夢見の理論

もし- ある行為( 行動のやり方 )が,“過去”自身にとってどのような意味となったのかを辿ろうとするなら- 解読的であった。

2024-08-15:
( 次回“雑草”採取は )雨降りあとの日-予定とした。台風がもう少しこちらに近い方がいい。
“おはなし予告” -まったくでたらめ口調に変わっていた。一昨日早い時間ベリーサラダジュースが切れていたので例のVdrug辻本通にみたが,前回日付のままであった( その点には一度当たっていた。)アピタ北では“ 24.9.3 ”となっていたので,その日付か以後の物でなら-と,翌日に回してみた( 先日あのビロードモウズイカの立っている通りに近い新栄2丁目Vdrugでも213円で買えたが( 私は最近このような買い物のときには冷却用ジェル-パックを持っていた。“冷え”は最小限だった。)従業員の態度よくなさそうなところは相変わらず(このまえ偶々グーグル検索でのお店一般レヴューにも同じような不評を書かれていたので,特に私個人へのわけのわからない都会的な偏見ではなかったんだ-と,いっぺん助かった。)
夜,どうしても聞ける情報なかったので,一応ぎりぎり時間で3ヶ所回れるように予め頭で設定しておいてから,辻本通1に向かってみたら“ 24.9.6 ”が置いてあった。アピタ北で翌日以降33円高く買うよりもお得感がある。)

[ ..不図- “おはなしワード”自体が記憶との繰り返しとなっている-と私は気づいた。?なんで未来ではなく過去ばかりなのだろう.. 未だ“私の”右足が退いているように( あたかも人物型であるかのように, )自発的な未来を怖れているのか.,
単に,一瞬-まえのなにかと,そのあとのものであるかのように間違ったのでは?
なぜ過去形に作用していたのか? 考慮しなければいけない。]

私は昨夜あのお店で買ったときに( 予め- )私の‘ 注意 ’を忘れないように-と,再び‘ 夢である( 夢見の意と )’を持続しようと試しかけていた。
以前試してみたときのように,連続的に私の意-識として一瞬たりとも失しなく保ち続けるのは小変だった。
予め条件つけられていない状況に囚われたりの場では,“私の”気を失ったのと同然であった-
そのあいだ,“私”は生きていない。
-だが,なにかに見入ったりするという振りは,観念的な既成物とのものなのであって,単にも自動的な,記憶との繰り返されに過ぎない( いつどのように“わすれている”のか,今あとで“忘れていた”というべきか。)
[ -見入るとは,感受することであり( いわばには,直後“それ”が見るように-私を )みている. もし-仮に“ それ ”であるが為,“私の意”失している- それのような分離された“感覚的な”メタファーは( たとえ身体的メソッドであったとしても,催奇性の心的現象を生むおそれがあったので, )こうして自覚もとづいているべきだ。]

私の昨日メモには;
身体性の(感覚的)メタファーという語であった。
もし-心理的にみて身体各部の不自由であるのなら,なんらかのそれ自動的な観念性イメージ,または不出来な具合として想い出されている。
( 身体的強制 “させる” )- “する”部分との関心( 注意.. )

先に上段-前節で私の述べようとした問題は,このメモでは;
投映型 - 不夢見? 投視( 自動的な- )
という質問的な語となっていた。
感覚されたもの自体が即-既製の投映となる( また )投影されうるものは追憶的な観念性の想像に過ぎない.

-だから;
夢見とは基本的には感覚的活動である-?

-きちんと憶い出す( 憶い出せる )
このことは,先ず観念的認識あっての問題( これも,感覚との問題 - 感覚-内容自体に対して拒否の優先するのでなかったら.. )

2024-08-16:
..なんで高架道下の横断歩道-分離帯側にだけイヌビュー(イヌビユ)生えるのだろう? それも例の橋下でのシロザみたいに,条件不明( いずれも細長で,茎は立っているが葉などは小さい。)葉先の黄色っぽく枯れかけた部分はへこんでいるのでイヌビューに違いないが,写真でみた穂長イヌビユだとすると,弱々しすぎる..( 文芸的符丁ではないのに,こう書いてみると変な意味にはならない。 むかし-私は“世田谷一家事件ファイル”のときに“ハイビーム”という語を一度も追わなかったので,なんのことか-と疑わしく書いたことが遇った。)
スベリヒユの元気そうな箇所としては,一見すると,午後夕方まえまで陽の射す場所よりも,むしろもっと早いうちに物陰になるところの方が良いのでは?( 南西側から始終照らされるようなスペースには無いようだ。)イヌビユ等は,どちらも殆んど北-南向き線の下だったので( そう言えば,例の弱そうなシロザとともに,アオビユのようなものも若干生えていた。 盛口満さんの“ 雑草が面白い ”という本には,例にアオゲイトウ(青鶏頭)などの祖先的関係分類にかんして,それらの見分けが難しくややこしい-と書かれてあった。)

