実際性の問題,動物反応(Q&A-18.)

(3)
Q: ..また欲求に呑まれている。
A: 足もと,見えないのにあっちへ急ごうとしたような。
Q: 囚われている。
A: それの望みだとは言わなかった。
Q: ..“ めいせきゆめみのじっせん ”といった表象,内的な実際性よりも外的な重要性を重んじた所為だ--といったのなら,それは現在ではないよ。
A: ティーザー自身の原因には遡及しなければいけない。言えば,昔ウィレムデフォーが演じたあのイエスのお話みたいな.. かつて処刑人だったサウルが,パウルと名乗って町でひとり説教のような言葉を発していた。あのイエスは十字架刑からなんでか助けられてあたかも普通の男のように家族持ちになっていたが,たまたま彼の辻説法に聞いて“それは私のだ!” パウルは“いや,違う,あんたじゃない”
Q: もし“大衆”の意味だと。
A: 有機的に一人称のお話として言うこともできたかもしれない。けれども,その展開の結果的には“ソーシャル”の問題にならざるを得なかった。あの彼は普通の老人となり旧弟子たちからも裏切り者だと言われた,あとで“わたしは救世主になりたい!”泣き言をいったのだが,それは彼のみた一瞬の夢だったのだろう。
Q: ..(夢のものを)精査しようと言いつつ,またも“おじいさん”で終わりか。
A: 頬杖の感触とともに休もうとしたのと同じことさ。だが,自身の物に喋りかけても,なにも得られなかった。私は“エッチ好み”の本質は違うと思った。それらは幼児の安心感みたいなところに在ったんじゃないか。
Q: 現在点から視ての,疑似的な“幼児期”という意味で言ったのでなければ。
A: “箱入り”という象意は遇った。
Q: “姿”みては一々くっつこうとしただけ,どうして調査しなければいけない。
A: たとえ反応する対象が遇ったとしても,明晰夢見の視点や理想にとっての障害ではない。生物である限り,空腹なら食べなければいけないし,それらに同一感といったのかどうか,ここでの問題ではない。動物の性を否定しようとするばかりに,足下は無くなる。
ある目的のために欲求の消化を目論もうとするなら,それは違う面として表れただろう。
Q: 無自覚のうちに起こった転換であれば,“勧誘”のような形になるかも。
A: 自己勧誘は擬装だったのさ。私の無意識には,自動化されたパターンの再生だった。
Q: 一所懸命にやれることが無ければ憂鬱だといったのなら,なんの本質とは言わない。“食べよう”としたので,“食べたい”といったのではない,と。
A: 食べるための言い訳,私の由来と,ここでの目的とを,混同する意味合いは無い。すべてに明晰であれたら,なにを要求した?
Q: なぜ,これは夢の場面だと言いながら退行したような振る舞いが当然化されている。
A: 生物の由来として言わないで人間-個人として言った。欲求の原因とは?判ってもいないのにただそれに乗ってしまう,そしたら死にかけている。動物としての満足は寿命で終わる。たとえ一瞬であっても,モノPの勝手なやり方に表したり労費していれば,明晰さよりも同一的な死を選んだわけだろう?
Q: それといって,単にZをはびこませるという言い訳も無い。
A: Pが動かされていたとしたら..
Q: Pは私物化するかもしれないが,Zはそれを駆逐しなければならない。
A: Pは周縁化できなかった。
Q: 分裂できない,認知不可なのなら。
A: 一極的な見方だったとしたら。..例えば,私に関連した情報が,長年私の反対側かのように言われていたとする。そんなこと本来ありえない。そこで私は外部との障害-問題だと見なそうとする。“すなわち,これは自動的な症状の問題だ。Pは周辺を代表しているのではないから”といったように。
Q: 自分らが,あるエネルギーの源泉だと主張したら。
A: 生物的には何らかの環境依存している。しかし,ここでの目的ではない。

