[ 補足:2025-07-21, ]
2025-07-06:
体-中心( 発 )以外-無。
2025-07-05: 植木と種
ひさしぶりに“ 明晰夢の記録 ”ワードで検索してみた。私が不十分なネット環境だから読めない日記等も多いのだろうが,一々考えながら自身の“夢”について記述できるひとが少ないのか,先ず簡単な何ページ分以外には見当たらない。
-とりあえず,芳野まもる明晰夢日記を読んでみた( 夢の内容的には20才代くらいまでの男子とも思われるが,私の文体には無い表現が変わった印象となったので,少し引用させてもらおう;)
..“私は自転車に乗って女を探していた。私の意志を迎え入れるように、夢は何人かの女を登場させたが、女たちは私が近づいて捕えようとすると、恐怖におののいて逃げ回った。” -( 下線いずれも私-Okedaが協調のために付けた。)
それら“夢”に関して,“場面は与えられており、”
“飛べる気がしていた。地面のほうから空気が私の体を持ち上げ、体を空中に一気に持ち上げるような感覚をイメージすることができ、実際にそうなった。”
..といったように,予め空気自体に委ねる関係性が在ったかのようだ( 私は拒否的だったからか,夢のものに私に何か“させる”という意図は起こらなかった。)
反対に言い替えてみれば,“霊体が私に-させる”というそれ自動的な状況となりうる( これが気付かれなければ,同一性の“憑依”だとも言える。)
[ ..水(海)の寄せてくるようなイメージがいくつかあった。]
“海”と言えば,私の夢には数える程も無かったが,そう言えば昔,私は純粋なイメージング自体として進行展開させた絵を小説お話に利用していた。そうして小説“ シュラジーヌ ”に海辺の場面として描いたシーンが,どうしてかあとで映画“ レセプション
”の砂浜での絵になったのでは?と思われたことも遇った。Lディカプリオ演じたコブたちが,“夢”の砂浜で子供たちの(バケツか何かで砂の塔みたいな型を細工したかの)姿と..
( あの映画場面では,子どもら2人はコブの潜在意識から写された彼の幼い息子と娘であったのだろう。 私のお話では,主人公マシヨが偶然みたいに友人と再会して海辺に行き浜に眺めていたとき,その傍に遊んでいた小さな女の子が,不意な彼に小声で“
誰にも気づかれないように(遊んでいる振りをして)”と囁きかける。彼女は“密偵”であり,何かを伝えなければいけない。あの友人はニセモノで,これは現実ではないかもしれないのだ。
しかし,もし“夢”の一部であったとしたら,それらすべてに受け応えをするのは先ず他者めいている。純粋に視点自体でいられたなら,夢に譲ったそんな状況自体としての“自分”を否定する筈だ。)
[ “海”については,心理学者たちが述べたように,潜在意識の見えない領域や母性(本能)女性性を表す-というのが従来-象徴的見方である。]
たとえ想像対象が一見未知のものであっても,なんらかの記憶された既存の面に基づいているのでなければ( あるいは-? )ある“想像面”としてここに表現するのは不可能なことだ。 能動性のイメージングとは,基本的には記憶の想起( ある想像の動機 )同等であろう。
私のように,年齢ともに“過去”依拠しなくなるので,子どもっぽい欲求本位の夢みも自然とは無くなる。
“がらん”の中に眺めることだとしたなら,そのとおりである。
..自身の見た(遇然的な)そのような幾らかの“夢”について,これを“明晰夢”と呼んでもいいものかどうか?という質問は当然に起こる。 以前私は私自身の語で対応しようと試みたし( 誰々の用語に規定されるのがいやだ-という者にとっては,こちらの独自性に基づいていると言い切れる-先行のほうがよい。)
“夢”自体が委譲によって対面的な(反転的な)現れと写るわけだから,能動的想像のような状況に於いてはその“関係性”を操作的にどうこうしてみようと意図することはできる( 但し,その意図通りに変化するとは限らない。)あたかも実世界においてはそこに存在するすべてをコントロールするは不可能である-といった如く。
2025-07-18:読めない文字
..“ 明晰夢の記録 ” グーグル検索で,凪ぱるこ“ 私の明晰夢の話 ”さんを読んでみた。一見かわいらしいショート漫画絵で( すでにニュースサイトなどで話題とされていたよう。私は通常iフィルター付きインターネット端末以外アクセスしようが無いので先ずSNS等一切不可であるが, )私の夢体験には無かった点などは参考に値すると思うので,ちょっとずつ考えてみよう。
私は昨夕図書館へと例のサドル無し自転車で行く最中雨降りに遇った。髪もTシャツもずぶ濡れ,..それがどうした。 -天気予報によって18時以降もう降らないかのようにイメージしていたので私は予期してはいなかった。その出かける直前なにか( 例の“ 今日それは無い ”といった,予定への否定言葉おはなし口調で )“ ばかだなー
