予測をすべてに( 理論化の試み )

2022-04-06: (続き,改題)予測をすべてに( 理論化する )

Q. すべてに際して明晰夢見の実践という前提条件になっていない?
A. 先ず,今,その条件は何で,どう働いているのかを,気が付かなければいけない。-なぜ,いつも“質問”が優先されているのか,を。
Q. 条件的だが,これといった目的も無しに,“ 明晰夢見 ”と言っている。
A. すべては先ず“ 夢のもの ”だと見切られなければならない。私よりも“夢”が先にあり(“時空間”でさえも,)すべてはその論理だ,そこには私が無い。すべてが明晰夢見以外に因っている。だから,これの前提を変える。
Q. 意図が無ければ,これは存在し得ない?
A. なぜ“それ”が存在する? “これ”の前提が“それら”だからか?
Q. これらは感覚的作業ではないのだから,前提的な設定がすべてに優先するのは当然だ,と。
A. 最初の質問は.. 感覚されたものと“記憶参照”との間を,‘ 夢見 ’の条件環境としたのかどうか,という点だった。見慣れた空間などについて言えば,それが記憶の絵なのか現に今こうして視ている純粋な視覚像なのかを(それらと)見分けるのは難しいかもしれない。それだから,逆向きの夢であって,それらに“ 私の夢見 ”存在余地は無い。それに対したとしても,‘ 夢見 ’は感覚的作業ではない。
Q. しかし,ここではそれら物の意味は多少なりとも了解内か,‘ 夢見 ’に拠って明らかになるべきで,“記憶”自体の内容には意味無し,と?
A. 例の‘ 憶い出そうとする ’要件との条件点けなら可能だが,特定の“物”にこだわるのでなければ(それ自体が対象でなければ)無意味だ。
Q. 夢の対象
(つづく)

2022-04-07: 予測をすべてに( 理論化する )
Q. 夢の対象
A. 例えば夢見の実践というワード.. もし,それ本位の主語だという定義だったならば,正しいというべきだが.. それ自身の自由かどうかという点では,98年頃わたしの観念は未だ曖昧だった。ここでの主体は観察者としての視点なのに,“夢”自身の理由に動かされていた(としたら,)“なんでか-わからないが-なんとなく-そうしている-”というような,“ぼんやり”の面になってしまう。..わたしは夢の対象化されている,とは言ったかもしれなかった。
Q. “この実”のたとえで言えば,“あの木”にくっつけてみるのは至難の業だ,と?
A. 普通,“あの木”が自ら“この実”に下がるという言い方は無い。
Q. “あれは-”だった?
A. それだとしても,記憶に因っている。それがいつのどんな記憶か,想起できない問題というだけだ。
Q. だが,“想起する”問題では?
A. どのような要請に拠ってどの関連が呼び出されるのかを決定しているのが何の論理か,今,完全に意識的把握できたとしたら。
Q. しかし,常に全的に繋がらなかったのなら,どうやって“外れた回路”に想起できない。仮に,欠落した,不完全な“私”という認識の下で,把握されていない論理回路がそれ自体のなにかを保っている。
A. “リコール”に応じない? しかし,少なくとも連繋の索は(条件的に)保たれている。それ自体とのなんらかの不通(心理的に回り道?)あるいは,損壊してしまったのでなければ。まるで無作為に(いつでも)ある特定記憶を呼び出せるというのは不可思議な問題だ。
Q. それら自体がそれ自身を判定できるのでなければ,いったいどうやってそれの“パーツ”が可能なのか?
A. 特定語での“検索”に応じるためには,一応(ちょっとずつでも)すべてが連繋していなければならない。だが,ここでの要件はこれは明晰夢見であるであって,これが記憶的な(常的な)中心のポジションとして機能することだ。
Q. “検索”は目的ではなくサブジェクトでは? 夢見の(実践的)現場での。
(つづく)

