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夢見の方法31-

2023-11-26:
私は自動的にセットされた“ これは夢だ ”の訓練に,‘両目の視野をだぶらせて(私の対称物をリセットする)’がひとつあった。ただ,その“ずれた視野”の瞬間との条件-付けだった。それが再生されるかどうかは(ある場合のみ連動的に憶い出されるといったように)心理要因まかせだった。
私はこれ自体には成功しなかった。
二重になった視像がひとつに合わさる一瞬だけ,私は調整してみた。何度も繰り返しやってみて,毎度これが‘ 夢見 ’のきっかけとなる - しかし,もし“ぼんやり”とした意識不明状態自身にこれを導入するとしたら,そのきっかけも意識的的でなければ起こらない..,( 逆に,対象物に見入ったりしているときには,これの意図が必要だ。それに物理的なきっかけとなるような条件が無い限りは。)
取り合えず,意識の在るところから,意思的に視界“ぼかして,” そこでまた意識的焦点を戻すように,いとしてみる。
言わば,眠りに“ぼやける”--こちらの意識とともに(夢に)目覚める- また“ぼんやり”なったら,意識的‘ 目覚め ’の確率は高まるかもしれない。

2023-11-28: “パン食べたい”自身-?
確かに,これの意図は心理的存在にとっての完全な目的(本意)である。
青年時の‘ 夢見 ’は肉体的-即ち身体的欲求とも称せられたべき,“可知(かち)の特権”であった。しかし,年齢は物理的な衰えを更にアラ!とは言わない。わたし自身の身体性(感覚)は麻痺してゆくかのようだ。
[ -それだが,“今本当に食べたいものと不必要なもの”( 以前Q&A式のどこかで一度この点に言及しかけたように, )あたかも記憶的な依存が正当であったが如く,ある“飲み慣れたあのおさけの味自体”に代わってしまう( あるいは,“テレビに観る世界”そのものであるかのように? ).,それらはミラージュかファントムへと変わってしまうおそれもある. ]
また,身体的‘ 夢見 ’の可能性を取り戻すために,今一度“分離的要素”について見直すべき-といったのも,依然既述の問題ではあった。
[ それらは“おさけ自体の好み”や“せかいにとっての私”に反転しまうかもしれなかった.,それが常態化していたら,本来の独立は成り得ない。]
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ある身体自身であることは,不明と免れの見えない状況と化す. たとえば,“私”が外的(人的)イメージと不可分なのなら,そのような同一的“私”をやめてしまおう-と述べた。

今朝,室内で,久しぶりに両足に活力が戻ったかのように動かせた。そこで,このような思いつきが起こった;
“ 本当に体幹があったなら,この体を周辺として,これと中心に向かえばいい。”
(-外的な反転と称され関連づけられていたものを)収する,戻しだ。

2023-11-29: ‘憶い出す’自身
あらゆる自動性のまさることは,(いつも)死であった。
あのときわたしはなにを問うたり見たりできなかったか?-と,悛としてみても,それら自身を変えることはできない.,
今なにか憶い出しかけているのに(憶い出そうとしていることを,私の)意識できていないとしたら,忘れていたのに,憶い出されかける-
今(なにかを)憶い出そうとすることに条件づけられていた。私の側からはそういう意味だ。
今,なにかを忘れているような..といった逆説的な意識自体が,以前まるごとセットされたものなのか,どうだったか。
あたかも視覚的な対象物とは関わり無しに( これは夢か?-と )言った如く,これは忘れられていた内容とは無関係に反復する。以前の“夢”場面では,私が-なにか憶い出しかけている-そう思った直後“ 夢だ ”と覚ったという場合は遇った。私はそれは条件付け以前のひとつの思考パターンだったのだろうと思う。

無論,もし普段の生活に於いて,-これは“夢”だろうか?と(普通そうに)質すという習慣であったなら,特にこれが常に“エチケット”として機能するよう,第一定義されていたとしたら..
( 続く )

