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睡夢

2024-02-24:
幾つか普通に見過ごされた睡眠-夢のあとで,常に夢に遅れている-後悔した( -私は? )“ 夢だ ”は当面の第一であったのに,なんでか最優先のものから忘れられている。
..何かトルコ人の公開された施設内で,案内役の男性に説明しなければならないところだった( その通路側に対して開かれた仕切りの一室は観察用の囲いみたいな形で,あとで想えば動物園の飼育を視るための室のようでもあった。)その仕切られた側には,白い食用のパンのような物がこちら向きに開かれた形で( そこでは思い付かなかったが,その中身はザクロ-イチジクの実に開いてみたかのような種子状の連なりが遇った。)
私はその夢にも“遅れた”が,何度も(続けて)間に合わなかったので特に可能性が必要だった。“眠り”の最後に漸く“夢だ!”を近づけたものの,ほぼ終りと同時だった。

2024-02-25:
私の経験から言えば,“僕”と称するものは,吸収型(受け型)であった。私は“神の僕”でも“公僕”でもないから,一見解的には“私-先生”という逆接に依っていた。たとえに誰かに“ワル”だと言ったりする,あるいは“ワルキューリ”と言っても同じこと。そう言えば,一昨年だったか,私は日本の首相名を言う時になんでか“タケダ首相”と発音していた。2020年代ではなく(なんの連関か私は憶い出せないが,“おはなし”によれば)1920年代のこと-?[ “ウクライナ粉争”に加味して私の“予言”的な連関として書きだしたときに,未だ私のそれ自身であることにあきらめてはいなかった( だからこそ,時々の印象-観念的な持ちベーションに拠って,それらが過去に伝播していたのかもしれない- 私自身なにも過去の私に向かって一々“これを教えておこう”と言ったわけではないから。
例えば,-あのインスタントコーヒーの次回更新される日を当てようとして“28日”と聞いたものの,私は“おはなし”に受けなくなっていたので,信じなかった。
“U国のZ氏はワルだ”といった不意な心象のように,(以前,あるアニメ制作会社が焼かれた事件の報道された時に,私は何かその被害者側というよりも非常にむかつくようなそのスタジオ側への怒りをおぼえたので,戸惑った。その亡くなった者たちの顔写真をみても即-憤りのような感情だった。私は直情的な誤解を持たれたくなかったのでここにも書かなかった。当時の私は“物真似ごとを仕事といって稼ぐ集団”への徹底的な嫌悪だろうか?と,私なりの理由を付けてみようとしたが,判らなかった。)私は“社会的に捉える習慣”からではなく,最初に完全な自己還元の原因として視るべきだったのだろう。すべては写真であり,メタファーか無関心のどちらかに違いないからだ。)]
私は主体性の(-自身の“他”を持たない)生き方のためなら“自分”というものに依拠する記憶性-イメージからの問題を一切やめてもいいと思っていた。

誰か-?というメタファを超えることは無いわけだ( 私がここで述べたひとつは,特徴的な“それら”どれも自己ヴァリエーションに過ぎないと,最初にあきらめてはいけない可能性.. “自分-自身”というマスターBを呼んだわけだから,永久の身体は最早ありえない.,といった点だった. それでも“大喰いカレーライス”よりは消極的だと言われない? )

..風呂場に入りかけたところ,その内側にあの見慣れた紫色がかった古びた薄セーター姿の背中が遇った( その真ん中あたり,ほころびた破れ目のようにみえる。)言葉は無かったが,私は“ああ..”と言いかけたように見つめた。“その男”のゆっくり右側こちらへと振り向いた顔は,うっすら微笑んでいた。..
[ その直前の記憶は無い.,私が意識的に見れたのは( 見かけたところで )“私自身”の姿だと判ったからだろう( こちらの目線よりも少し高くみえたようだ。)
“薄セーター”というのは私が普段着用しているもので,かなり古びてはいるが,背中部分にほころびは無いので不思議だ( このまえ両袖は裂けていたので縫い合わせてみた。あの“ほころび”の印象は私の自転車時に実際に着用していた毛糸手袋の部分に似ている。それらも昨夜までに雨など染みたり汚れたので,洗濯あと乾かしていた。)
確かに“私”の顔だったのだ-と思う。-だが,こちら自身に笑いかけるだろうか( 夢の側が? )なぜお風呂場だったのだろう? ]

2027-02-27:
..私は何かに注意関心の向かっている際には条件付けされた“夢”みるという題に戻るのも容易だった。“反対”であることは注意喚起し易い。顧慮しない中心が在ればよいのだが,ある自身のこと思い込んだりしているあいだ,ロボットになる。与えられたエネルギーと与えられた“課題”によって何か動作するが,その最中それとは無関係なプログラムを対称的-対立的に憶い起こすことは通常ありえない。

