理論的予見する

2022-05-15: (改題)理論的予見する13

A. 普通夢が受けになりすぎるのは,普通にこの状況を変えてみようという意志が無かったからだ。
Q. なにもに起こらなかったな。
A. なぜ‘ 能動的- ’いわなかったか?
Q. ‘ 能動的- ’といった言い回しはイメージング体験のためであって,それ自体のロールとして視られるのでなければ無意味だろう。
A. 夢か,微睡みのような状態,, 例えば,ある古い流行歌のようなフレーズが繰り返されている.,それは感情か何かの経験に依っているので,それ自体に再生されるだけだ(それはその歌かそれの連関のみ.)
Q. ..それの,ある目的,“歌”のなにかが目的自身であるから,それ自体が仮に替え歌にされたり,ある部分で止められたり,こちらからの条件的に改変してみようと思ったのでなければ,それが“歌”といったのだろう。
A. だから,それに関して‘ こちらからの作為 ’は起こらない。それらは記憶だ。
Q. だが,逆に“その歌”自体に使おうとすれば,停滞してしまうだろう。
A. 自然な“夢”のシークエンスが(その場に於いて)こちらから‘書き換え’られるとしたら,夢本来の論理は制止されたのでは?
Q. なにか欲求のために“このような-”動かされているというような場合には。
A. [ たとえば‘右の心臓に回収する’という操作に拠って,それ自体の収容が可能であったなら,“私の慟哭”をころしたとは言わないだろう。 ]
ある書類棚のファイル等に,私が見掛けて私の両手でそれらの2つを“ページどうしくっつけた”としても,それが私の純粋な意図だと言えなかったら,それは“夢”のロジック自身だった。
Q. 謂えば,ある機械の盤面上での操作できたが,その機械の仕組み自体には関与できなかった?
A. 脳の直接的な観察が可能であれば,ある“動き”に関して推論できるようになる。解析装置の発達に拠って(脳活動にスキャンできるとしたら)あるイメージの発生原理は解明されるかもしれない。しかし,‘心的な投入’の働きについて説明できたかどうか?
Q. 心的な?
A. ある状況に対して‘投入’するためには動機が無くてはいけない。
Q. ..ただ単に私は今これらを視ているだから..と言ったのでは?
A. 私が視ていると思わなかったら,なにもに視れない。
Q. だが,動かされている-と思ったなら,それにはなにかの動機がある。
A. なにもには。
Q. 心的な‘投入’の可能性?
A. こちらからの‘投入’できないのなら“浮かんでくる雑念”みたいなものには過ぎない。
Q. 心的な行為の可能か?
A. 心的な行為は想起だ。
Q. だが,心は自ら想起できない。
A. 心が想起したとはいっていない。
Q. 心は存在する?
A. 存在は想起だ。
Q. 心的行為?
A. 心的行為は存在しない。“私はやらない”といったのと同じだ。
Q. “私”は存在する。
A. 神経回路が遮断されたら何も想い出しにはならない。たとえば,両足の無くなったが“これは両足”という.. それは想起自体の問題だろうか?
Q. 私は存在しない?
A. どうしてわかる? 単に“以前の自分”に依拠したのでは? “(わたしの)特徴的だから”といった。
Q. 緊張の理由について言うのに,何々の名前で言ったりするの必然は無い,といった意味では?
A. そう言うなら-噛みつき亀みたいだ。実態は早期からのストレスと課題克服かもしれなかった。
Q. 両足は想起できない。
A. 無数の心理といっても,反応性だという。
Q. レスポンス.. レナウンス?
A. 認知の要求といったのなら(抵抗性だったとしても,)実際には受けになる。いわゆる“自分受け”だが,対象化されていたのなら危険の認知にならなかった。- ある画面上の“顔”に魅惑的といったりする。私は“身体的な写し(分け)との問題”と評していた。
Q. 例えば,読書のとき,(私は今これを)読もうとしているという? それともたとえば,テレビ画面(彼女の,顔は)魅惑的だといっている
A. 危険の取り締まりを自任する側が“危険”そのもののようであったりする。あたかも“おぱいを断る”といった言い種のような..
Q. おぱいが断る? -神経どこにある? 予め“母”の記憶が?
A. そうかもしれない。なぜ“(私の)おぱい”というのか。
Q. ..心的な動機といったのではなかったかな?
A. 私の‘思考’を緩めれば,意識の連関は表れるかもしれない。なんの動機といったのか。
Q. 自動的な状態の“ある意識”といいたいのなら,統括されないのに“集中”可能だとは限らない。
A. 心的な動機....それも無為だ。
Q. メディアツールの乞請に因って,一般的には孤独が犠牲になっている,といったように,存在感のフレームは変わってしまった。
A. 絶対的な孤独なら“ひとり”にはなれるが,その“孤独”の意味だ。それに拠って補償されているもの,あるいは,なんか“通じ合っている”といった,思い込みとしての再帰かもしれない。仮に変態したり憑依したりだとしても,そのようなものがどのように“奇妙に生まれた”のか,未だ知られてはいない。
Q. おぱいに対する,弛緩の要請?
A. 極度の緊張する。フレームの存在といったべきか。昔“感情”には生理的原因の先んじているという見方も遇った。
Q. ..昔,ある学校教員が(教室で)詰まらない引用話みたいに,“Pから白いものが出たのを病気だと思い込んでジサツした男子がいた”というお話をした。..“馬鹿らしい”というのがその口調だった。
A. 彼は自ら硬貨で違法駐車等に傷をつけてやったとも言っていたが,あの当時のわたしにはその例のどれも同じ語源だというような判断は無かった。たぶん警察官なら“ベクトル”だと言っただろうが,たとえだれかの伝え聞きやホラーだったとしても,なにかとして特徴的に語られるような自我,彼自身のそれらだったのだとみれば..
Q. それらはポテンシーとは言わなかったのだろうな。
A. おぱいはセールスマンか?
Q. ..そうではなくて,例によっても,アトラクションのきっかけは“写る対象”との関係に無いといったんだ。
A. そういえば,質問が無い。
Q. プラスとマイナスといった見方は生死の問題であって,現象の面はそれこそ“水難の相”という意味合いからはどうしなくても見えない。[ 例えば,あの“エクソ×スト”みたいに。 ]
A. [ あの映画には“月から岩石が降ってくる”絵は入っていなかった。私なら“あの室内での出来事”絵にしなかったか,夢の回想シーンみたいにちょっとずつインターカットに繋ぎ直しただろう。 ]
Q. [ “無意識と現象”といった面から視れば,振り子時計の前後は焦点的に一致してはいなかった。 ]

(つづく)

(改題)理論的に視る 14