”と言ったのだが,もし予告だとしたら,そのひと言だけであった。そんな他者的な言い方は私には珍しいので,私はそれがなんのこととは判らなかった( -自転車で少し走ったとしても精々1時間程度検索作業までだろうとは思っていた。 また,その直前までの雨降りで路面が水たまり多いであった場合,泥除け部品も取れたままなので,うっかり速度が上がったら尻に水が撥ねてしまう。
洗濯したばかりだったのがまた全部濡れたわけだが,仮に通行者にまで撥ねてしまったら大変だ。 -だから,“無理”だ-と,一室に読書でもしていたまえ-という意味でだったなら,“(私は)バカだ ”と言ったのだろうか? )食事は先ず食物繊維から-といったように,何よりも肉体の運動を欠かさないという目的での移動と序でであったから,私にとって雨降りも障害ではなかった。
..漫画? “ 私の明晰夢の話 ”のショート話題にされる明らかな特徴は,先ず,その“ 夢の文字 ”であろう。 例えば,勉強中に( その机上,すでに“ 明晰夢だ ”と思っている処での )ページに書かれてあった文字が( 不明な文字で )読めなかった.. “ 夢の町内 ”でも,電柱看板文字等に判読不明であった-など..( 日本人に依る-
ある漢字よりも古代文字風といったアレンジかもしれないが,昔“ 風の谷のナウシカ ”漫画版にあった他国語文字のイメージそっくりだ。) “牟”みたいな文字について述べられた部分でも,当人には心当たり無いようだ。 私も“漢字”については通常無い組み合わせみたいな文字が“ 夢 ”に遇ったが,それら偏や旁に何らかの自己象徴的意味合いが予め在ったとしたら,解読できる可能性もある。
凪さんの“ 未来的な形のビルディング ”や“ 別人種のような変わった外見や通じない喋り方 ”にも,心理学的に読もうとしてみれば( 一見判別されなかった )象徴的あらわれ-合成かもしれない。 仮に“ 夢 ”最中不思議なものと機会が遇ったら,“こちら自身にとっての何なのか” 精査してみるといい( “明晰夢”であるほど,案外な答えがかえる場合もあるだろう。)
凪さんの夢体験と同じように,それらは“わたしの”応じではないからだ。
[ ..私はグーグル検索での“ 明晰夢の記録 ”には今回11ページ目まで(以降未見)なので,これからも検索リストアップ順位に関係無く,私のように“50位以下”でもきちんと述べようとした痕跡が記録してあるひとのページであったら( 砂に埋もれていたかもしれない, )検討しよう。]
[ 補足:2025-07-21, ]
..わたしの前に音楽用の鍵盤があって( ある曲を,その場-“妹”に聴かせようとして )アドリブ的に弾いてみる- [ 普段私は鍵盤音階の記憶も無くなってそのような和音を正確に即興的に辿って弾くためには練習しなければならないだろう。(
その場でのその音楽はわたしの多重録音によって予め打ち込んであったという記憶だった。)わたしは弾きながら“案外きちんとプレイできるのだな-”と思った。]
..目が覚めて-視たところ,あるテレビ番組のあの曲だった。 その番組の毎回そのテーマ音楽が掛かるのはオープニング場面それからシーンの移り替わりに向かう部分であり,私がその起きて瞬間聴いた時,その毎回最初(ほんの1分間も無い)オープニング部分だった。
夢でのわたしはあのフレーズを2回繰り返して弾いたし,時間的にはわたしの弾き始めが先んじていた-と先ず思えた。何よりもあの夢の場面では“わたしの”思いつきであって( たとえテレビ音声から自動的な印象や連想となって聴覚的に聴こえたものとトレースしたのだとしても, )理由づけが違う。
..それで,私は夢での弾き出しがそもそも予告的なものだったか,夢から室に目覚めた瞬間テレビ放映されていた音楽と認知されたのであって( あの曲自体は別のものからだったとしても, )あとの聴覚印象-フレーズ記憶と替わったのでは-?とも思った。[ ある特定音楽について掛け離れた動機としてあたかもこちら自身の演じだといった.. 変だ。
-
私の以前記録等と検討してきたように,あらためて“ すべては夢で,幻想に過ぎない ” -あるいは“ すべてはこちら自身に発したものだ ”といって視ることも可能であろう。
このような視方は,( 委存的 )センシングされる / コントロールする( 自主的 )-という,観念的領域との“夢”問題となる. ]
..夢自体のあらわれに( 注目しない-ゆえに )圧倒される。 このことは逆説的に“まどろみ”と認知される。 夢を嫌う者は,単なる拒否したが為に,見えない危険と対さなければならない。
夢のときを憶いだし,
夢となる,
視る。
これは夢見である。