消私と月世界

2024-09-03:
“ 明晰夢見の実践と理論 ”といった題名は,もうからなくなった。
私に受動的な“夢”であることを,やめたかったのだろう。 しかし,観念的鏡像化のイマジナーを持たないというからには,ある“自由”に対して否定的態度をとるので( たとえば,性的なものとの同一当然とした一者には, )分離または逆説という意味になってくる。それが一度は存在し‘ わたしの夢見(ドリーミング)’の因となっていたのなら,後々これらは新しい独自基本を持たなければならない。私にとっては,まるで最後に生殖動物の子であることよりも,先ず宇宙の構造を理解できるような精神自体であったらいい-と( 無限? 一瞬か,無か。)
今朝このタイトルについて見直そうと,“ 自発夢 ”というワードのなにが無為なのか( -なぜこれに意識的とはいえなかったか-? )その一語ずつを思念的に唱えてみた。そして,“ 夢-発-自 ”( 自発夢-夢発自 -と唱え直してみた, )瞬間,閉じていた両目と粒子状に,なにかあの“遠雷”のようにみえた閃きみたいな,久しぶりそれ自体のような“うごき”が遇った。
どんな記憶のジュースもよろこばせはしなかったように( 口先に甘いものが本当に体にとってのよいものだといえるか-? )
“私”は夢の主体ではなかった。

連想パターンを変更してみる :2023-06-03 / 見夢晰明

右-左,左右の役割 :2024-05-31( 連繋カテゴリー等,)/ 視点

2024-09-02:

台風辺隣で外出できなくなった時に備えて先週予めスベリヒユやアオビユをストックしておいた( 6月-7月頃までスミレの葉やキク科の葉などを利用していたが,8月には時期外れとなった。)“アオビユ”と言ったが,本来のイヌビユと区別して穂長-葉小の物を簡単にそう呼んだので,未だ正確な分類とは無い。 なぜ高架線下の歩道際に特に穂長イヌビユが生えているのか?( 前回記して以来,花穂かすいの低い-葉先にはっきりと凹みの形イヌビユ割合は毎回1本か2本までだった。7:1以下か。) 10月以後スベリヒユなども難しくなるだろうから,茹でて天日干しできる分を作っておこうと思う。
[ (続) スベリヒユ採取について,未表示.. ]

2024-09-04:
..私は漸く“私-自身に作用しては他者にそれと向けられるような感情的感覚”に見切ろうとしていた。
“こちらに反してどのようなイメージとして私の自身に捉えられていたのか?”という問題だ。
一昨夜だったか,私が帰り路-買い物のためにドラッグストアに寄って店内通路を歩きかけた時,青年ひとり先にみえた。その時なんでか陰険そうな心象が遇った。ところが,その“陰険そうな”客は急に歩きだしてこちらの前によぎりかけた瞬間,偶然身体の当たりそうな出方になったのを“ すいません ”と自ら頭を下げるような口調で言った。私はハッとなった。-予め“陰険なもの”をみたような心象が遇った? 先日まで男子数人組や女子2人歩きの口調-笑いなどに不躾な不審な者たちだと疑ったことは度々遇ったが( 年齢とともに“若い子たち”の型通りな喋り方や変に時代にも変わりの無いかのような不良っぽい言葉などに,あたかも動物の“人間ぶり”をみた-という., )
まるで私がそこに投影していながら相変わらず向うの何かだと思い込んでいる。こちらの何かだ-と言うべきだったろうか?
あたかも- だが-だが,私は“相手”にいうことをやめた。
[ 投影-投射に反応しては不審な言動を仕掛けるものが? --私は度々ことある毎に記した,それらの記録.,“夢”の悪意であったかのごとくに-? 私の代わりに悪い者たちが先に消えていったのだと思うこと-は,楽天的であった。 他者に“期待する”無意味なスリープネスの世界でもあった。]

完全な個人原理だとして,“他者や動物”は私に直接心的影響できない( -だから,私が“外的な-”という場合には,それが私の投影か分離した像だということになる。)そもそも“外在”とは概念と観念的事物であって,本当に客体的に知ることは不可だ。逆に言えば,もしテレパシーのような関係が普通にあるとしたら,初めから“一個人”という単位こそ幻想か妄念上のものだ( “合成された部品等”としての人格-という見方のほうがまだ優しいだろう。)
かつて個人的主張に改革の可能性が偶ったときのように,“私は(すべてを)信じない”と言い,“トップダウン”といったウソを,更に“すべての無為”だった-と,反転しながら帳消しの一点にみようとする。

