彼女(1)- 要素^の充足

私は私自身の苦痛と言うことにした。
まるで立派な長い白い素足に赤いストラップ付きの小さな靴を履いたような、その不似合いな印象だった。
私には薄紫一色の掛け標札が並べられた数のようにお約束がみえる。

私は今日一杯だけ‘ 彼女 ’を飲んだ。それで彼女は先程少しだけタフなもの言いをした。

2016-06-29: 他動と主動
‘ 女性 ’を立てるという論理的行為により、夢見そのものが難しくなる。これでは目的が‘ 彼女 ’だからだ。映像化された夢に於いてはその像を目前に置いてみたり賛辞を述べたりすることだった。

2016-06-28:
体を伸びやかに、活かせる。眼鏡を外したら急に体の背が伸びたような感覚だった。‘ 彼女 ’との混合は既に望みではない。もう秋-波は必要無い。彼女というイメージはもう‘ マン ’のように逞しくなっていた。
単に私自身の中で発達し得る要素を充足するということなら、私は私自身を現実に変えることもできる。

2016-06-26:
未だどうしてか右往左往しているかのようだ。私自身の‘ 内部的結託 ’には見えないタームがあり、その原因は適切に辿られなければいけない。

彼女(2)- 対象と量感
‘ 彼女 ’があったからなのか、昨日ちょっと若いめの男子が不意に寄ってきそうな場面が数回あってびっくりした。
男の子たちグループにも変な気配があったようだ、一々貼り紙を気にしてなにか言う振りがある。これが私が‘ 彼女 ’をつくるということと直に関連しているかどうかは未だわからない。もし私の心理的作業を問題にするのでないなら、一体なにを気にしたのかと彼らに直に聞く方が早い。私のおはなしではその男の子たちに関しては‘ こちらに嫡子をつくればいい ’と言ったのだが、論理的に正しいかどうかはわからない。
フロイトの論稿“ 欲動と欲動運命 ”を読んで言えば、( 例えばサディズムと比較されて、視ることの能動性が視られることの受動性よりも先の段階だと書かれてあるが )‘ アピールする者 ’は必ず観客を必要とするには違いない。“ 視る欲動はその活動のはじまりに当たっては自体性愛的であって、それは確かに一つの対象を有していて、対象として自分の身体が見出されているのである ”。

たとえば前回私は‘ 彼女を飲む ’という言い方をしたが、これは同時に‘ 与える ’ことでもある。私は私自身にサイクルしている。私は昔“ 気を採り入れる ”というのをやってみようとした。あたかも量感のあるものを自身の体に扱うとする。これは次第に身体感覚に‘ 気 ’として感じられるようになる。

私が‘ 彼女 ’を飲むことは一種の行使であるが、‘ 気 ’が身体に感じられるものとなりうるのと同じく、儀式的交換( 交感 )の動機となりうる。
しかし私が前回‘ 彼女目的では夢見が難しくなる ’と書いたのは、これが主に‘ 身体的作業・発現 ’と不可分であるからこれを完全に休息状態に戻すことはすべての休止だ、という条件的推理もある。

2016-07-03:
私がここにいるように、私は再統合できると思う。私はもっと投げやりにならずに、また出来るだろう。
ここには一定の充溢・充足が必要であったと? そうかもしれない。しかし、独り言や束縛自体の環境問題として自身を語るのは楽しくない。

午後夕方、ラシック地下で鉄製の椅子に座って休憩しながら雨上がりまで様子をみていた。おはなしに‘ 1915分 ’と聞いたので私はそこでナボコフのロリータ原著など読む振りをしながらガラス仕切りの向こうに街路の人影などの傘差し比率を見ていた。屋内通路反対側の木製ベンチに婦人ひとりが掛けて少し私の方を視ていたようだ。その人がなんと1915分ぴったりに立ち上がり当然のように街路への階段を上がって行った。私は‘ さては聞いたのかな ’と思ったが、私が目視した処では実際に雨が切れたのは18分だった。

今夜も名城沿いから名駅、広小路で栄町という簡易の通常ルート内で約2時間。両ペダルを漕ぐこの足と夢みとを感覚的一致させよう。もっと実在感を高めなければ、私は死ぬ。若いときのようにある程度自由な先頭速度が必要だけれども。
途中ちょっとまた若返りのときの常でルイかレスタトかと古い映画のことなど連想があり、忘れていた。

きゅうりのひとかじり、食べるときに私は‘ わたしの足がもっと伸びますように ’といった。

彼女(4)- イメージ反復

2016-07-02:
‘ お腹の中心でみる ’とこころみていた。
13:47頃,普通に両目を閉じて寝ていると、ストレートヘアー分けの( 癖の無い )きれいな若い日本女性っぽい顔。

昨日の彼女(3)での‘ 変形印象 ’に関して、私のおはなしの中に心当たりがあった。‘ 館を作れるひとなのに“ 館内 ”と言おうとする ’。私がひしゃげている。

今日の曲は“ 白い恋人たち ”だった。わたしは一度も“ グルノーブルのなんとか ”視ていないが、3才児頃に家のレコード盤で聴いたもののひとつだと思うので、古い好みみたいになにか記憶的に反復したのかな、と。
好みと言えば、私は最近何度か白いスポーツ用アンダーウェアーに浅黒い膚の小柄な女( 黒髪はいつも頭頂近い後ろに束ねられていてややセクシー )のイメージをみた。どうしてか正面向きでなく背姿で、あの少し暗い顔から見返しているような眼の印象であった。私はその度にただイメージとしてみるだけで、それとは一度も向き合うような交接感覚ではなかった。
私は素っ裸を面白がれないのだろうか、楽でスポーティーな乗りの行為が一度も無かったので( 相手は自然に往き来のできるタイプが良い、少年が無理に深入りしようとすると挫折する。私は基本的に快楽であって生殖ではなかった )、こういうイメージは不満の代償であるには違いない。