にその鉢に敷かれていた白い細片が散っているという写真が残っていた )。私は‘ 歩こう ’としていたのだろうか? しかし、重要なのは‘ どこかにあるなにか ’ではなかった。私がただ純粋に歩けたなら‘ 街 ’など必要としたわけが無い。センターは私自身だったのだから。

午後、午前の詰まらない眠りから覚めようと、私は薬缶に水を沸かそうとしていた。…‘ 夢見の実践 ’…。
昨日借りて聴いたCD等の一枚は“ ヴァンゲリス ”ベスト集、あの映画のラヴテーマも入っていた( お話ではレイチェルは次の朝とけてしまった )。そう言えば、女の子顔に“ 人形 ”という台詞は( 私の )先週の夢に出ていた。もう一枚は“ 裸のランチ ”,古いハリウッド映画風の弦楽奏( なんでか同時期“ 羊たちの沈黙 ”サスペンスシーンのあれ )とオーネット・コールマンのサキソ? 
石製の円形床( 同心円状に数段 ),左の方にその上段に掛けているかのような人影とみるが一瞬( そのシルエットに合成されたかのように )青く閃いた。 私の以前のイメージング( ある‘ 夢 ’と気付かせた光景 )そのままだ。
私は直前“ ウィリアム・バロウズ ”に関して連想しかけたのだと思うが、昔の簡単なインタビュー本からの記憶だけで,印象にはならなかった。石段にみえたのは私自身の写しだ。

‘ 二重-不明夢 ’と概念
私のファイル編集のために今夕‘ 自覚夢と明晰夢の記録( 前 )1 ’読み直して途中,偶然その記録等に以前わたしが‘ 既視感 ’と記した部分と再び目にして今度気が付いた。
引用( 2011年5月28日 付記 ):

(私は)晩のテレビ洋画放映の『地球が静止した日(リメイク)』を最後まで通してみる前に私の目を開いていられなくなった。どういうわけか、その映画の印象は、私が以前みた別の映画か何かのようだった。私は1時間ほど寝るつもりでアラームをセットして何も思わずに寝た。

:この‘ 既視感 ’とは、その映画に関して言えばそれ自体ではない。私はそのときの映画場面( 特にキャシーベイツの出演中画面 )には初見だった。そのあとすぐ1時間以内に明晰夢が起こったという点から見ても、私はそのとき既に前-‘ 夢 ’段階にあったのに違いない( 従来、睡眠サイクルと夢の表れとがその眠り後半に来るというのが常識だったが、その直前に長い睡眠が無くてもイメージ・夢のような絵を視れる可能性はある )。
そのことよりも、最近の私の夢いくつかにパターン化したかのような‘ これはまえの夢のあれ( 繰り返し )だった ’という場合( が、そこでは未だ‘ これは夢だ ’とは至らない )が思い出された。
現場に‘ 今これが( 私の )夢なんだ! ’と言わない?逆接的な観点、その‘ 偽-既視感 ’または( その以前の状況と想い込ませるような )私自身の原因があるのだろうか。
面白いことに、ちょうどその年3月-4月私の記録等に“ 青い半円状カフェテリア ”や“ 石造の円形劇場 ”というイメージについて書かれてあった〔 KOHSHIROH_NOTE3,現在未掲載 〕。私は夢記録と相互参照するという作業に於いて他者の例には一度も知らない。しかし、私の場合には時折このように私が私自身の記録例と参照しようとするとまるで今日の記録と何年も以前のそれとが時間-無関係にリンクしているみたいという不思議がある。

[ “ 元の子 ”をやめる ]という題では、私は‘ 夢の入れ子 ’という概念的な見方を適用しようとした。‘ 夢 ’が封入されたものとして( こちらが室内に在りながら同時に‘ 隔てられている ’ときに )そこに既成の時間のものであったかのように表現されている。ここでは“ 不確かな具体性 ”は私自身に生死の不安だから、それでは有り得ない。不安の心理が‘ 二重-不明夢 ’原因だという私の解釈だ。
[ 不安は“未来”のものではなく,失われた(想起されない,想起不可の)記憶に因っている,という見方も。 ]

・暗がりの` ホール ’-ルームに視る ( 22,4-2018 (2):)

2017-10-28: 超人的発想と跳躍
私は寝入り端に毎回‘ 視よう ’とするが難しい。( ある男の子たちが私に“ 警察 ”とみなしたのは私が私自身に監察的態度を持っていたからだろう。しかし同時に私は彼らのは彼ら自身の“ 警察ほしさ( から危惧 ) ”であって私とは無関係だとも思った。私の側は今更かくしごとも対立も無いので、単にその少年たちの“ やばい! ”は無意味だ )。
私自身への関心が無くなっている。{ 一時期バッハやジャズなど小さな音量で寝床にわずかに聴こえる程度に回しておくという、婦人のベッドみたいな注意の留め方も有効ではあったが、それ自体に細分的に聞き入るのでは‘ 私 ’には無意味だ。 }私は一度も“ 結婚 ”しなかった。

昨年‘ 自転車こぎ ’始めた頃、私はK区から港のガーデン埠頭入口まで一度に走って初回まっすぐ帰ってあと、全身鏡に( 視覚的 )私の両足が長くなったようだった。私はそれまでに自転車で片道15km走ることが無かった。
私は若かった時にはいつも両足が不必要な程に固くて椅子座りで片膝掛けするのも難しかった。私は以前一度こう書いたように、その頃には“ 緊張が原因だ ”という通例的な言い回しだけだったが、間違い句調で、実際には私が両足自体に動かそうとしなかったから( 文字通り直訳に“ テンション ”と言うなら )私の両足は動かなかった。物理的原因として判断すれば、‘ 実際には若い時に鍛えが無かった ’ので、部分的な痛みは充血の所為ではなくむしろ貧血が原因だという説があるように、その部分に‘ 緊張 ’できなかったというのが本当だろう( これも超人的な言い回しではある )。私は自転車といいつつ“ 漕ごう ”とはしたが、跳び上がろうとはしなかった。
私は‘ 夢見 ’や‘ 夢 ’に関してもこのような発想と実際との更なる見当付けが必須だと思う。

“ 大ピラミッド ”の設計者が有名なのは、その建造物自体が在りながらその建造方法が未だに裏付けられていない、いわば‘ 偉大な謎 ’だからだ。私はこの点を( 98年頃 )私のおはなしに“ ヘンビェン・イム・ハティープル ”という語として象徴的に聞いたのだろう。( 先程私の頭皮に安全カミソリと沿わせている最中“ ノービス ”という発音が遇ったが、私はそのあと私の視界その下端に“ ノービスミラー ”という名称が付いていたのを見た。年寄りには当たり前にあるように、例えばテレビ画面などに映っているものをその場では視認していないが偶然口に出したかのように言ったりする,当人の意識的に読んではいないが脳にはそれがあるという状態 )。
‘ 夢 ’が偉大な謎として現在し得るとき、ここにはその建造方法と能うチャレンジング、この更新の機会がある。