昨日,両目蓋を閉じたときにみえる幾何学的パターン自体に,なにかの形状から次第にコピーされ増えたかのように( ある記憶残像なのか? )それによって覆われた-と見た。

久しぶりに,“夢だ”のための条件的再起メモしてみた;

自身の動-静に(夢だ-の)条件とする。

(あらかじめ)-自身に注意つける。

2024-02-29: “取り敢えず”の法
慢足感に依存する者はどうしなくても肥えやすく,なんにしても抵抗感についていれば,それ自体に呑まれる危険は無かった。以前日記に“ 酒場放浪記 ”というテレビ番組の様子に飲み客たちの顔つやが良かったのを印象的と書いたことが遇った。そのとき,お酒の魅惑ではなく抵抗値の方が優秀なのかもしれない..と私は思った( “依存”だとしたら,楽しくないか無自覚症状というべきでは? 呑まれている,喰われている-といったように.. )
[ 仮に“街の子たちのバカ笑いを取り締まる!”といったら,それが激化したのである( あれら自体のベクトルや“介入”と信じ込まれるような綴り替えを理解していないから-という見方も当面可能だ-が,水面に写ったものに踏み入れば単に波紋は広がっていくのみ.. それゆえの自認した劇場という本質的行為ではない. )]
-だが,呑んだり喰ったりのあいだ,呑んだり喰ったりの基礎的条件でないとしたら,“テレビ? ああ,夢だ!”と言ったりもしない。“食”にも否定するかわからないが,食いつくのみなら“食いつく”自体の夢ではない- 夢では無い。

2024-03-01: 飲むざくろ酢,見る水中花.
..私の未だ値段-日付チェックしていないスーパーマーケット含めて常時通っていなかった何店かを最短ルートで見にいければ-と,データ不備で行き帰りの不便になった場合の想定も( あるところで見比べに代替のコーヒー1袋買うかどうかの判断, )例のベリーサラダなどどうなっているのか,自転車を動かしかけた。その最初にすぐ近くのアピタで,なんと214(213)円,しかも3.24日付が遇ったので即買った。2月ぶりに戻った..(先週?ピアゴ黒川であのコントレックスのボトルが214円で売られているのをみたので,もしまたカルシウム補助に使うことがあったら,ここだな!と思った[ ..後日あの近所アピタでも同じ値段だったので,あっ,ユニー系だからか?と,また早合点のように思った。])
そのあと2店目に,今日改装オープンしたfeelでも同じ値段だった?( 私は最近使っていたもち麦にブレンドできるような雑穀のパックを探していたら,そこに“ 二十八穀 ”というのが一品遇った。品目多めの雑穀ものは100g当りの食物繊維量表示では単品目よりも低い値に弱められるのかしらないが,その“ 二十八穀 ”はちょっと多めに表示されていた。それも約500円。)
例の“ 芳醇な香りのインスタントコーヒー ”は5月期限付が売り切れるまで棚に放っておかれるのか-と思いながら再びマックスVに覗いてみたら,今日逆に5月付がいっぱいに補充されていた[ 後日,バロー車道店にAGF“エチオピア又は-”と書かれてあるインスタントものの一袋30杯分が置かれてあったので,一応チェックしておき(“芳醇な-”に関してはAGF鈴鹿が工場だと書かれてあった,)あとで緑豆と一緒にそこで買ってみた。その“贅沢な-”の方は,似た味もあるが最初に少しなめらかな味というか感触だった。]アルビスすぐ近くのそのマックスVには野菜コーナーに県内産の少し置かれている専用棚が遇って,先週,かなり濃そうな赤紫キャベツみたいな玉2つ見かけた。そのあと数夜のあいだにその一玉は売れ残っていたのか,表面一部分に灰色カビのようなものが生じたひどそうな状態にも関わりないのか,値札は変わらなかった。今夕そこに一袋だけ,菜の花の蕾みたいな形が黄色く開きかけた,暗い紫色の茎と緑色の葉に,“ こうさいたい ”という名の書かれた植物が遇った。ちょうど見た目にアントシアニン系の色合いと匂いに飢えた者のように,84円で買った( あとで間隔のコーヒーに浮かべてみたら,暗い面にその紫と緑とで何か久しぶりに撮りたくなるような,きれいな印象だった。かじってもおいしかった。)
“私”にとってこのような個人性であることは実際には簡単だった。どこにも,もう“彼ら”は来なかった。

