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現在 - nowness

[ 補遺 ] 原題: ぜんぶを夢だという;
( “ これは夢だ ”は消えたのか? )
前頁 -利用された夢-? :2025-10-24

/ 現在 - nowness

2025-11-08:
発出していたはずの‘ 夢見 ’自身を打ち消す環境とは無かったのに,なんで“やられた”か? ある要求自身の子として-?
.,“世界的認知”というのは食欲と同じさ。“夢”自身にやられている? .,やらされている-と言ってみても同じさ。二度死んでも意味にはならない。
それは“私”ではない。
-“私”はニセモノであった。今更に“私”自身としての参照点を持つ要件は無いね。
過去参照の問題であったとして?
..石畳に(ある)落ち葉を視て私はその種類を類推するがその幹には一度も判断してはいなかった。
その種類.,
..そうだ。 “ 君はいま夢を見ていないと- ”の1章目に対して私は即-不思議とは言わなかった。 “われわれが夢をみていると知っているのでなければいま現実に見ているのかどうか知れない- ” 簡単に言ってみればそういう意味。-が,. もし夢のみているのでなければ,一方に証明できない現実の取り巻きが遇った-といった前提に依っていた。 私が思ったのは,確実に知ろうとして知れないような“現実”を信じる前提的な意味が(その著者には)在ったのか? なぜこれらぜんぶ夢で,私は-夢を過ぎないと言えないか?
-そう言い切るだけの証明も宇宙存在のように不可能だと言おうか? しかし,この意味合いでは,これは夢だというとき,この“夢”に対して不可視の一方を別に設定する必要性も無い-と。
なんで“現実”ではない証明を要するのか私からはわからん-と言ったまでだ。 哲学者の論は論自体の重要性かもわからない,疑問は疑問自体であって,なにかを解明できるとは限らない。 ちょうど“夢”が夢自体によってあたかも外界的あらわれかのように私に向かってきたが( 他者からの不可思議な難癖つけみたいに, )私は“夢”を自己だと見切ろうとして一々記録にしるしただけで,なにも一度も“彼ら”の問題ではなかった,あのころ同然に。
,.なにかに振り向くための論理ではなかったのに,なにかが振り向いたかのように一々勝手なひとり言を世迷いにしてしまう--だとしたら,それには願望の働きであったという以外に無いのでは?
無論にも,その点に自己の解明という目的であったとしたら,夢見を超えるものは在り得ない。 “ 夢であるか? ”ではなく,これのなになのか明示するために..
単刀直入の筈が,皆に一斉へらんで傷つけられた., そう訴え返してみても解消しなかったのなら.,それ自体の作用影響していたのか,?
このまえ私の言った,すべて自己のこととして認知するとしたら,苦痛や負担のとってつもなく増大するおそれも遇ったので,私からこれらは夢見の視点に拠ってのみあかるみとなるので,一般的な“世界”という問題を受け付けるかどうかではなく,先ず“それら”が無為だった-と完全にいえるところからでなくては発達できない- [ ..これはあることについての不確証性の問題ではないし,私はそのように問うたりはしない。 初めにこれは夢なのだろうか?といったとき,予めすでに夢は現れているか現れようとしているのであって,“他との境界”として迫るのは単に何かを一実的にみるがために過ぎなかった。 なぜ“ 夢 ”と問うことが必要とされたのか-以前に。]

[ 以前 夢見の実践fに私の読書的ファイルとした,Cウィルソン著“ 超越意識の探求 ”に関した日記で,ウィルソン氏が作家プルーストの感じたという“(ある瞬間の)奇妙な不死性 ”について二重意識のこととして述べた一節;
..意識は突然われわれの中に湧き起こる奇妙な二重焦点の状態に到達することができる。同時に2つの場所を意識するという奇妙な能力のことだ。これこそが喜びの洪水をもたらし、その結果「自分が凡庸で、偶然的で、死ぬべきものであるとはもはや感じられなくなる」
;というのだが,もし,このときに存在するもの-全的な時間性みるのだとしたら,一点的焦点は在り得ない-という意味であろう。無論,原在としての体験なのだろうが,私として今回この日記に述べようとしたのは,未だ“この世界”といった時の(一方的な)存在性を解消し無くさなければいけない-という,鑑定的な話題に前後していた。.. 絶対的エネルギーは媒介物を要しない / 超越意識の探求 (2) / 夢見の実践f

