理論的に予測する( 私の現実を疑う )

2022-04-19:(続き,改題)理論的に予測する

Q. 要約してみれば,(自動的な)記憶参照のあいだには明晰夢見ができない
A. 夢には必ずメモリー回路との連関はあるだろうが,それらは“いつ,どこで,どうして?”とは尋ねない。-リメンバランス自身は‘私’を知らない。昔“グループにどう言わせるか”という問題に執心したひともいた。だが,いわゆる独立回路的な活動についての査証という領域的な関係者であるとしたら,(それ自身との)強まるか,諦めさせられるような対峙こそ,“悪化”だ-と,収理していなければいけない。
Q. 一度“映画館”脇のフロアで,あなたが以前ユングに関して書いていた,あの-と言われたのではなかった?
A. 見覚え無かったが,私の口調だった。古びた無人の劇場ロビー,その階段上(反対側に警備員姿ひとり,)フロアにいた子どもたち(風船かなにかで遊んでいた,)不意の私の前に表れたその女性,あの台詞。..あるいは“あのファイルの件について”というような,擬人化された質問かもしれないが,その場で的確な質問にならなかったのだから,あの時のと言っても無意味だ。私は今“-ユングが話題とした修道者クラウス,その英訳版がある(私には無い)”とは聞いた。
Q. それもひとつの簡単なヒストリーかもしれなかった。“上映会場”は既に無かったといったのでは?
A. “風船遊びの子どもたち”という象徴はそれに代わるものだといったのだろう。先日(春まえに)私は“赤い風船がDへと飛んでいく”というおはなしを聞いた。その時には思い付かなかったが,ちょうどP大統領がU国との問題としてニュースになった頃か,その本格化されたあとで,不図,あれは“D国内のエネルギー問題(天然ガス)”といった暗示かもしれなかった-と,はっとさせられた。歴史観かもしれないが,幾つかのことが同時にそのようなひとつのメタファーとして表れたのだろう。
Q. やむなく水素ガスで浮かべたので燃えやすいリスクを負ってしまった。
しかし,そうして毎度,ある程度“おはなし”自体に自己本位の方向性を設定できたのだろう,予知か既知か,なにかは問われないとしても。なのに,夢の表れ自体には致し方なかった? ことそれが夢の映像であったら,いつも受け手でいなければいけないという。
A. 聞き取り可能の言葉として口に出して発音するなら(それの絵にするよりも)比較的に易しい。眼では空中に直接(映像)投射できない。
Q. (おはなしが)ある光景について説明しているかのように言ったとしたら,なんらかの視覚的要素が先んじていたかもしれない。それは話し言葉に翻訳されただけなので,視覚的印象の認知外だ,と。
A. 視覚の視界に対して二重に絵を投じたり同時にここに視たいとしたら不便なので,言葉にしたら通常感覚に対して邪魔にはならない。言語化された“能動的想像”といったら。
Q. “喋る”必要性?
A. 予め言語化されていたら記録に留め易いだろうという便利さの都合はあった。夢や想像の視覚的な表れについて,擬似画像に拠って描こうという試みも,本来それらは追認されるような必要性ではなかった(..アーティストの活動そのものが彼の“夢”表現に相当する場合も,)人間としてはそれらが理解されていないから同一または同一否定の“問題”扱いといったわけで。
Q. (“喋り”がために,逆に)“映像”化の機会やエネルギーを費やしてしまった,そんな見方もあったら。
A. “映像”自体に依拠した,夢見の最初の矛盾....。お喋りが物理的な確認作業だとしたら,消費だという。眼は物理的には投射しない。視覚的な印象の類いについてそこに再度投影する必要は無い,が,視覚や聴覚の記憶に依っている。夢はどちらかの“再現”とは限定されない。“喋り”もメタに過ぎる。