2022-04-09: 予測をすべてに( 理論化する )
A. 明晰夢見視点で探索する。
Q. しかし,視る為だといい,ある空間時間をそこに創出しる。発想の転換,と言ったべきか?
A. 昔dreamingの語は見るの意味ではなかった。seeing, looking, watching.. そう言ってみても,自身の本質を明かしてはいない。そのうちpurviantとでもいうかもわからないが....[ 偶々“ 実見者 ”というような意味合いで言っている。 ]
Q. “dreamseeker”なんていう言い回しもあったね。
A. 小学校の教室で,わたしは窓席に座らされていた。わたしは紙ノート用に青いプラスティックの下敷き板を持っていたが,陽射し反射が映るので,わたしはそれをわたしの両手に曲げたり反らせたりしながら壁に映るそのあかりを面白がっていた。一見それは長方形反射ではなく,あの“広がる-かに星雲”の画像に似ていた。だが,そのときに深く考えたりはしなかった。
Q. そのときの意味..
A. (私は)そのときに憶わなかった。
Q. 以前“ パラレルな思考 ”だと述べていたのでは?
A. 以前みたいに記録に付けてみるのなら,見えてくる場合もある。“その場?”-言い返してみても,なにかと見過ごされてしまう.
Q. それより,いつも“ ぼんやり ”の状態であるかのように記していた。これには二重性の存在というべき?
A. “ぼんやり”が(夢見と)相反したのではない。単に意とが忘れられていれば,“パラレルな思考だった”かもしれないが,反面にかかれば,矛盾点に尽きるおそれも無くは無い。ある軸に対称しているのでなければ,論は成り立たない,特に“正論”側だとしたら,こちらの支持にとって,自分の不支持を取り立てている。
Q. だが,“無策”の原因だとは限らない。
A. どうしなくても憶い出されなかったなら,どうしても今すぐの重要ではなく,それだけだったから,あとで,そこから‘それって,なに?’といったような設問の-,起こらない。
Q. “ これは夢だよ ”とは一度も言わなかった。
A. これに質問する必要の.. 先ず,不意な表れといった見方だが,わたしはミスするとも言わなかった。“ぼんやり,”不作か無作為の状態にある,それらは対象化されない。
Q. こちらから‘ これは夢である ’と言う代わりに,例えば夢場面での正反対の表現みたいに,なんとかして言ってもらおう,としたら..?
A. 去年のうちに簡単な逆接的方法は示していたが,もし実践的に行うとしたら,先ず現実感を高める。これは“夢”であって,現実ではないから,夢見は逆接的行為だ。私が世間的な関わりの不要だと言ったので,すべてはこうして“夢”最中にあるのと同義だが,曖昧に現実視しているような状況-,例えば最近“U国の情勢”みているかのように,なんにでも“わたくし”と言っている。
(つづく)

2022-04-12: 予測をすべてに( 理論化する )

Q. 憶い出そうとするが-憶い出す自身を活性化できない?
A. 憶い出したいのなら,敢えてなにに関するとは言わなくてもいい,夢の表れが何であっても。記憶の中味にこだわったりすれば,それが具象物であるかのように見なされる。
Q. “夢”が憶い出したいとは言わなかった?
A. ある昼食に,わたしはカレー&コーヒーを食べようとして,これはカレー&コーヒーなのに,と思った。これはたとえだ。わたしがカレー&コーヒーを食べたかどうかはわからない。
Q. これはカレー&コーヒーと言ってしまったからだ。
A. 問題外だ。そこには“夢”が無い。
Q. 表面的には。けれども,同時に保持されている記憶には為っていない。
A. 今同時に保持されている記憶が,逆説的には“夢”ではない,と言えるか?
Q. “カレー&コーヒー”の記憶かもしれない。“カレー&コーヒーの夢見”というアイディアでは?
A. 一旦条件点けされたら,復帰する。ただし,その糸が保持されていなければ,こちらから“リコール”しなければならない。自動的再起するための意と,どのように可能か,を考えるのが先決だ。
Q. 無関心に対する関心はウソだから,“ 前以て関心とともにみる ”という若年の習慣的行動や自乗的な効果について,ここでは既に考慮できない。
A. 個々への関心といった問題ではない。固化しているかどうか-ではなくて,夢見の視点と夢見の視点以外になにが必要だといったのか,(この視点が)それら自体でないなら,なにの視れないなのか?
Q. むしろ“現実”のすべてに拠って夢見られているとしたら,(こちらの,前提的な)夢見の視点は難しいのでは?
A. 観念的な定義か。ぜんぶに反転したようにいうのとしたら,“現象”的ではあるよ。全部を,有機的に,ひとつの肉体であるかのようにいうなら。ただ,気温任せな,対処の無いものとして? 私が‘ 気体 ’のように視ようとしたときに,視覚的な印象にも違ったかの,ちょっと存在していたのかどうか-おもいだしかけたが.. ただ,ひと言のように.. だが,“空間”自体が私の夢見るか?
Q. このカレー&コーヒーという言い方が無かったから?