( 今回からのテーマ:)
身体に対する(自身への)眠り = 失明的な(心的な)眠り

身体的“不明”は夢のかたちであらわれる。

2024-09-08
..もう他といって“自分自身”を云うのは駄夢であった。
昨夜,テレビにチャールズ3世と沿路に寄ったかの観客たちがキャーキャー声を上げながら一言ずつあいさつしたりカメラを向けたりするようなところが(ドキュメンタリー番組の一場面)映っていた。私はそこに自身を写さなかったからか,不思議な光景みたようだった。
私には“有名人の顔”といったものは存在しなくなったのだろう。 私は最近の戦争ごとも“代表者”というアイドル化-特別視が帝国的な原因だと思っていた。そんな他の顔をもった先導者がいるとしたら,それこそ私の無意味,おそろしいことでは?
[ 眺めるテレビ,食べる御馳走,-ただ“たべる”ばかりの慣習自体は,想像しない. ]

朝,めずらしく,“入金額の(数字パネル)表示”という夢が遇った。
( スーパーマーケット店内の上昇エスカレーター脇にでもいるかのような屋内で,そのエスカレーターホールの右-側面上に見上げた高さ,数字4桁-5桁が少しずつ変化したようだ。)こちらの傍で“ 今ちょうどあなたにお金が次々振り込まれていますよ ”と,あかるい口調で言いかける声が遇った。
[ ..夢の最中に“うれしさ”を覚えるといったことも殆んど無かったので,久しい-という言い方になる。
その屋内自体は似ていないが,私は昨夜もコーヒーの日付見るためにYに寄ってみた( その前日おはなしは“ 日曜日(新しい日付で買える可能性がある)”と言った。( 通常私の自己予言は )ある特定行為の正確さに因ったというべきだ-が,私はそれが物的に本当かどうか一応チェックしてみたかったのだろう.. 少なくとも数日間そのコーヒーは未補充で,その前回日付パック2個から昨夜1個だけ棚に残されていた。)
その空腹感と,身体的な想像かもしれなかった。]

[ 私はもうニンジンもレタスもトマトも生では食べない.. 未表示 ]
県図書館で音楽CDコーナーに“ トップガン ”が置いてあるのは知っていたが,なんでか“ -マーヴェリック ”の方も-と不図に思った。ヴィヴァルディ演奏のスークとヴルチェクに拠る“ 2つのヴァイオリンのための協奏曲集 ”とても上手くて音質も反響部分の深く感じられたがきれいでよかった。 “ トップガン-マーヴェリック ”CD表紙にはF18の夕暮れとトムクルーズ-? なんでかその顔は正面向きの筈なのに跡形も無く,二度とは目に映らなかった。 昔“ たそがれ ”という語を初めて読んだ刻みたい( 時間の無い. ) -ガガさんの歌がかかったところで( 私はちょうど借りてきた図書“ 日本の有毒植物 ”を開き見ていて )“ アリルイソチオシアネート ”という語を読んだ。
同時に借りたCD2枚は,“ スターウォーズ エピソード1 ”再度と,ヴィヴァルディ-フルート曲集( 未聴の一枚。“ ごしきひわ ”と言うと,以前レンブラントか誰の絵画だったか壁際に繋がれた小鳥が描かれた表紙でのうまいCDが遇って,音色も優しかった。Janet See ? )あらためて“ ファントムメナス ”の音楽は如何にも賛美歌のように聴こえて,先ずあの対決的なイメージに無い方がきれいに聴けたのだろうな-と思った(“ 理力 ”というよりは,ある論理-といったべきか? )
県図書館と言えば,あの前面歩道上に堀の方へと雑草等を視たところ,以前一度も目に入らなかったイラクサ科の葉の特徴が図鑑写真よりも大きめに遇った。そのとき名称を失念してあとでもう一度図書に照合しては,“そう,これ,カラムシ”と言った案配。