Q. “お喋り”は聴覚の記憶でもあるから,自己確認としての同時-相乗性があるというべき?
A. “手をみる”行為の何なのか。自身の“お喋りを聞く”方法が聴覚的な確認作業または何らかといった記憶との参照であるとしたら,視覚的要素としての“手先”にも自己相乗効果の作用点が遇った,というのでは?
Q. その言い方は,偶然に過ぎない。聴覚的な記憶との“お喋り”だとしたら,それらは単に輪転している。
A. 今ここにこうして私の手を動かしてみている。単に記憶の中に巡っているのではなく,少なくとも自在している。能動的であろうとする,これって“ある感覚”?
Q. ここでは自在空間の確証,というべきか。ある“ペンの回し方”は記憶参照だという意見もある。
A. では,記憶参照に条件点けたらいい。例の“夢見の注意力”のひとが述べたには,“(夢の中で,特定のなにかに試すためには)大声で命令しなくても,単になにかを指差すだけでいい.”
Q. そのやり方は方便自身だ,やはり予め‘意図した’その文脈に拠っている。たとえに“光の発生”にステッキと文句が必要だといったような..
A. たしかめなくても,何々ライダー自身といった意味合いでは,そうだ。
Q. 眼は投射しない,って-?
A. これまで“ 今,手が空間投射している ”という質問は無かった。なぜ夢見の文脈自体が設定可能だ-と,予めこうやって信じているといえるのか。
(つづく)

2022-04-27: 理論的に予測する
Q. では,夢見の文脈自体には設定不可能だったという見方が可能かどうか,考えてみよう。
A. 仮にも,なにかとのメタとして夢見という筋道に記録させてみれば,その索に従って憶い出せるかもだろう。
Q. それがこれまで条件点けのやり方だったのでは?
A. 意と‘ 憶い出そうとする ’自体に条件点けたなら,なにか憶い出そうとする度に自動的に‘ 夢だ ’といった。
Q. なぜ憶い出そうとしたらでなければいけない?
A. 夢の(無自覚)最中に“これは夢だ”といいだすためには,“これは夢だ”といえるための条件-判定が必要で,普通-夢にはそのための契機が無い。だから,夢自身は憶い出そうとはしないだろう。
Q. “ぼんやり”とは,意識的な逆接だ,という見方もあったのに?
A. 睡眠同然,‘私’にとって証明できない水面にただ眺めていたように..
Q. でも‘私’といった。
A. “ぼんやり”していたが意識化できるとは限らない。“ぼんやり”は本来の状態かもしれない。
Q. 記憶として蓄積できるのだったら,“これは(すべて)明晰夢だ”という記念-印象として記録してみれば?
A. おまつりごとみたいだ。だが,記憶される条件自体はこれの原因とは違う。記憶されるだけではどうしようも無い,連繋していなければ索にはならない。
Q. 記憶参照に拠って“自転車上-で-ペン回し”できるのように,自動的な“これ-は-夢だ”のできる索が可能である,と?
A. ある種の生理的な発作に関しては直前に脳の活動として表れたり飼い犬の“嗅覚”かなにかで感知されたりがあるという。しかし,常に“うっかりぼんやり”の状態に陥らないためには,自ら予告可能としなければいけない。
Q. ‘憶い出す’自体の憶い出されないのなら,憶い出す必要性も無かった,という。今日コーヒーが遇っても,コーヒー最中にはカレー&連想されなかった。
A. それは“あのコーヒー”ではなかったからだ。
Q. “あのコーヒーが飲みたい”処からは連繋が可能だ,と?
A. ある光景が(偶然に)みえたとしたら,それは何らかの記憶連繋だ。だが,私の意識に無い偶然だったので,それ自動的な“連想”であった。“コーヒー”みかけたらなにかが漠然とおもいだされたようだ,なんだったろう? それはリメンブランスに変わるかもしれないが,未確認,まったく無意味。