(2)
A: ..観念的なラベリングの課題は最早ここでは無意味となった。私が毎回それに触れたかそれ自体の正体に見ようとした途端,“なにも無い.,”本当にそれは空であってイメージそれの対象としても視覚的な反映に過ぎなかったのか,それともひとつずつ由来に見ようと辿ったべきか。
Q: 普段に於いても解明するべき問題は常に手前,“向こうの可能性”といってしまえばそれは障害。
A: 観念的な印象物を持たないという態度は夢のそれを減じていった。だが,自己遺跡のようなものは記憶として表れるよりも,むしろ,ある反応のパターンであるかのようにおこる。ちょうど今日,ある夢の一部分に表れた“女の子グループ”に対して,どう反応したかの例が遭った。“女の子”のひとりはこちらに近づいて手を触れた。あとで私の“顎”に掴まれたかのように想起したが,無遠慮な手つきだった。
Q: 無遠慮な,顎に掴まれた,“勧誘”の例だね。また,“私”といっていた。
A: 私は立ち上がって“それは失礼な態度ですよ..,”あたかも,なにかに反応しただけの者が無意味だったように,それらは言わなかった。
Q: たとえば,独り笑いするような者が,一斉に振り返り視られる。-それは,慣例的な“ことわざ”のような,回された論理に過ぎない。

(1) “基本ベース”という間違い
A: ..(身体運動に拠って)ある筋肉に鍛えようとするよりも,先ずその部分の純粋な感覚に意識的になった方が良いという趣向が起こる。身体運動の負荷に変わった時,痛みに対して無感覚化してしまうおそれもある。無理に動かせるとしても,感じなくなる。これと同様に,情動や感情的な反応に際して,無感覚的であるという常態も,在り得る。
Q: “無視する”取り決めとの逆接的問題としていえば,それは必ず引っ繰り返される,という案件でもあった。
A: 無論に-何も感じるなと命じても,駄目だ。私が太字メモしたのは視点としての観察を必然とするためで,感情的な夢というなら同時に夢見の課題を憶い出せるだけの静的な努力か,常にセンシングしない点が確立できていない,なにも存在しない。夢かもしれないが,自動的な夢は夢自体を分からないから。
Q: 消極的な“何々されない”型では,わたしはやられない!という態度が,むしろ増幅させた。防衛の原因を一方に留めていた。
A: 他に依存しないで完全自発的であろうとするとき,現在の感覚は最大限となるだろう。夢の状態とは(いつも)半分眠っているような- 無論,これはメタファーだ。
Q: 前回それにも質問が起こっていたら。夢は夢自体を認知できないし,夢で“これは..”と直接示唆されたことも無かった,と言った。それと.. 身体感覚の利用については,若い時分の強かな感覚が有利だったと既に述べていた。..“女の子グループに顎を揺すられた”という,身体的な案件だったのかな。
A: 揺すってはいない。性的欲求の問題,身体的イメージは協力的に喚起されるものであって,記憶との特徴化された像など,それらは感覚的にも優勢であるかどうか? 私が有利だと言うのは(未だ自己分離していなければ)体験可能だからだ。仮に名前や姿で呼ばれるものが再利用されるだけの残像であるなら,アヴァター体験に未だ抵抗無い者にとっての-かもしれないが,私はやらないね。
それ以前の質問店,夢自体“これは夢だ”とは一度も教えなかった,本当かどうか? ..夢のキャラクターとしての表れが反対に“教えてくれないか?”といった形で私にヒントを示した例,私の憶い出せる限りでは,あれ一度きりだ。
Q: ニコラは“夢での照明について..”と言ったのだったね。
A: 私はあれ以来一度もそのような台詞では言われなかったと憶う。あたかも私の口で(ある状況に対して,不意に)“君たちは夢をみている”といったように言いかけたりは遇ったが,誰かや何かが示したのではなく,夢での状況や物品に視かけた処からの条件的-だったのだろう。あのとき照明の変化と言ったのはどういうわけか,わからないが..
Q: 動物的反応といったのか,初歩的な条件反射ばかりだ。まるでPのようだ。
(つづく)