私は一度もその自生のむこうへ(暗がりもなく)振り向きみようとしなかった。

..日曜日,Yに再び寄ってみたが更新は無く( おはなしは今度“ 14日になる ”などと言った. )私は待たないと決めてVに向かった。以前その店に“ ちょっと贅沢な- ”モカブレンド-ドリップバッグ等の小パックが200円ちょっとで置かれていたからだ。 例のモダンブレンドは(インスタント“ 30杯分,エチオピア又はブラジル又は- ”表記の物)400円程に値上がりされていた。これらも日付的には?が付く。特定インスタントラーメンの日付がいつ新しくなるのか-という問題と同じく,いつも買う側は妥協点か他商品への変更をやむなくされる。
私はあの思い入れをもたなかった。 セルフレジのしつこい自動音声に口文句なんか言いつつ通路側へと出るあいだに,その辺にいた従業員女子たちが( このときにも,あの青年にも,私は一度も顔相を視てはいなかったが )一々“面倒そうな”心象と遇った。 セルフレジ対応の従業員がお客に一々作法を言わない場合も度々だが,先日同様,やはり投影の問題だ--と私は思った。

毎日“渋面”で過ごさないようにしていたら両目まわりはリフトアップするかのように垂れ下がらなくなる.
“満たされた生活”は恐らくも人を老化させる.

その状況では私自体の面倒臭かっただから“逆”の見方も無かったとは言える。 -“私”自身に同一していない観察者だったとしたら,ここであろうと“だれか”であろうと(その理由自身であるかどうだったかに関わり無く)面倒臭そうと評したに違いない。 やはり“人物的”であったには違いないのだが(-“表面人物的”?)
先ほどY店内に歩きかけたときには私はその場で昨朝のあの夢イメージをエスカレーター際あの視覚アングルでみたように意識的であったものの,Vではもうそれとは意とならなかった。もし-潜在的にその場の状況自体よりも夢-注意が優先できていたなら,わたしこそ“残念”とは言わない-阻害した側だった。 -だから“面倒な”という訴えに変わったのだとしたら,その感情的自体のまちがい無駄だ。

連繋カテゴリー; 投影(夢-反転),投影(イメージ)

2024-09-10:
他に依拠していないということ。[ ページ:夢見の理論

[ ..私が最後に借りて聴いたヴィヴァルディ関連のCDは.. 未表示 ] また,哀愁ね..
偶然という-と,日曜日に“ スターウォーズ-エピソード1 ”再び借りようかと棚にみていた時に,以前そこで借りたヴァンゲリスの映画音楽テーマ集との印象と実際に私の指をその一枚に止めたのだが.,今更あの“ラヴ-テーマ”という感想の仕方でもなく,また“ インタヴューウィズヴァンパイア ”?新しいものも無かった。もしや-スコセジ版“ 沈黙 ”も? その日私はテレビ番組表には殆んどチェックしていなかったので,その夜“ -2049 ”放映されていたのも偶然のようだった( “ある少年自体の記憶”に関する一節は( “夢”の心理的にみたとしたら興味深いお話だったものの, )私は“レイチェル”に関してはデッカードからの回想によるひと言に留めておけばあの絵あたかも観客向けみたいに使うべきではない-と思った(あの直後ピストル撃たれたりしたのもなにか綴り替えったみたいな変な印象だった。))
..あのCDと“リ”-“ル”の棚には,“ ルーツ ”のタイトル,クインシージョーンズの名があった。
“ リトルロマンス(A Little Romance)”聴いてみて,特に“ バースデイ パーティ ”という曲に,“短命”を思った。だれもしらなかったゆめかのように。

2024-09-12:
感化しているすべて( この夢見点以外. )

-右側から“もれ”だしていた?

- 夢見の起こらない“ねむり”は自己催眠に因るものだ-という見方。

2024-09-13:
夢に包含されている.

2024-09-14:
昨夕“ 感化 ”“ 気力 ”カテゴリー等を付け足したときに,
私は“力”というワードには適当ではないと思い,“ 気体 ”では?と思い直してみた。
(“ もれ ”-“ 感化 ”-“ センシング ”といった受動態との問題は出ている- 返っても,自己憑依のことでもあった-が., )
昨日までの自記メモに“ 気力(気体)”ではどうか-と書き足してみたところ,動機的な“ 気力 ”というワード,“ 気体 ”とは(夢の)ものであるとおもえた。 もし-すでに“気体”存在しているとしたなら,仮にベクトルの時間-勢力的な線としてしるせるとしても,表現環境(より,あるいは次項の)名詞的要法ばかりになってしまう。 これでは(それに)変わる. たとえて言うと,肉体健康のために運動する,星の放射を観察する-といった言い回し, 回転率-?