Q. ..“のみたい,よみたい,みたい”には,無関連だった?
A. 記憶索引-関連検索という探検の問題とは謂わば反対に,自由な行動が可能だとしたら,一覧表とのサブジェクトなど一切不必要だといっただろう。
ところが,“のみたい,よみたい,みたい”は参照自体でもある(一々に同一化されていなかったら,それについて想起することも無い。)
Q. “見たい”は私の意とではないという見方もあるね。もし本当に‘これは夢だ’と言ってみたかったなら..
A. いや,私は言ってみたかったとはしていない。
Q. “見る”ためには- “見よう”という要求自体のとして,問うてみようか..
A. 私は見なかったと思う。‘見ようとする’としたなら,中心的行為ではあるかもしれないが,擬性的な“見ようとする”には,睡眠状態に下りていく間の(認識可能な)意識性という難しさがある。
Q. -下りていく? 例の,変性意識状態-説だろうか?
A. こちらからの意識に拠って,同時に“注入”し得るという関係があったれば,(トランスエンド自体への観察は)必ず可能となる。“見ようとする”の発生は擬似-性向に因ったのかもしれないが,睡眠自体に取り込まれたら普通夢のように消滅してしまうだから。
Q. いえど,意識自体の的にする.. だが,意識自体の既に浸されているかもしれない,これには抽象的な現状をどう見分けるか? 階段の下りながら(こちらから)その下降との観察し続けようとするであるなら,自前に立ち止まる(下りる階段の途中で留まる)であろう。
A. この足か。もし“記憶への下降”だという予約に基づけるのであったら,自動的ではあっても(常に)これらは不明な記憶に基づいた要望の回路だ,という見方に拠って,あるパターンとの見出しは可能となるかも。
Q. 逆方向から言えば,(あたかも)夢のメタファーが知覚的な要素等を利用したかのような表れのようにみえる点は面白い。
A. 視覚像の,写真的な記憶は外形そのもののように保たれ易い,それら自体ものがたりかヴェクターマップのようになる(私物みたいに一旦印象的にイメージ化されてしまえば,どれも観念画に過ぎないが.)語の綴りなども,純粋に発音として記憶されるのではなく,象形か,象意,時系列的な書き順や配置に依るのでは?
ただ,ある絵として分脈化された関連性のそれ自体として夢に表れるのだとしたら,(あるフレーム自体の存在は)どのようにして夢に再構成し得るのか? それらがなんらかの重要性に因るのなら,それらの自動的な表れに関して,予測できるのでは?
Q. 単純に,“夢の表象”という意味合いでなら,夢-最中にはそれらすべてに解明された試しが無い。もし-も“夢-最中”という認識の無い条件ででは(-すべて外部現実なのだから,)単にそれらが普段の記憶物通りなら,敢えて‘私の意と(これらを)精査してやろう’というような意とは,起こりようが無い。
A. まさに矛盾点,現実の挑戦者というべきだ。私が私物化を断ったが為に,“自由の像”や自覚夢への占有率は次第に無くなりつつあった。先ず“見よう-意と”自体が,絶対の明晰条件からではなかった,というにも..
Q. 先ず,無いね。最初の意見としては,先ず“これ見て! うわっ!”だったのでは?
A. 外部探査という目的だったとしたら(それらの)内的監査とはいわないだろう。“おはなし”は対話の必然性だったのかもしれないが,外部探査との対称性か,内部保持に因る“外在の可能性”に向いている。
Q. まるで,すべての可能性は閉ざされてはいなかった,といったわけだ。だが,“投影”の影響力については,未だにきちんと論じられていない面も遇った。
A. “夢”が私をセンシングする,という認識は無かった(私には。)“夢”の可能性といってこれを論じるとしたら,“すべての可能性”を認めるという意味だが.. たぶん,また“明晰夢きけん”といったワードに代表された問題として,それとも非-対応の,(初めから超克し得るような)解消策が示されたら。
(つづく)