理論的に予測する(続)

2022-04-30: 理論的に予測する10

A. 今朝ちょうど(予測されなかった,ある“夢”との行動について,)考えさせられる機会ができた。 ..白っぽい印象の町内みたいに,小さく平行したような,通り道の幾つか。不図こちらからみた向こう通り道に,(こちらとは逆進行に歩いていく姿2つ,)黒っぽい服装,ひとりがその後ろに老婆の片手を引いているかのように小太りの婦人を連れて歩いていた。一瞬その姿がみえた直後,急に(わたしは)“見られないようにして迂回しなければいけない.” -そこで,こちらから素早く移動しかけたが,なにか反対に“それではこちらが気付かれ易くなってしまう”という危ぶみで(どうしたらいいのか?)それなら小さな通りに逃げ回るよりも,上へと飛び上がればいい! (わたしはジャンプして)その上から視たような様子が一瞬みえた。
(その場では“夢”に際する明瞭な宣言が起こらなかった.)それでも,こちらとの意識として少なくとも“これは夢の最中なのだから”と認識されていたのでなければ(自らその“町”を消してしまおう,-どうすれば? それとも先ず跳び上がってその状況自体から逃れよう!とは)しなかっただろう。だが,このような心理的反応や行動には,そのような状況か感覚との何らかの記憶だった,という見方以外に無い。意識的セットではなくても,プログラムされた,パターンのようなものかもしれない。
Q. 仮に,そういう型通りだとしたら,ある夢場面とのまったく同じ状況では(それらが繰り返されても)同一反応になるだろう。ある夢のすべてを包括した状態に過ぎないので,それの状態に置かれているものはそれ自体を変えることはできない?
A. ある状態-論.. “明晰夢ありえない”といったも同じだ。..もし,“ドーナツはドーナツ自体の形態を変えないだろう”といったように,見込みとして言うなら..
Q. たとえばわたしは“ドーナツ”自体でありたいからそれの型を変えたり消したりはできない,という依拠の問題である,と?
A. “町”に依存したとしたら,それ自身の何なのかを見ようとはしなかっただろう。今回も“夢”に対する手前の注意が先行していなかったので,(わたしが)“その町内通り”をやめたいと思ったとしても,(そこに“ドーナツ”が置かれていたとしても,他のなにかではなかったように,)それ自体になにかできるとも思わなかったのだろう。
“歩きと手を引かれて行く者”..弱った一方の象徴だったか,偶々こちらの行動性との対称として表れた補償的な姿だった,という見方もできる。
Q. “狭い町内通りに逃げ回る”..
A. いや,今回“狭い”とは言わなかった。ただ“白っぽい小さな通り”だった。
Q. 住宅がアパートメントの分離性であり,それだから単体という対称が存在した,という見方ででは?
A. その場での(物理的な,否応無しの状況との)相として,もし,こちらから家々や人々が変しいような気分だったとしたら,先ず無人の相ではなかっただろう。むしろ,そこに人影が表れたのだとしたら,不安や杞憂の問題,-何の?だった。私は通例の関係性には無駄だといい,(ここ以外には存在しない,)“ソラリス”のような問題だと思った。あの男は“彼女”の自動的な再生かのように表れたものを始末しようとするが,そのヴェクター自体には致し方無かった。
Q. ヴェクター! ..でも,あれは記憶自体との問題では? 脳の機能として,本来コンピューターはオペレーターの任意-呼び出しに応じて特定記憶それというだけだが,なんでか連想や自動的な合成のような“間違い”が混雑する。
A. それらにも(私の意図ではなくても)何らかのフレームがあったのだろう。だれかが身体動作に関する結線を一方的に繋ぎ変えたら,手の代わりに足が動いた!というようなこととは違う。あれらが無意味だったなら,なぜ保持される? 脳に対して私の自由に特定内容だけを消去したりできなかったからか?