..右肩-上腕の付け根に張らないで( 以前-右脚にそうしようとこころみたように, )ゆるめてみた。かつてに反転-委譲され,“偶像”と排他的に変わっていた一因の部分であろう。
( もし-実際に, )その部分がリラックスしていたら“傷つく”といったことが本当にあるのだろうか? むしろ,これは事故率の問題かもしれなかった( 身体には緊張できないゆえの-? ) それとも- なんらかの原形が作用していたのかもしれない.

2024-09-16:
..このまえ(09-10,未表示日記として)“ リトルロマンス ”CDに聴いてみてそのうちの一曲に“短命”と思ったのを書いた。
そのとき私は理由を考えつかなかった。
今また夜中,最初から聴き直してみて( そのあいだ,ある昔の知人について不愉快なこととして半ば睡みのように想いおこしながら, )再度“ 欲求のために寿命を縮めることは無い ”と言い添えた。
その瞬間,ちょうどあのピアノ曲“ バースデイ パーティ ”- 無論私はその曲の初めに合わせて言ったのではなかった。-が,まさにぴったり一瞬だったので,これがこのまえの“ 短命 ”の意味だ!-と( その言い方が先から表れていたのだろう-と )おもった。つまり,“自己予知”の一種だったというわけだ。
【 私がこの数日間に気づいていた点としては,あたかも私は“想いおこし”としてそのように記憶上のなにかを自動的に問題視したような積もりでいたのに,それが(逆に)その直後かあとの不意にテレビや図書または音楽などの偶然何かから綴り替えに変わっていた--と思える点であった。 このような場合にはあの“短命”の言い方とは逆の順序だ。 あれの単語として遇った原因が(見えない未来での)自動的な想起自体にあったとは?
私の以前“ 予知-? ”と記していた頃には( 私の換起的なワード化として敢えて自己ニュース予言を記してみたりした。 おそらく,当時ウクライナ状勢での困窮と観念的に印象化される状況などが常に遇ったので, )ある強い印象が過去に伝わりうったのだろう-という意味合いで“ 未来からの影響 ”であると言った。 -だが,今回そのような思い入れの関与は無い。】
今回これの私が意図も理由も持たずに“思いつき”として思ったと思っていることの話題きっかけ自体は無関係な未来のワードからであって,私の主体性ではない。 なぜなら,それら自体が( どの時点かは予め不明な )先であるから。
..一見なんでもない“思いつき”の元と私の今-現在ではないのであったら,未来へと辿ることは不可能な限り,見逃し不注意となる。

関連カテゴリー: 偶然., 偶然.,+

2024-09-18: 幻の世界-観,宇宙的ウソ-?
今夕のワードは,多分“ お待たせしません(無言で)”だった。 図書館の係やスーパーマーケットのレジ係に反転していたのだろう( 殆んど“私”の方には見ないか-お客には無視しているようだった。)おはなし側は,例に彼らが私のヒストリーをセンシングしたことがあったので“知らない”振りをしたのだとみなした-が.,それならそれで地球上も現在も私ひとりのウソだったという世界になってしまう( 私が単に懸念を持ったのでその“相手”が長らく難癖をつけられた-というような,一々事情的な連関に過ぎなかったとしても, 彼らは個々ではなく既にニセモノだったのかもしれない. 彼らは,わたしは,気づけるか?
..私は“踊る小鳥”という語を二度とは信じなかった。)
昨日,数日間のあいだに,路上(私は自転車で通り行くだけだが,)時折婦人その連れの者たちか子供たちと一緒にいながらそこで発した笑い声が(その時々の,どれも)まったく同じ笑い方のようだった。私からの具体性は無いので分からないが,一々なにかに反応しているのだろうか?という問いは起こった。あるいは,最近なんでか10代くらいの女子“ながらスマホ”自転車が目につくのと同じで,ある一般的傾向かもしれないものの, それらも同一源の“オバサン癖”かもしれない。
私は既に述べたように感情的反応には汲しないので,ただ“傾向”データとして記した。これら記録が私の理心を読みとくけいとなるか,今わからないからだ。 [ 消私と月世界 ]

“小鳥”と私 :2024-06-21, / 身体的意と( 一致,遇然 )