夢見視点自体の発達できるのか?という質問は未だ無かった。
すべてに圧倒されるとしたらそれらばかりになってしまう。一見まともだが,先に私の記したようなことはなにもやっていない. いま立って歩けない?と-( 二度とは )歩けなかった。
いまこれは夢なのか?という質問自体に,無理があった?
そのような質問自体としての作用できない,不可能だった!  以前述べたのでは? “ いま,これは- ”というように言ったのなら,常に過去参照となってしまう.,
..予め“ 夢だ ”と条件点けられていた何らかの観念的事物や状況的場面との,ある再現に於いてのみ可能であった-と?
これは参照であり後述を過ぎなかった.,( まさに“アラーム依拠”のたとえとして述べたのと同時に. ) この点に追認したという意味合いにはなるし,これから次回に繋げる- 自乗効果だ。
そもそも“夢”自体に対してある論理の場と見なしたがゆえに,自由の能動性や動能的コントロールの機会を持とうとしなかったのなら..,
( “ある場”あるいは“その場所”といったように )参照的-条件との夢見に依ったか,そう意図しようと念じたわけだ。..“念じた”っていう簡単そうな語ひとつにも更に説明しなければいけなくなるが。 “ 憶い出せる ”としたらそれは印象的な記憶または追憶のイメージなので,これから条件化できる具体性があるとしたら,予め引きのばされた‘ 意 ’との自乗効果であるだろう。 ..能動的想像による“ イマジネーション ”が本当の自由といえるのかどうか,考える余地は大きいと思ったがね。

適用カテゴリー: これは夢です

2025-11-13: 忘れらる乍ら( 待てば爺 )

..未だひとつの質問に明確に答えられてはいなかった。 前回の,すべてのことは無為となったとき,夢見視点自体としての発達できるだろうか?
.,でき得ない? 先ずすべてに関する観心を持たない,-絶対条件といったべきだ。 たとえば“関心”の方向が一見外的に対象化されている。われわれはまわりにいちいちひっぱられているとは言わなかったように,“実際には-”と言っても言わなくしてみても,一視点であるから,もしこの視点に拠っているというように言えないのだとしたら,あたかもすべてが遭遇して(いまこのように)振り回している.
-“この視点”といったが,これが心理的な装置という意味でいわれるのなら,どのみち後天的意義づけに過ぎない?
しかしそのように質問している,夢見する視点の可動性? 発達できるかどうかと問うのだから,それ自体としての何かを以っている。-だが,ケガした赤ちゃんに向かって“元気になあれー”と言うのと何が違う?
かさぶたを引っぺがす側はストレスにならないが,その傷自体の治りは遅れるか痕になる-みたいな?
それ自体にメタファーだとは言わなかった..? [ 今回までの話題予定としてメモされていたうちのひとつは,“ 通路際で物品や他者を避けることについて ”であった。] すでに名称や役割が置かれていてそれらの幾つかは生活上無視し得ないものだ- ところが,好き嫌いのなにかでもなければ,便宜性に過ぎない。都合上のものはそればかり,もし-おもいだされる理由が遇ったとしたら,それら自体は無関係のことだ。
“どれも”.. “ おもいだされる理由が無かった ”としたら-
それらはたずねなかった。 但し,普通夢の(“夢”だとは見られていない夢の)状態自体には考慮が無い。未だにも足りていない。ながらテレビ視聴よりもひどい状態だ。
無論にも,“私”が夢側の一存か集中であって“実際には”存在しえない-というここまでの見方によるなら,( 代り夢見視点とするために, )“私”に観察するだけの方向転換としなければいけなかった?
単に反応するものとしての“私”だったのなら,これ自体として同一性を持ってみているうちにはこれの本質を見るのが不可能なので,“私”という同一視の作業を無為としなければいけない-とは言った( “他”の何かに代わるという意味ではない。) “私”を観察する..? マイ・シンセティカルといった協動的な一致の領域ではこれが難しい.
“私”に頼らないで夢見視点だけを生かしておくためには,“私”を通らないでも視点自体として有効である動機または仕掛けが必要だ。
..食べるときに今更“私の味わい”なんていわない,ベッドの軸が折れたとしても. たとえばも “通路際で物品や他者を避けなければいけない”のは大変なことさ。それらがひとつひとつの問題-障害であるというようには,とわれない。-だから“わたし”は生きられなくなった。 もし5年生までのあいだに“ 現在夢見の- ”という観点が在ったとしたら,もっとラッキーだとおもったのだろう( ..ストロベリーはベリーではなかった? ) しかし,それらの無為,それらの無意味であった。最早も無く,何かを証明できなければいけない問題でもない。自由であることは別ななにか等を原因とはしなかった。 ただ,ある通り路を行ったのが( それ自体の間違いかどうだったかではなく, )辿ろうとしたならそのように通る以上なかったところに遇ったのみ.