Q. 小鳥のように“歌う”よりはいい。[ 映画と言えば,昔..あの一場面に遇ったのと違うかな? ..ある男が(そこは普通の“街”だったのが,どういう経緯だったか?)その“外側”へと放り出されてしまったかのように,初めてその“街”の外観的な姿を宙空から視た..という絵だった。 ]
もし“夢”場面の状況で,跳び上がったり浮遊飛行したりの未経験だったとしても,そのような疑似的アイテムが既に存在したなら,依拠するだけで可能だったのかもしれない。
A. 身体性のフィードバックというといった意味では(“夢のドーナツ空間”も)可能かも。..だが,彼はその街上空へとスーパーマンのように飛んだのではなかった。あの夢の場合も,(夢でのわたしは)避けがちなもののように跳ね上がったので,上から“眺めたい”とはいわなかった。
Q. それが記憶された情動かなにかとのパターンだったのなら,映画のたとえこそ連想だった。しかしも,逃げようとしたんじゃない。“町”そこで消してしまったらその場面自体に依拠できなかったわけだから,単に“そこに見よう”とした。..そこに居られなかったのでは?
A. [ 仮にあの夢場面があの映画場面との形だったのなら,その場になにかそれとの関連が表れた筈だ。 ]
その質問は,あの夢での不明な“夢だ”という意識が,どの“時点”で起こったのかが(私には)わからなかったのタームとも関連している。あの“ジャンプ”しなければならなかった瞬間,なぜ“小さな町内通りに駆け抜ける”は不可能だった。
(つづく)

2022-05-02: 理論的に予測する11

Q. まえに,意との“憶い出そうとする”については夢見のための条件点け可能だといった。
A. なにかしようとするとき,しようとする自体は“条件”に左右されない。しようとするだけで,(ことが以前の記憶に依った繰り返しか,なにか他事とのメタファーかどうか-問われなくても,)“受け”にはならないだろう。だから,‘意と’の動機として利用可能だ。
[ 私は一般的なNLPに関して読む以前から‘アンカー設定する’と書いていたが,“アンカーリング”という特定用語みたいに称するのは読者にとって抵抗が遇ったりでは個人的な試み自体に難しくしてしまうだろう(という配慮もあり)なるべく私自身の自然な語だけで記すようにした。だが,そのような偶然でなければ,“変な用語”の類いは時前に表れていた場合も遇った。個人と自己的体験とは理性的に見分けられるべきだ。 ]
Q. “憶い出された”には自覚への条件化されていなかった。“なにが憶い出されたか?”といった内容別的な見い出しに固執しなければ,自覚条件-点けは可能?
A. 先週,寝床で久しぶりに毛布の被った“ぬくもり”が感じられた。それで,体温の所為だろうか,なにか心理的な再整理があったのだろうか,不思議だった。そのあと偶々読んでみた科学系の記事に,“愛着の心理学”というページが遇った。幼児期の養育者との経験に因って,主に,満たされている“安定型,” 突き放された“回避型,” 満たされるとは限らない“不安型,” そして,傷つけられた“恐れ/回避型”とに分類されていた,と。その記事は“所有物への(疑似的)愛着度”に関して,その条件などが簡単に書かれてあった。
Q. “パパ!ママ?”と言わなければいけなかったから? ..問題以前に,なにかリフレクションが必要だったという意味合いではそう言ったかもしれないが.. 今そのようなメタとの関係性として言うのでは無いよ。
A. すべては身体性だ,といえば,対立的なものとして逆接的に重要視するような“処置”にはならないだろう。..詰まり,“なにがなにを憶い出した”といった言い分けではなく,生理的な反応のように(ある目的にとってはまったく無意味だったと,)先ず夢見のための自覚に利用できればいい。憶い出される”という言い方は対象的すぎる。
Q. 逆に,“憶い出そうとする”自体が,最初から不可能だった,という見方では?
A. 若いときには体の生理的な刺激などに反応しているが,抵抗的な注意に拠るポテンシーが高まれば“現象化”するだろう。欲求未満に乗って本能的同一しているのでなければ,大抵“憶い出させられる”のであって,理性的に自任しようという方向では苦労するわけだ。
Q. 見たいの欲望,本能的な衝動との,“私は見ようとしている”という現在設定の可能性。
A. 見たい!という欲求や衝動は存在する-としたら..
Q. でも“私”として言うとしたら,隠喩の逆かも?
A. 同一性の問題。だが,“ここにある個体”といえば,必ず“総体”ある。原動-自体であるを否定してみれば“自由のひとつ”にとっての“そうしよワーカー”に分解する。そこには“(わたしが)したいのか?”という尋ねも無い。“部分が全体に影響する(置き換わる)”といった見方は何も矛盾しない,なぜなら“部分”も“全体”もミタメニ,ミタニミー?(metonymy)それ自体という隠喩に過ぎなかった。
A. 基本的には何も“自身”以外には存在しなくて,今このわたしのみているかのような世界は幻覚なんだ,だれもかれもわたし自身のように言ったり振る舞ったりするだけで,何も無かった。“人々”が言うような話は何も実相じゃなくて,世界も,宇宙も,嘘で,これはわたしひとりきりでみている夢のようなものに過ぎなかったんだ....