2022-04-14: 予測をすべてに( 理論化する )

Q. 私は夢見られている。
A. 私は“とり憑き”とは何だろうと不思議だった。例えば“素粒子”とは,宇宙という見かけ観察上の問題かもしれなかったように,“憑依”現象の実体も物理的ななにかの原因ではなかったら..
Q. ある心理的ヒストリーの無時系列的表出という認識でなければ,ある必要性自体との対面にはならない。
A. 夢の表れる過程には‘ 私の意識 ’とは言わなかった。“体外離脱”体験は逆の相だともいえるが,これといってドリーミングの原基なにかには至っていない。
Q. たとえば“射出すること”が,物理的な喪失や疲労と結びつけられた? そんなにくたびれてはいない筈なのに,骸骨みたようだといったりする。それがストレスでさえあるかもしれない。しかし,“離脱する”度に(すごく元気になる)という観念は彼には一度も起こらなかったのだろう。
A. 初めの単体となったあと,ずっと冷却されつつあるだけといった,絶対物的な法則に因っている。
Q. せっかく“夢見られている”といったばかりなのに。
A. 逆接的だ。まるで“私は夢見られたりできない”からだ。
Q. いったいどうしてそう言えたのか?という質問は別として。
A. “とり憑き”の問題は無意識的だ。意識的作業ではなくても,記憶的参照のあいだには同時に明晰夢見の意と起こらない,私は不明瞭ながらその点に気づいた。
Q. 明晰夢見の意とは記憶参照ではない?
A. 記憶的参照。
Q. 詰まり,非自動的な..
A. 自動的。
Q. 明晰夢見の意と自体が,なんとしなくても自動的には戻れない。そうではないとしたら,どうしてこちらから明瞭に辿ろうというのか? 明晰夢見の意と自体のコレクトコールを持ち得ないのだったら,どうやってなにと連繋できたのか?
A. 私は連繋できたとは言っていない。
Q. どうしていつ明晰夢見の意とはひとつの記憶になったのか?
A. どうしていつ明晰夢見の意とはひとつの記憶に成れるのか?というべきだろうか。
Q. ひとつの.. 仮にこれが過去との懸かる対面といった必然であったとしても( これらとの理性的問題視しないというのなら, )昔あの“夢見の注意力”といった者の方法には利があった。多分ひとつには“注意力による”というコンテクストのなにか,だが明晰夢見ではなかった。
A. これってなに?-無質問に,ぐっすりねむれるといったのか。これは“ 夢見の ”であって(その表面力の問題ではないところに)先ず同一性があったのだろう。単純なたとえとして言うなら,“臆面無しに水中に浸ろうとする-”あるいは“..気がついたら水中だった。”
覚醒と睡眠との間にアンカーを置くというやり方については,既に述べられている。例えば,胎児の姿勢で“夢”みたとしたら,次回また同一の姿勢で寝ればいい。
Q. 例の洞穴が要るということ?
A. 洞穴(ほらあな)のプロセス.. 熟睡のためにぴったりとした穴が必要だとしたら,それは“記憶参照”を必要とはしないだろう。
(つづく)