私は“受け身”だった右半身を未来化する

2024-04-20:
..もし“夢”やイメージの類いが自分自身という“もれ”なのだとしたら.. 通常の“夢”は無駄への想起と同じことで,浪費に過ぎる。一言,“気を失った”に過ぎる。“好き嫌い”という慣用句に依って,あたかもそれらに“わたし”主体であるかのように(-子ども時代から)おもい込まれている- ある与えられた方向性に依って(わたしの望みとして)受容する-しない以前に,それの主体は“独自のもの”に存在し,それぞれの名前-それぞれの価値という幻想で呼び慣わされている. 仮に人や物の名前で呼ぶことには分離されたそのような対象物としての“自分”本意だった-という見方であったら.. “夢”に過ぎなかった-と。
あらゆる愁い,ゆううつさ,肩入れ(だれなに応援?)-そしり,物音,ファニー,演偽,非判,共同-..

夕刊の明日
このまえ,バロー車道店という名称と書いたことが偶ったので,補足しておかなければいけない自記のゆえんが遇った。その店は4月1日-16日まで“改装”休業していた。私は以前そこで時間半額の海藻やインスタントコーヒーと緑豆一袋ずつ買ったりした( ちょうど図書館との行き来に通る筋道だった。)
3月最後の週,私はその商品等の残り少なくなった棚に一袋だけあの緑豆が半額で置かれてあるのをみた(その袋の日付は同じだった。)私が必要としていた“ ちょっと贅沢な-”AGFの30杯分一袋のコーヒーは(私が前回日記に書いた直後)すでに無くなっていたようだ( 光音寺店で当時ちょうどスペシャルブレンドとそのモダンブレンドが300円になっていた。)
私はその日160円使えなかったので,残念ながらその場で買えなかった。常識的には即売り切れる筈だが,しかし,翌日でもそれをゲットできるだろうという妙な安心感みたいなものもあった。
次に私が寄ってみたとき,その殆んど空いた棚の前に中国語で話していたのか男子2人がなんでか海苔などをみていたようだが,私は即あの緑豆の袋を持って買い足した( 私は1日20gも摂らないので,次回そこで手に入らないとしても,激安スーパーかどこかの情報をゲットできると思った。[ “おすしパック”などは最近どのスーパーマーケットでも例えば乾いたエビが小さい握りに乗っているだけといった型ばかり慣用-? 昔私はナゴヤドーム前イオンで少し大きめネタ-シャリの物を1パックずつ選ぶのが好かった( 当時うちの両親はウナギの蒲焼きといえば国産の干からびたようなものだけを良いみたいに言っていたが,私は“中国産”脂ののったやや大ぶりの身を1000円前後で選んでいた。)ごく最近覗いてみた限りでは,アピタ新守山店のユーストアに出ていたおすしパックが辛うじてその頃を想わせる,比較的に新鮮そうな印象だった。])
さて,今月17日の夕方過ぎ,私はあの図書館方向へと出かけるまえに,あの車道店に関して,“(そこには)もうお母さん方は通えない. ”と-おはなし言った。私は例のようにそのおはなしには重視しなかった。帰り道に覗いてみた処,先ず入り口すぐ野菜等値段に,一瞬であきらめざるをえなかった。まるですべてが高額に一新されたにも関わり無いかのように,若いスーツ姿の男子や外国語の女子2人などが一々なにか買えるものみたいにみている様子は,非常に奇妙だった。 あとで思ったには,たぶん観光客向けのアナウンスがされていたのか,歩きでその店との帰り道以外に寄れないお客たちなのだろうか-?
先の私へのおはなしは,ある意味,久しぶりに当たってはいた。“ぜんぶが若いひとたち向けになる..”という予言のようでも遇ったからだ。 -だが,それも,昔“ヒトラー予言”といっていた時のように,一体なにを表現していた? 私はもう何年間も非難がましく言わなかった-が,私自身への同一的な態度であったと言うべきだ。
( さっき,おはなしはこの件について“ セドリックのCMみたいだ ”?“ スリザリンのひとかな ”などと言った。..食に関する“ぜいたく”という連想からか,“ ゴッドファーザー ”シリーズに,アルパチーノ演じたあの男が教会の中庭かどこかでそこの関係者に相談しかけたところ-急に低血糖でと倒れそうになりながら“ 甘いお菓子かオレンジジュースを.. ”と頼んでもぐもぐ喰らってはすぐに落ち着いた顔をしているといった,あの場面のイメージが遇った。)

( 関連話題からの次頁;)駄為 :2024-04-21,

2024-03-06:
(あとの傷が)先に(まえに)あらわれていた?