すべての無関心(Q&A-)

A: ここで以前に述べてみたことから,参考として,そのカルロスカスタネダの“呪術師の夢見について”といった焦点にちょっと引用してみたい;
( 意識の暗い海の旅,第三章/無限の本質より
..それは捕食者の気分といったらいいか、ひじょうに貪欲な気分なのだ..重要なのは、完全に無頓着な気持ちの域に達することだ....筋肉がエネルギーに満ちあふれ、夢見の訓練のなかで実際に誰かを追いかけた。相手が誰であるのかには関心がなかった。私が必要としているのは、眠っている人間なのだ。..それが誰であるかは知らなかったが、その人間を見ているあいだ、ドン・ファンの存在を感じた。それは、私がかつて経験したことのない意識レベルで起こっている未確認の近接感によって、そばに誰かがいるのを知るという、奇妙な感覚だった。私にできたのはただ、休んでいる当の個人に注意を集中することだけだ。その人間が男であるのはわかったものの、どうして男だとわかったのかは、いまもってわからない。エネルギーの球体がわずかに平べったいことから、男が眠っているのがわかった..
A: ここでの重要な検討ではないが,彼の文脈としては見逃されていた点も遇ったと思う。その本では著者自身の序文として(例の“記憶辿り”の目的自体は)感情などに余分に割かれていたエネルギーを肉体的に取り戻すという,呪術師の文脈だとして語られていたが.,“古代呪術師の-”という導入自体が一種の型だったのだとしたら,普通の療法的な解消方法みたいだという意見もあったら良かった。
Q: それともシャーマン的と言った.. 戦闘行為症か,治療のだったという外来的な意味合いにおいては。彼は最初の最後にあれは“患者”自身ではなく(逆に)もうひとりの客だったという表現のようだ。もしその通りだったのなら,彼と“師匠”との実在性について一致的に語られたこととは,無関係だった。メモされたのなら,それは文脈でもあったのだろうし,意図され得るといったわけだが..
A: 彼の師匠J最終章まで“旅人の道”として書かれてあった(その条件的な指示に関して,)療法的なものとして置き直してもみれただろう。
私には夢見のためだったとしても,“お友達”いうような呼び方は無かった。幾ら具体的な出来事かのように言っても,時制の違いは明らかなのに。
Q: なんで,あたかも“今は12月1日,先勝記念日-”といったような.,時制も何も無関係な,予後調和的な-の問題だった。
A: ある“夢”アパート室内で,そこに来たお笑い芸人の独り言を私は意識的に無反応にみていた--(それがあたかも眠ってしまい横たわったあと)そこに来た別の男の笑みに,わたしも笑いかけた。それは偶然ではなかったのだろうが,見覚え無い顔だった。
Q: ..“ファットクラブ”のオチではなかったね。一見みえないブルーみたいでも遇ったが,ブラウンっぽい目線は無かった。あたかもPの頭が“N”否定しながら,それではないと言ったかのように。ある視線というものそれ自体“ショット”だ,という意見もあった。モンキーは本当に直視を恐れていたのだろうか。
A: 女の子の目線を一度も悦ばなかったのだと気づいたときに,私はその理由を考えだした。そしてP自身との反映的な相としてすべてを捉えるのは無意味だと思った。私が“彼女自身”を認めるとしたら,身体的に取り込んだといっても同然であった。
Q: それは心理的的な見方だ。“女の子”という脈ではなく,P-自体だったかもしれない。“ファットクラブ”のラストは,まさにその言い方だった。
A: イマージュだったというなら。
Q: いやいや。“捕食者”に食われたとは言わなかった。
A: “わたしの-”だったからさ。- あるバイトの“痛ましさ”? “目に映るもの”と,そうでないもの,といった(対称自体の)問題は遇った。凡そすべての面倒事は- といったかのようにね。
A: あのCの本は,たとえば統一的な宇宙方程式のような記述に関して“彼は母語のシンタックスを証明しただけ”としたように,あたかも“非有機的存在”として(調和的でない認知のために)異常な発見をさせられた,とは言わなかった。
Q: それも“おそれ”さ。“認知的な調和”と言っても同じ。ある記憶に基づいており,死ぬという観念以上に,本当に異常なもののために努力できたか?
[ 焦点の元がPに在るのではなく,私-それとも,一瞬先に存在できる可能性だったとしたら.. ]
例え,感情自体には否定しないで酔っ払いも無かったかの,ただ一致的なコンテクストだったといった意味合いでは,“調和的な非認知”という言い分は有り得なかった。
いつだったか(それ以来,)私は“右脇腹の痛み”について中心的な関心にできなかったように..