2023-11-30: “ -しないで,みる, ”
まえの話題に,体幹の中心( 体自体の )-と記述した。私の周辺は“外的にこうであるべき私”だったので( あの放射状線上の向きとして示したように, )“外来的な意味合い”を(今いちど,手前に)移し直してみる,当然の収理だった。“こちら”であろうとすれば“あちら”自身でもあり,そんな逆接的な-と言ってみても,どのみち不可分なのは明らかだからだ。単に放射状線上の“周辺”を身体と言い直してみても,同じことだ。空白を“私”と呼んでいるだけで自動環境に不思議も無いなら,すべて自動的,“なに”も?
[ “なに”をしない-と-言うことはできる。自ら実践できる。
..私は10年程まえに一度“明晰夢”という呼び方に倣わなくなった。私は今だ“ 明晰夢 きけん ”の主張ではなかった.,仮に“夢”に対して自身の危険を冒すことが,“外部”との問題となりうるのだとしたら,それは決して明晰夢のこころみ自体との障害ではない. もし“ きけん ”自身が在ったのなら,それは自身の危険かもしれなかった。]

(前述の通り,)“憶い出された内容”と私の試みとは無関連だ。この“私”という語が恣意的であるなら,この夢見の-と言い直してもいい。自動的な連想は普通の夢同然だからだ。ここで‘ 視点 ’であるという試みをやめてしまえば,自動的な流れるゆめ.,たゆたう茫然には何?も起こらない.( そう,“茫然”と言ったが,少なくとも偶然性が遇ったとしたら,未だ自乗的‘ 夢見 ’のきっかけ可能性はある。)
だから,少しでも見分けようとすることは,夢見の始まりなのである。

2023-12-01: すべて(明晰化の)ベクトルに一本化する:

このように,(すべては)手前のものだ(と-見分けられる..)
先週,私は用事の行き帰り最中に,婦人ひとりが道端に横断した直後,突然こちら自身の両掌を打ちかける“動作”のような印象が遇った。そこには特徴は無かった。あるいは,あの“子どもたちのわざとらしい拍手-笑い”にも,そのような外的要素の写しが遭ったのだろうか,と二重連想的には思いかけるが.,(もし-も無く)自らそれについて振る舞いにするとは,確たる中心の無いことだ。

[ 私は他人的な労力に割かれる-と,これ以上観察者に徹する方法であるべきだ-と,無関心の側として走りつづけようとした。それだが,“徹する”よりも,むしろ“敵する”の側は立ったのだろう。現に,私は対象的に書き記すこともできる。しかし,それ自体は私の観察視点ではなかった.,仮に私が衝動的な書きなぐりをするばかりだとしたら,それこそ“居眠り”そのものではないか( わたしが携帯手帳にお話語りを書き始めたのは10代の始め頃だったが,最初に他人の“横暴”に対して抗議の書き付けをしたのも既に以前だった。それが“お話”の論法だった時代も,それ自身に真性であるとは(私は)認めなかった。)
私は衝動的な迫力には最早みとめまい,それだが.,あたかもテレビに“没入”しきった子のように,結局も無くおしゃべりや夢想自体に変わってしまったのなら.,頭は眠っていても泥睡していなくても“ いや,私は起きている ”と一方に断言したとしても,なんの違いがある?
ある対象に向かっているばかりなら,ここには起こらない( 先日私は“ ファントムメナス ”という語を“追っかけ脅迫”と訳した。-だから,有名SF映画と称した向きとしては“ スターウォーズ ”ではなく“ ソラリス ”の方だった。“予言された約束”といった言い回しと同じく,“約束された予言”という言い順は無い。“私の言い分”がコンセンスだったのなら,ここには“自由”も在り得ない。今更“睡眠-夢”と“日常”とを分けてみる義理も無い。“私”はその“夢”だったのだから。)]

- たとえどう“本意”と言ってみても,空の器に水を注いだようなものだ。所詮“ 私の目的,私の観察, ” ..たぶん記憶に基づいて言うだけなら,“ 追想の理由( ある夢について想起することで増幅できるのは,こころみにとって原理的だが, )偶像の原初 ”について,いま(なんで?と)問わなければいけない。

原題: ある意味の解消-( “知ること”の意味は留められるか? )