カテゴリー: 原理

2025-11-14: [ 未編集a ]

..以前“ 夢見の実践f ”に何頁かファイル収録してみたユング“ 現象の心理と病理 ”に( 自己検索してみたら面白そうだったので久しぶりに少し読みかけた )..“ エクスターゼ ”という語が遇った! そういえば-と,今一度現象自身という捉え方について思い直しだした。
....“ 発作 ”というアイディア?
先月“ 君はいま夢を見ていないとどうして言えるのか ”読みかけてすぐに私は以前Jヘイリーのあれを連想した。逆接的認知療法とでも言ったのだったか( ..これも“ 夢見の実践f ”に引用ファイルがあり - “ 戦略的心理療法 ” ) ひと言でいえば “ 私はいま夢を見ているのではない( これは夢ではない! )” ..敢えて宣言してみる, -なにもそんな問いなどしていないのだから,どうしてこれを“ 夢 ”だと言わなければいけないのか?という。
たしかにこう言ってみると有効な方法かもしれないし,一日中でもそうしていられるとしたら,一体これを“ 夢です ”断言できうるのか?
あれ?
..こんなことが現実に起こる筈は無いからこれは夢に違いない.. そういったごはんの食べ方みたいな慣習的な句ではない。
そうじゃなくて,これは夢ではない-と言わなかった,としたら-
うん。 夢ではないんだ。 “夢”の定義だね。
“夢”は本来バインダーを必要とはしないし,(夢見者にとって)何かしら同一的な目的との現われの筈だ。 動機理由が現在のものだとは見なされないかもしれないが( .,フロイト論などに読んでみた限りでは,ヒステリー系が“ 乖離した ”側とのやらせか潜在的自作自演ではないか?という見方は起こりうる。)そのような場合の“夢”の現われは本能的には正しく,サヴァイヴァルに適している。
-だからこそ,その機能としてきちんと動いていたのだとしたら,なんで反転-反応のような“彼ら”が発生したのかを説明できなければいけなかった。
このまえ言いかけたことだが( ,中心がこちらに在ったというのはおそらく誰しも思い込み信じ込みであって, )まったくの別人がこれらの中心だったかもしれない-という見方も私は否定し切れなかった。 このまえアンチエイジングの話題で触れたJミッテルドルフ著に,若者の血液によって老齢者の若返りが起こるという話が書かれてあった。 不明ながら,幾らか本当ではあったのかもしれない。これ以前にこのような話題が一度もテレビ放映されていないのも,ある意味“ ヴァムパイア ”伝説の類いが社会的には辿られないのと同じで,象徴的だ。
そんなのメタファーに過ぎない!といったような,. 恐怖反応では? 血を入れ換えろ-みたいな。
心的にはヒントとなる.. [ 先月以来,ある図書館から私は6冊限度まで借りていたので,次に予定したVラマクリシュナン著“ 老化と不死の謎に迫る( Why We Die: ,2024 )”を借りるために1冊返却しなければいけなかった。私は“ どんぐりの図鑑 ”を戻そうか-と思ったが,今回-次回の未だ視覚的に憶える余地が残っているようなので,例のBストラウド著を1章目だけなんとか読んで“あきらめた。”
- その“ Why We Die ”の第10章-後半,“ 並体結合 ”に関して,あるマウス実験では老いた血が若いマウスの記憶を阻害した等が少し述べられてある. あるいは,..若い個体との並体結合は炎症を引き起こす遺伝子の活動を抑えるのに対し,運動は加齢とともに低下する遺伝子の活動を増やした。またどちらも脳組織の成長を促進したが,刺激した細胞の種類は違っていた。
私は勿論“血液”とメタファーのこととして同時に精気的な影響という意味で‘ 心的な- ’と言ったのである。]

タナカカネさんにとっての“コカコーラ”がどんなものだったのか?の方が面白そうだけど。
食べ物にも知的な吸収にもなるべく新鮮でかわいいものを-というのが実質的だろう? 歳とともに古いものを採るなんて理に適わないよ。
夢自体は理解しないだろう。 選び取れるのはヒトの頭だから。 “ わたしは..これこれの理由でこうした.. ” そう信じていられる限り。 -しかし,“現象”自身であるとしたら,どうして見分ける?
二重に見分けようとしたなら,おそらく転移(反転)しているのに気づかない状況がおこる. 単に“彼女は,彼は”といった相の表面的性格を越えてしまう. ある意識的な状況だ-とは言えるかもしれないが., それ自身として行なったり言ったりする“夢”の状態だ。