Q. 起きているためには眠らなければいけなかった。主体のための定義なら,下らない方がいいね。
A. それだが,特徴的ではない。記憶-情景的な絵ではなかった。そこから“脱出”するという意味合いからではなかったのだから,それは反転した現出だと見られるべきだった。
A. “私は-しようとしている”は非-理性的だ。時制的にみても不可能だ。
Q. 記憶(何らかしようの意図)からの,相対的な時間のものであるとしてみれば..
A. 記憶は記憶だが,私は夢見に際して“私のリメンバーリング”とは言わなかった。普通夢の始まりや最中に“さあ,私は憶い出そうとしている”とは一度もいわなかったわけだから,少なくとも“私の”意識上保持されてはいなかった。
Q. 要するに,どうしなくてもしなければいけなくなるようなことに,相当する,夢見の必然性という切迫したなには未だに無いので,起こらない。理性的自任と生物未満(衝動)とはパーツであって,明晰夢見という目的の論拠がそこに組み込まれていなかったのなら,どうやってそれ自体に発現させようか?
“白い町”は反映物(あるいは合成物)の一種であったから,それ自体からの距離的な“離脱”という形は有り得なかったのだろう。
[ その点,先ず火星のような大地から発進する“宇宙××”アニメには,ある種の元型的な処が遇った。あの砂漠化した惑星から始まる“スター×ォーズ IV”にもそのような導入が遇った。数年後Aギネスは“タイタニック号”元乗組員役を目立たない老人のように演じた。 ]
A. 例の“白い町”は象徴物だった(あの“老人たち”も。)私のそれとは言わなかったが,それらには何か物理的な限界が遭った(咄嗟にこちらから避けなければいけなかった理由も。)第一に,こちらは通常の移動手段ではなく“歩き”だった。〔 私は最近路上イメージに於いては(通常の身体感覚に似たものといえば)先ず自転車での移動中感覚だけだった。 〕
Q. 身体的代替物?
A. 自転車での動作は主に感覚的だったので(そうでなければ走るばかりの物理的危険だった,)夢想的な要素とはならなかった。“夢”には表れなかったか,身体疑似的な印象としての表れだった。
Q. “身体”という形-態に依っている。“私”という必然性が生まれる/生まれないといったように,“私”という要請もまた逆接だと..
A. 夢の原理であって,根本的に“私の意志”トップだと言ったら,見かけ上のごまかしもしれない。しかし,脳の同期させる(存在認知の,一体的だと思わせるような-)仕組みは最低限であっても,それの少なくとも自律的でなければ生活不可となるようなレヴェル以下には減退しないだろう。
