体向-像現

2024-01-16:
昨年末..“ 四季 ”を聴きかけたとき,そのうち一枚に偶々収録されていたペルゴレージのフルート協奏曲(第1)アダージオがよかった。このまえ返しそびれたランパル氏とシュトゥットガルト室内管弦楽団の演奏録音がそれだった.,図書館で作曲者名の検索に上がった“ イタリア・バロックのフルート音楽 ”にも聴いてみたが(..アダージオというには前のりすぎるのか?)私は再びその録音を聴きながらその“合わない理由”を考えようとしていたが一瞬,(不意に)赤い東京タワー越し-夕陽という光景-静止画のような絵が遇った。なんだろう? 連想されるのは昔テレビに観た“ 特捜最前線 ”エンディング画面だ-が,あの“ 私だけの十字架 ”とは曲調違う。無論,そういう連想ではない。( そのまえに,なにか嵩のある衣装か肉襦袢のような物を着ようとしている者-といったイメージのような印象も遇ったが, )わからない。

(私は)最早両足を引きつけようとはしなかった。
昨夜(私と)意識とのうちに,(一度も見憶えの無かったような)時代や国の違ったかのようなイメージ瞬間いくつか遇った。昔..夢には(あたかも)実際そのような不思議な-が可能だというひともあった。
“ 久しぶりにうすいカレーを食べたからだろうか? 酢の試飲(案外,炭水化物の値は高い?)や,乾燥しいたけの刻みなどが(あるいは,神経的に効いたのかも?)”
そんな当てずっぽうよりも。

私は何日かぶりにお湯に浸かって科学雑誌のページに読みかけながら( まえの日記によると,怪我の痕にさわらないように湯浴びできたのが,1月4日付。)例のように居眠りしかけたが.,鼻の当たっている感覚を覚えてはいた。そのあいだに,一度,なにかネオンサイン看板の夜景にみたかのような数色のポップな文字遇った。私はそのような“表示”には読み取れない場合が殆んどだったが.,辛うじて“Q”と“2”というその頭2文字は(それぞれ赤と緑とに分かれた形. それ自体,表裏反転したサインみたいだが,その物理的な形だとしたら,裏側の造りではなくこちら向き正面のネオンサインだった-と)判った。
[ 私は今回そのイメージに対して想像を加えたりはしなかったと思う。..“Q2”が意味するもの? 私は元々オンライン通信系には無関心だった,会話文的な所に書き込むようなことも無かった( 98年以来,私はデジタルでの作品やこのような一記述ずつ以外には殆んどネット発表していない。)
今日この記録に書き初めたときには考え着かなかった。昼間,テレビニュースに,前大統領T氏が再び党の優勢候補であるかのように比較支持率50%以上だ-と。私は良識的には支持しないが,“Q2”とは再選の意味かもしれない?(-が,あの“ネオンサイン”はホテルっぽくはなかった..欧米系の印象でもなかった。)]

2024-01-17:象と現
ここでは最終域から宇宙的に言えればいいと思った( “おはなし”は,“ あたかも戦闘機乗りの気がついた宇宙観 ”-と示した。)私が狭義-極小のものだとはいわないゆえに,“とり損なっている”わけだ( 現に? )
自転車の駆動チェーンと歯車との掛かりがまたゆるくなったのか,坂ではカムのずれが危うい。時々後輪位置を調節してみたのだが,チェーン自体の交換費用ができなければ最終的にはその後輪支柱との留めは不可になる。..私の不意に,その車輪の軸側に覗き込んだみたいなイメージ遇った。その中心軸には横長の鏡一枚-平面が付いていた。それに対して思ったには,もしその中心軸の全面が鏡張りであったなら( 周辺の反射だけで, )-直視不可だ。“宇宙の謎”という連想か。昔SFのお話には“ そこに存在しない筈の星 ”や“ 鏡像としての存在 ”といったメタファー.,そう言えば,“放射状線上の私”として述べてみた点と想起される。

2024-01-19:
..急くように食べる癖は長生きできない( なにごとにも。)
“ 時間が無い, ” -適正な時間(タイミング)は“ひと”の為?