[“ 無限の本質(無限のその活動的サイド)”序文に於いて,彼の師匠Jが殊更に彼をからかって笑う度は強調されていた。無論,その著者自身の出自といった語りなのだが.,私が思うに,そのような態とらしいJとの会話分は読者に逆説的な沈黙をもたらす効果を持っていた。
ある“意図”に依って自身にむりやり充満させようとしたら(-夢見の意図であっても)もう憶い出せなくなっている,より直接的な話法であったら,対称性や反映や無意識的な表れについて意識的であるだろう。]

Q: (ここ自身のために)自ら“お節介ごと”に捉われたりしないで,とは言っていた。
A: 捉われるという言い方は不思議だ。すべての無関心は徹底しているべきだ。

これは‘ これは夢だ ’言っていない?(再;)

A: ..これは(なぜ,未だに)これ自身‘ 夢だ ’言えないのか?
Q: なにか後々非難された側が,先に言い返したという事後回帰の問題から見れば,それに関して未然の感情的な反応にはできなかった筈だ,という見方になる。
A: たとえに,あとで“あのお店には一度も私は通わなかった”というような言い方が,もし事前に遇ったのだとしたら,それは閉じたループみたいなものだ。ある供給が需要を促進するというのなら,刺激反応的なものを“マイバースデー”といったも同然であった。
Q: ..カールGユングがジグムントフロイトと意見を言いかけたときに本棚かどこかから何か音がした。ユングは今一度それが起こると彼に言った。そしたらまた音がした。
A: ..だから言ったんじゃないんだ。“これは何だ?”という質問は,それ自体の最初には無い,普通夢に対する順序としては。
Q: 前回の話題で,“ファットクラブ”のDは最後に“なんの匂いだ..?”と尋ねかけて倒れる。あのお話の文脈として見れば,彼の唯一の独り言みたいにもみえる。昔Cカスタネダのシリーズ本に関して“だれも彼自身を弓矢の的にすることはできないさ”と-たとえ台詞を述べたひとのように,事後予言できたのなら事前予知できない理由は不明だ。
A: “わたしの両目はオープンだ”と認めたのだから,そのあと彼自身に撃つ必然性は無かった。わたしの脚本なら,だれも来ない。あたかも止め忘れ-ガスコンロの火が,ちょうどの時間で止まった?何事も無かったかのようだった--のように,完全無欠であるなら。
Q: ‘これ’は“これ自身”を認める要請ではない。眠っているのはどうしなくてもの側だから。
A: PはP自身をやめることは無い,地上の動勢だ。だが,ヒューマンの方では,彼はZの総帥ではありえない。Gの性能に負けて,危機は押し戻された。
Q: 2月の終わり頃までの展開は予言されていた。
A: 本当に“自由の気うん”が在ったら,様子見や占いよりも科学的だ。
Q: 少なくとも科学的的ではあるだろう,単に“月が落ちてきた”という言い回しよりは。
(これは‘ これは夢だ ’とは一度も言えないのは)原理的だからなのか,夢との-夢からの-自動に対して“私”は無能だから(そのような思い込みだとしても,)未だに夢自体の論理は解離しているかのような不明な表れなので,それとの無関係といった理由の(拒否ゆえの)障壁だった。
Q: ある教室の“不良少年”を気にしたようなものさ。私が最初から教科書自体であったとしたら一度も彼らをミラーにはしなかっただろう? -“クラスメイト”の要請,“男子女子”と呼ばれる案件,-悦びの可能性といったのなら,不自由そのものさ。
一喜一憂の問題はCのお話にもあった。私は例の“無限のアクティヴ側”に読み直そうとして(あの“夢見のアート”以来の本として読みかけた当初には,もっとも退屈な読書でも遇ったが,)今回注目してみたのは,たとえば彼がJの言い方に対して腹立たしいかのように“感情的”反応したと述べた部分だ。
Q: ..“無限の-”と言って憶い出したんだが.. “ファットクラブ”には,あの彼自身には“回帰した”というイメージは無かった。あのお話としては,彼が機内でDと隣り合って話した処からで,M-彼女との関係は更に後時点で判明しただけ。
A: それは,例えばコーヒーについて言えば,あのパッケージのどれが良かった-というひとが,生豆のどれを選ぶという処からではなかった,といったような問題だろうか。ここで“コーヒー”と言えば,生えからではなかったものの。
[ 私は今日“砂込区”というワードに聞いて,小学生の頃に,教材か何かに砂の均一な清潔そうなものがあってそれが楽しかった,という心象みたいな(具体的な絵の伴わない)連想は遇った。本当の記憶かどうか? ]
Q: ..“コーヒー”については以前述べた通り。‘これ-夢’といいながら記憶と想像とを混同してはいけない。
A: 予めヴァリエーションの選択にはできなかっただろう? だが,実際には.. Cはあの本の最初回想シーンで,先ず彼はdJの日除け東屋で荷送り用木箱に掛けたがそれごとひっくり返ったので,そこで彼の背中はぶつかったという。あとの再会場面では..(時制的には次の記述はそれよりも以前の事である;)
「おまえの努力など、どうでもいいことだ。肝心なのは、おまえがわしの住みかを捜しあてたということだ。さあ、そこへ腰をおろすがいい」彼はそう言って、あずまやに置かれた荷送り用木箱の一つを指さすと、私の背中をたたいた。しかし、優しいたたき方ではなかった。
実際には触れられもしなかったのに、私は思いきり背中をどやされたような感じを受けた。この平手打ちに似たものによって生じた奇妙な移ろいやすい感覚は、不意に現れたかと思うと、理解するまえに消えていた。

Q: 記憶そのものの喚起ではなく,あるひとつの象徴的体験か,その“感覚”との問題かもしれなかった。
A: Cは一度も“わたしは叩かれるかもしれない”という述べ方は無かった。回想としての文体だけだった。
Q: そう言えば,あの本の終章では,彼は午前3時過ぎにお店のカウンターを叩いたりげらげら笑ったりしたと。
A: 今回の質問自体から,また前回の続きに戻っている。
Q: しかし,ヒントを示してはいるよ。