観察と眺望

2023-05-28: 観察と眺望
積極的な意とよりも(常態からの-それ自体に)依存しているような状態は悲惨だ。私の場合,コーヒーに関して毎回ふところに可能な新しいものを試そうとしたが,関して代わるような方法を考えなかった( どれかの為に味わおうとしたのなら,それがどんなスペシャリティ評価であったとしても,私の意とではなかった。)
あるひとつの記憶的な念に( それが常に繰り返しと自動化してしまった時, )それの反芻ばかりのために物事との対称性はすぐになくなった。私は刺激本位な反応には無視しようとこころみたが,むしろそれらに利用できる若い体勢の方が‘ 夢見 ’向きであったかもしれない。[ 但し,“私の状況”といっても,“女のこと”といってみても,同じだった。]

( ..物思いに移る瞬間は通常に意識されなかった。物思いそれ自体は“ これはあなたの夢だ ”とは一度も言わなかった。だから,いま私の可能性として有効だとしたら,これの移行に際して‘ 今私は-観ている,私は-こうして見ている ’という意識化の条件-手順として設定できる。)

実際的にこの試しを有効とするためには,眺望と観察とを同時にするような点が必至だ。
私はまた両目が合わさってきた。

2023-05-29: 思考? 意識的?
私は外部的に体を動かすことも無くなったが,さりとて歓喜も起こらない。
暗いうちに詰まらなく目覚めて(乾いたタイル地のひんやりとした両足底-感触に)私はまた本を開いた。私は一度読みかけて置いた書類には,ページの再び開いた瞬間-前回読んだまでの直後一節に-自動的に移る。その点には,“読む”本位なのだろうが,音読しながら理解しようとする習癖だったので( 言わばダブルチェックみたいな確認で, )未だに素早く“視野的に”内容把握しようと試みては,それが通常“私の記憶印象”にはならないのだろうと思う。( 依然,視覚的-発音的な読みに拠らなければ,私の観念として留めるための作業は不可能だろうか. )視覚的-語音的な記憶に依らないで“思考”するは私にとって発出不可能なのだろうか? もし不可能だったのなら,私は感覚的な刺激やイメージに依らないでは思考本位に考えたりもできなかったわけだ。幼児のあれで言えば,あたかもそこにレゴブロックが遇ったから“手に取って組み合わせる”ことはそれ自体の表現であった。

未明の光か
“読み取ろう”とするとき,私は私自身そこに与えるよりも先ず喰わなければならないと思っているかのようだった。だが,“食べること”は受容で( “ただそこにある”目的だったのでなければ., )食べている最中に敢えて“私は夢を視る”といったりもしなかった.
( 私は既にセンテンスになれなかった。自己偶像化の問題だったので,私は更に(凡て)同一化をやめようとしていた。)
しかし,全部に意識的であること(あるいは私-自身であろうとしたがために)難しかったのである。

“心理学的自動症”の終章-結語に,ピエールジャネは次のように述べた;
..その自動症は、その発現様式において、人間的弱さ、心理学的貧困そのものであり、現実の結合力の減弱からなるものである。一方、天才は、どのような科学も予見できなかったまったく新しい観念を形成するような強力な統合力からなっている。人間的能力の究極といってもよい。通常の人間は、この二つの間を揺れ動き、精神力が弱まればそれだけ自動症に規定される人間となり、現在持っていてなお成長の可能性を秘めた精神力が強くなれば人間的な自由に値する人間になるのであろう。
;ある見方といって,私はそれらの記述に全く同意したわけではないし,ただ信じるでもなかった( “判断力と意思”までの章節,その前章からの主要な点について,最近ひと続きに要約してみた。夢見の実践f: 心理学的貧困..下層にある心理学的形態., )
従来,“情感”とは,過去からの記憶性か,何か具体性の表面的に忘れられている,というのが常識であった。私は今では違う関係を視ようとしている。“情感”は不明な表れとして,誤解されているのではないか?