そこでなにをしている
..私は“みいった”というよりも,投映した自己像の世界にいた。 “自分”の名前で呼んだりするかのように,そのことは何よりもシンプルだ。-だが,それが為に“周囲が”なにかする( あるいは,“自分”の都合 )優先する-?
[ 一度メニュー化されたものは容易に繰り返される。しかし,記憶自体は反芻するだろうか? たとえばハンバーガーにはフライドポテトやコカコーラ-といったように(自動的な)記憶反芻は殆んど自覚症状にはならなかった。“ぼく当然化されたかのメニュー”自体であり,自体は疑念を提起しない。]
..ただ,ある既存メニューを目的のために条件つける可能能ではある。
先ず能動的でいられたら..

湧きあがる動為と,夢見
私は前述のように観念的活動をやめようとしたので,“みいること”の自体と夢見の意とに拠る気づきとを同在させられなくなったようだ。 たとえば店舗内や普段-場所であっても,なにかに注目してから瞬間には夢見を憶い出されなかった.,それから(直後に-といったべきか)まるで一定秒数間隔に条件づけられていたかのように,自動的な憶い出しとなった。
無論,見入る動為自体に条件点けるも可能だ。 但し,その“対象”への興味受動には一度も明確に条件点けられてはいなかった! それらは‘ 夢見 ’ではなく,好き嫌い同然,( 注目の本能自体に因り,“わたしの”好き嫌い自身でいたかったのなら. )

私が前段“ 興味受動 ”という語を宛てたのは,“関心”のために一々見入ったり聴き入ったりする( ある-否応なしに )動為が自動的すぎる場にあった-として,夢見本意の視点からはこれを“主動”として捉えるわけにはいかない。
あの店舗で試してみて私が途切れなく‘ 夢だ ’いい続けることができなかったのは,その場でのなにかとの注目同一視自体と夢見の意と(記憶的の)設定とを同在できなかったからだ。 今こうして書いているあいだも,このような文章の脈絡自体と夢見の意ととは同時に無い。この文章の内容自体が夢見の理論という主題だから( 普段ブログとしての機能であったように )常にこれの機として憶い出せるというだけなのだが,このような思考活動自体もに条件つけられていない( 興味と偶然に働く-という意味でなら,面白く読める読者の方が利がある。)
“年が来た”といった言い回しのような,何かしらそれ自体の状況を喰らったという見方や何かに於いては,先だそれらに生成しているという本能性ではない。
-だから,例えば商品棚に自動的な目の向かう“場合”と,意識的注目の振りとは( 本質的にみたら )先ず一致しない。

- 見つめ対象は即-観念性のものとなり,夢-みられる。

( 分離した-自身との好悪 “感情”:)偽心は夢である.

2024-08-17: 思考の形式を更える。

自身の“反応”と(夢見とを)転換してみる。

- 問われた際( 内部に問うとき )先ず夢だ-と思ってみる。
[ この方法での実例的には,反対に“夢”での人物的なたずねがあった場合に起こることがある。
( ひとり行動や自発的動作について一々客観的な自問をするわけは無いので,自身に問う機会は一見外的な理由によるかもしれない。)]

ある“受け答え”の為にではなく,これは夢だよ-と自ら言いかけてみる。

普段ものおもいや通常思考の時であっても,恣意的に(あるいは,潜在的に)夢見の意とを同時先行することは可能かもしれない。

壁面-わずかに円形凸が出ており,その上にのった者は滑り落ちないように自ら体勢バランスをとりながら気をつけなければいけない。

【 以前“ Q&A ”シリーズで,その初めに“ 感覚と,自動的な記憶参照,もの ”について語りはじめたが,いま読んでみると,先ずそれら語の定義や論点の示しが不充分であったと思われるので,今更読解に難がある。基本的には上記の記述内容と連繋できるが,更訂の機があれば読み易くリライトしてみたい。
該当カテゴリー:推考
明晰夢見のための推考と論考( Q&A-対話式 )として,夢見の実践f:資料ファイル編に一括してある。

