あらゆる応じに対処しない

2022-10-01: “ 行き止まり ”の夢
朝,眠気のような疲労したような感覚と(空腹?)遇ったが,コーヒー淹れるには少し手間なので,なにも食べないで寝床についた。
おそらく無目的に町内道路のようなところを歩き回っていたのだろう.. ある通り抜けに(狭い通路)戸というよりは小さな板で完全に塞がれたような行き止まり(その縁にかわいた土か砂のようなものが固まっている。)“ しまった,民家の専用かな ”と,出ようとしたが,反対側もまったく同じ。一瞬“ 夢だ ”という意識に近いものは遇ったが( 閉じ込められた,不意打ちに )索も無かった。
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〔 昨夕,ストリートヴューで例の“ 行方不明少女 ”寺社周辺-河川堤防の間へと実写的に少しばかり視てみた( 少女がどの道を通ったのか-? )その途中,ある地点,まっすぐに通り抜けられると矢印してみたら,意外にも段差との行き当たりとみえたので,塞き止められたかのような印象だった。が,なんでかそのヴュー自体はそこを通り抜け可能であるかのように上側の道路へと続いた。
しかし,その意外な一瞬“ 行き止まり ”の印象だけが,夢に翻案されたのだろうか?
(以前,真夜中-朝方-自転車うんどうルートに,ある狭い暗い町内では道路と一軒用の入り込み口との紛らわしい箇所に,うっかり入りかけたりも遇った。)〕

飽きる(瞬間に)条件点ける( 対称的- )
[ ‘ 見入る ’に条件点けたときには,ある程度その効果として確認可能だった。しかし,‘ 飽きる ’について,なにかの意義や見止めるは無かった。
{ あるものたちが“ 匂い ”と称したような,分身との障害.. }
“あらゆる感情”との同一性無しに明晰点だけを扱えるかといった試みのように,興味関心との( 直接的な要求=夢同一には否定するという )第一である。
無論,このように条件化された用法の“ 逆接的 ”自体問題ではあったのだが.. ]

2022-10-02: “みているひと”
夢に判断できない状況というのは,たとえば(自己-無批判に)テレビみているのと同じ状態だと。そこには‘ 場 ’は無いか,身分けされている( 投映されていれば,ある“キャラクター”として観れる. )
自身に夢見るは可能だ。だから必然的に,これは夢だ(-夢か?)自身として,覚醒しつづけるだろう。

急な眠気とともに横たわった処,一瞬に道路際の斜めに下がったコンクリート面と排水溝側(升目の金属。)そこになにか液体が流れ込んだのを“もったいない”と思ったような。
〔 私の記憶には歩道との間にそのような傾斜度の排水溝-縁は無かった。昨夕も自転車で走りながら車道際のコンクリート部分を気にしてはいたが(-特に雨の時には.. ペットボトルやアルミ缶などの放置されてあるのを自転車安全通行タイヤのために私の足で踏んでは平らにしておくか植え込みに差しておく慣習なので,それらが白線内や自転車レーンに転がり出てこないようにと,路肩の造りに関して無意識的な要望の部分は遇ったかもしれない。)〕

2022-10-03:
眠気自体との体性として(夢見に)利用可能だったのかもしれない。眠気は避けられざる状態的なものだからだ。

2022-09-31:
右半身との“あいだ”は近まりつつある( ぬくもりは戻りつつある。 )

2022-09-29:
あらゆる応じに対処しない
( あたかも“この操り人形”を無関心に眺めている。

2022-09-28:
記憶に依る“杞憂”と,憂鬱にさせるものについての識見。

物象や事象ひとつひとつに関連( 夢見条件 )点けるという作業が比較的に有効だったのは,それらが観念的事物だったからだ。[これにとって]
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(あのQ&A式では)個々の事物は夢をみないというのが暫定的な結論だった。もし個々の事物がそれ自体で現れるとしたら,驚くべきことだ。

いつでも,これは夢であると憶い出すこと。

ミナミ-サヤさんの行方不明に関して私は当初例のおはなしに試みに“ 物証は4つある ”とだけ聞いた( -“キックスケーター,靴と靴下”のニュースされた日に。実際には6つ? たった今“ボードの裏に貼ってあるもの”と言っていた( キックスケーターのことではない? )..“防災用具を積んだトラック”?..
“野球キャップ型の帽子”に関しては今朝のあいだになにか気にさせるか注目は遇ったが,その時どこに-とは言わなかった。 )それも後時点からのニュース予知かもしれない。
身柄確保が可能だとしても( 物証を勝手に触ったり動かしたりしてはいけないのと同じで,その場で当人に訊ねなければいけないことが100はあるという。 )

2022-09-30: 逆説
“すいません,これはあなたの夢でしたか?

私は寝入らないで‘ みえる ’ものに注意を向けるというあのやり方に,留めなくなっていた。しかし,普段(覚醒時,敢えて寝床でのように)これを留めようとする方法も可能だと憶いだした。私は以前の‘夢見(ドリーミング)’からは離れていたのである。
ある一定の作業に長時間同じやり方でしつづけるのは無理だといったように,恒常的に‘ 気づきを保とう ’としつづけることが,慢性の(もはや意識的な対象化の機会ではなく)単に無感覚というべきに変わっていた。やはりも何事も適切にコントラストが無ければ難しいといったのだろう。

2022-10-04:
常に(発生的な)この場に‘ 夢だ。’