Q. 無意識に..なにかやっていたんだ..,みたいな。
A. そしたら,“水面の境”は水中にも外気にも無い。
Q. では,“意識”は面相だ。
A. なにかに対して無-意識的に拍手をしたり野次を飛ばしたりする者も先ずいないだろう。だが,それらの本質に,もし動物的な習性(-反応性の)というような論じ方だったら..
A. 動物の習性に学ぶ! それらもひとつのメタソードだった。
Q. 我々は飛んでいるボールを問わなかったし..
Q. 世界の情勢に鑑みての無能ぶりを明らかにした..
A. だが,外形に投影された自己論理が,“それら”自身というメタの対称を二重に正当化しているのか。
Q. それは要請ではあるね。“自己論理として正当化されている,何々性的要求,”(二次化された-)マスターリングの夢?
A. “見よう”という要請(見たい-)の反転した表れ。
Q. 反転というからには,対象化された処の夢.. “見ようとする表れ”の夢は研究できない?
A. -それ自身が“こちら”について研究するのでない限り。あれ“鏡”の呼びかけ..といったのはウソで,“鏡”独自に誘惑しない。(夢見のひとについて言われるあれの問題だったように,)ある面は面自体を視れない-
Q. それなら矛盾している( 仮にも,あれが自身を“面自体”だと言ったのなら,外形的だもの. )
A. ..通常,感覚は対象化されないから,確認するためには完全に自閉的でなければならない。こどもは“発達”を要されるが,仮にミラーリングとして構築されたものが“わたしら”であるとしたら,感覚すべてがそれらと連係しているかもしれない。それらはすべて夢のものであって,否応無しに促したり止めたりしたであろう。
Q. 感覚“ヴォリューム絞り”は意識的といった場合も。例えば,“無痛”である状態は自動的な化学作用か,一種のコントロールであったかどうか?
(つづく)

2022-05-10: 理論的に予測する12-未完
A. 私は野球試合には無関心なんだが,テレビ画面にアメリカからの中継だった。偶々その球場内画面の観客席上に女子3人が写されていたが,(私はそういう画像に当たり前に“私ら写ってる!”みたいな指差し笑いだろうと予期したのに,実際にはその3人はその前方に向いたまま)動かなくなった。
Q. ..“よくある二重モニター”視聴者だったのかもしれないし。
A. その直前,私は“(過去形で)今が夢として見られているという意としたので(-その注に拠って‘夢だ’といった)効果だ”という思いつきを持った。
Q. 常に憶い出されている-これ
A. 記憶と言えば,その形だからだ。“あの事”は時無し現在体験されうる,元通りではなかったとしても。
Q. シミュレーションの一種としてなら。しかし,むしろ“現在が(こうして,常に)夢見られている”としてみたら..
A. 過去形に包含しきってしまったら対称的の形にはできなくなる。-“今なにが私を想像しているのか?”
Q. 必ずしも“未来”へと予期する必要は無いか。そうだとしたら,単に時制のどちらかに振り向けてみただけ?
A. ブラックホールに接近してみたとしても,時間自体は解放されない。でも,相対的に増すものがあったら..
Q. 過去にはマスが多い..だけど,既存のそれに因るような必要性も無いだろう。
A. すべては“写されている.”
Q. 常に“過去”に習得しなければならない.. 詰まり,単純に脳内の処理だとみても,記憶としての定着には短期-長期化される何らかのプロセスだというし..(無論,出来事は常に時間的な過去だったとしても,まるで現在に来たか,再起したかのように体験されているのだから。)
A. たとえ再現されていても,(あるヴェクター上にそれとは知られないまま現在の問題として語られるとしたら,)それらは一見なんのことか遡及されないだろう。例えば“携帯電話に依存する方法”といったような見出しが,何重に分解され得るか。
Q. 笑い声か叫び声が遇ったとしても,ここに聴き覚え無かったら,無意味だった?
A. ..道路上で,ある“クラクション”鳴った。前方にいた子は“びっくりした”が,後方にいた子は“呼んでる”と駆け出した。
Q. 無味乾燥の環境条件では何も発達しえない,という見方も遇った。
A. 砂漠の花を見に行く!というひともいなかったからね。
Q. “呼びかけ”の要請は予め反対の原因に因ったという見方が無かった。
A. 受動的な解釈の筋道ができるのは“おそらく抵抗”に遇ったからだろう。
Q. 受動的.. 恣意的な解釈だった,という意味では? たとえば,街路にグラフィックを張ったような者が,-自身? その原因に関して正しく理解しているかどうか。“受動的”だったのなら,あの“不可視の水”といったも同然だ。それは街や張りものである必然とは全く無かったもしれない。
A. さもなければ,“ほかの子を面白がらせる”という,対処的な行き方だとみる向きも遭った。
Q. 呼吸のたとえでいえば“吐気”かな。
A. 但し,(夢見にとっては)単なる“吐気”との抵抗にはならない。
Q. 抵抗力自体の強ければ若くいられるというひとも遇ったよ(あれそれ言わないあいだは..)
A. あの球場が内に画面表示していたかどうか,本当に気がつかなかったんだったら..
Q. 手前画面には“モニターリング”しない方がいいって。
A. “夢”には(それ自体,私に拠って視られているという意識の問いに)無いのだろう。
Q. 夢は視なかった( ‘私’は視られない。 )