2024-08-19: コース-ビー
..早朝,“路上ポーチュラカの種”ゲットするため特定箇所へと向かった。昨朝,4時半過ぎからの自転車では遅いと判ったので(陽の上がり早い,)途中で雑草等視ようとして案外分数かかったのを帰り道一々陽焼けリスクに代えない-と,更に早めに出てみようとした。
..暗めの路上手前に意識が向かい易い。私の視界にあの粒子状がみえた。私は以前試しからの励行で私の両目視野を中心に寄せるように少し合わせたりしてみた( 夢見-意ととの既製-条件化あり。)そうして行くあいだに一度こちらの進行左側沿石と歩道との間に不図こちらの目をやった(一瞬,)その粒子状で作られた幻影のように芝の吹いたかエノコログサの穂などそこにあるかのような淡い形とみえた。
粒子状自体によって何かの形としてみえたのは久しく無かった。
[ 私自身の連想としては,うんどう筋道での日記つけていた頃,最近ジブリパークになった-モリコロ公園前まで夜間走ったりしたとき,その公園前から星ヶ丘方向への下り道手前で,一瞬-なにか視界片側もう一方上へと白っぽい女の影みたいなものが飛んだかのようだった。それは粒子状そのものではなかったものの,ある種の覚醒時中間イメージに遇った“馬”みたいな,あたかも右左によぎるものといった,印象的なあらわれだった。]
カテゴリー:(視覚的)粒子状

..帰り路,スベリヒユなどの多そうな通りをおはなしからピックアップしてみようと思ったところ,“名城公園東側”と言った( 私は同意しなかった。)西区よりに北へと行きかけたら,むしろ筋違すじかい橋から平六へいろく通との間に,なかなか成長したようにみえる株などが歩道縁であった。そう言えば,昨日のうちに“浄心(町)”というワードひとつ聞いたものの私はその西側交差点名だとみなしたので追及しなかった。今やどの通りを行っても少なくとも生えかけたかへたりかけたスベリヒユの数は確かに増えていたので,久しぶりに通りかけた道路で偶然元気そうな株が見当たるかどうしないかの率であろう( -だから,一見“本能的な路えらび”の方がラッキー感になるというわけである. )なぜなら,私は“名城公園東側”を通る場合が殆んどだったので,そちらには既に見当ついていた( ある町内通りには歩道上いくつかスベリヒユの連続する箇所も遇ったが,どれも細くて育ちにくそうな姿だった。茎枝の肌色っぽく葉の乾いてしまったような物は食に適さない。触れてみてすべすべ感の物なら保存にも長持ちする。天日干しが効いた物は茹で調理では比較的コクが感じられてよかった。ここでは余り書かなかったが,雑草食に関する本などでは大体生食不可だと記されている,私はもう野菜も殆んど生では食べていない。)
午後-夜半まえ,“ヒロハユウガギク”の生サラダを食べる-という夢が遇った。意味不明。

..昨日“ ダンケルク ”放映予定にみたとき,ひとときも“忘れずに”意と憶い出したら-と例のようにおもった。-けれども? 視聴時-自動的に憶い出した機会とは空戦-追撃シーンだけであった( 男子だった? ) しかし,本当に空戦場面に入る毎に自然憶い出すというのも一機も無いみたいで不思議ではあった。実際には“戦闘自体”にのらなくなった点での( やらん-という,条件的な )作用かもしれなかった。
身体的な空中反転のような“感覚”あった方がOBE系にはうまく運転したのに,まるでも無くシミュレーションの機体がある。空中飛行最中には“おもいいれ”も“ことば”も役立たない。

- ある観念自体に撚ることは明晰夢見否定となる.
“(わたしの)自主性 ” 本ものだろうか?

[ - 私は自動的な観念的あらわれ(感情投影)同一化-慣習化(無意識的な依存)の無意味と述べた。 一個としての自己信頼に基づいて夢見の要点とするような依拠必然は無い。 すべては夢だと言った通り,視点だけでいい
( 感覚と意識するは観察を生むという見方。)]

すべて視察の視点と反転させる。

この他,関連カテゴリー: 右目のみる観察+視界注意