私は室内や空間に対する身体的投射を無くしてみたいと思った場合が遇った( それ自体の映じは記憶に基づかない。以前に,私は夜景について“ 月 ”-円いフラットな暖色照明のようにみえた場合に,そこにあるのか,手を伸ばせば触われるのかどうかわからない-と述べた。)
“月”という概念は一般的認知されたもので,その印象自体とは関係できない。あのとき,なにか黒いところに円い平面ライトかなにか不明なものがみえただけで,それとなんの意味といったのではなかった。
しかし,もし本当に身体自体や身体性から遊離した視点のようなものが存在できるとしたら,むしろ-意識不明なんじゃないか-?と思う( 自身の依拠できなければ,“ここ”といえるだろうか? )
身体的自意識というものは刺激の要素も無意味となれば,喪失される。この見方では,意識といっても自動的な“気がつかされる,”ある感覚の所為で,なにかと思わないわけにはいかない。身体的関心といったものは,(生物の本能的必要性としても.,-自身の無意味化にも)消えていく。

記録そのものを全く正確に索引することは可能かもしれない( ある希望本位ではなければ。)-こう“いきたい”という希望や綴り変えでなかったなら,ゆえんのまちがいにはならないからだ。
( 興味関心自身は能力にならない。)たぶん不完全な絶滅種であって,未だに生活環境といったりしている。
..“溺れたように飲み込むひと”をみて,(私は最初)なんのことかわからなかった。

2024-01-27: あとのまつり
..“人格的”に判断されるものは記憶-性に過ぎなかった。
..予期することは能動的だ( その理由自体に-される? )

2024-01-29:
例の(私の記憶不明により起こった-)顔面-傷痕などの位置どれもが,去年私自身気に掛けていた肌染みや細かい皺とぴったり一致したかのようにみえる点は,(ある意味も無く,)取り敢えず質問であった。
“ウィークポイント”ゆえのなに,といったべきか? 右側の歯ひとつ失われたあと,更に噛み方の難しくなったので,むしろその上側-挙筋なども鍛えられる可動性である。
今日( 不意に-と言ったべきか, )私はこの顔-頭自体の“一体性”と初めて感覚的に覚わった。これまでのそれらはパーツに過ぎなかった。不図,“傷痕”も心理的な見方では“事故”ではなく(不明な)原因からではないか?と思った。(もともとそれらの“傷”だったと言うなら.. しかし,このまえから修正しかかっている-不思議な可動性だ。)
[ ヴィヴァルディ“ 四季 ”に,(たとえば)チェンバロに聴き入ろうとすると弦楽器音が咆哮のように聴こえた- ]
この可動性は,“..首筋を冷やしてしまったから(一晩で)顔面がやられた.”と言った以上のものだ。(-殊に身体部分を記憶に留めようとしたから,拘着してしまうのでは-?)

2024-01-31: 合成された通路イメージ( 通学路?)

夜(午前,)資料ファイル読みなどのあいだに,私は体を寝かさないで(上体だけを起こした体勢で)意識的にみようとしていた。不図,ある見憶えの路上からの光景-部分かのように,右側に白い遮蔽用の仕切り板みたいなものが塀-上部に連続している,ある学校施設外側みたいな特徴的形がみえた。-が,それは一瞬(まるで,視界両側に狭い湾曲した半分トンネル壁の通路に写り変わったかのように,)ややカーブとなったその曲面片側にその白い板面ごと“合成”されたかのようだった。
[ “遮蔽板”イメージの瞬間,私は思いつかなかった。私はその“学校”付近には行き来の間に通りかかっただけで,記憶といえば,昔その付近にその地域の旧図書館施設が遇ったという古い印象だけだった。
身体的に右側が再び強化されつつある,-だから視界右側に“学校”施設との(見えない)ものが潜在象徴的な絵として私の不意に表れたのだ-といったような見方も可能だが.. ]

“狭い通り道”は安心感への表れだ( 守られている. )
但し,そのベクトルは通常の“夢”同様なのか,直接あらわれてはいないようだ( その元型は夢見者自身に拠る動的な示しではない。)
そのような意味に於いては,能動的(半自動の)想像と見たべきだ。
このことは,普段の感覚的にも,それらが常に働くのだと思えば,一体なにに“注目”し(-どのような形として)認識しているのか-という問題に通じているだろう。
それらは“夢”のフォームと同義かもしれない。