2023-05-30: “外部”目的以前
昔(性対象を持った時に)エネルギーはそれに向かって労費されはじめる,というのが旧来の“気力”に関する見方であった。私はもう(“私-自身”にも,“彼女”にも)つかわなかった。
関連カテゴリー:観察+夢の身体
それら(観念的の)イメージ保持に費やされる茫大なエネルギー., それらが形態のためではなく,エネルギー自体であるなら,再び繋がない。
関連カテゴリー:一体

これは夢である自体に戻れるかどうか?

2023-05-31: “世界”の帰巣性
“症例 マドレーヌ”2章目に読んでいる。そのマドレーヌにみる宗教信心的な傾向と,慰安状態,外的活動の減少した状態に関して,ピエールジャネはその移行を3つに記した;
“瞑想期(動きの減弱,高い声では話せない)”-“恍惚期(行為の消滅,マリアとヨセフが神の御子を授かった,歓喜)”-“沈潜期(あとで何も分からない,意識と記憶に残らない)”
しかし;
..マドレーヌが深い眠りに入って沈潜の外観を呈し何時間もどのような刺激にも反応しないとき、私は声を立てずに「起きよう、そして私と一緒に行こう」..
聞こえていないように見えるときには、彼女の気に入っている「起きて私と一緒に行くのを許してくださるよう、神さまにお願いしよう」..
しばらくすると彼女はゆっくりと起き上がり、服を身につけ、私についてくるのである。.. 私がもう言葉をかけたり行動を指示したりしなかったならば、また無動状態となり人の言葉を聞きとることも止めてしまう。
私が以上引用したのはその観察内容のためではない。私の状況説明のために私の読書部分が書かれていないと(この日記の読者には)チンプンカンプンにしてしまう。
( 以前例のモートンプリンスからの引用にも私のメモ的な態度を優先したわけで,同時に“観察された人格”一覧表などが付いていたら良かった。)
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著者ジャネは恍惚期のマドレーヌに( 例に依って,“-することを許してくださるよう神さまにお願いしよう”の科白を用いて )行為を遂行させた。例えば,握力計の数値変化を見たり秒数間隔での錘の上昇度を比較したという;
..興味深いことは、恍惚期にはあらゆる運動が遅延しているにもかかわらず、実験では早い収縮リズムを容易に得ることができたという点である。
この点に関してマドレーヌは、「大工ヨセフの仕事場で働いているイエスさまのお考えに支えられていました……、私が動けるよう神さまにお願いしなければならないこともありました。私ひとりではそれをつづけることなどとてもできなかったのです」..
;その著者に拠れば( それ以前の観察者たちも )良心の導き手が呼びかけによって無動状態を中断させ何らかの行動を引き起こすことができるといった。
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( 私がここで本当に必要とした一文は )マドレーヌの“大工ヨセフの仕事場で働いている-”であった。なぜ“大工”だったのだろう? それは確かに建てたひとの生業であったかもしれなかった( 象徴的な読み方で,最も基本的な-という意味であるとしたら.. )そう思ったが直後,すべて人々や私に表れている一見個人的な傾向も(どれも)全体の集約された総合的なものに過ぎない。
不思議だが,そのとき私は“AI”や“地球的ビッグデータ”といった当世のたとえを一度も同時に思い着かなかった。

2023-06-09: 甘いだけの毒
私は“ものおもい”には内的な対処だとは思わなくなった。私にとって不要なこと“手出し”の問題は無い。私は甘いお菓子とお茶どちらかを選べたらお茶を選ぶのだが,私が思うに(飲酒の試みが遇った頃には,私にとって“スピリット”は慣例的な習癖とは無関係な)もっと一致的なものだった。だから(ある意味も無く)酒に依存するような者は外的なものを受けなかったのだろう。
それだが,私は甘いお菓子に一度も修練とはしなかった。そして,それが毒だった。