自発性と能動イメージ( 記憶と反復 )

2024-03-08: 記憶と反復
..たとえば,あるアーノルドミンデル名の著書では,いっとき称してフラートと,“ なにかちょっと気にかけさせるような感じ ”に注意を向ける喚起していた。
しかし,それは“ なにか忘れられている重要なこと ”という認知的な問題か,記憶との障害に近いものかもしれない。大層に言えば,“ 潜在的に ”読もうとした古代心理系の者には,先ず発掘されなければいけない遺跡のような,覗い知れざるものであった( 答えはそこに? )
あるカレーライスといったような“好み”は,時々刻々の肉体的需要を無視するか間違わせている. 私はそういった走りによる“喰い方”をやめた。
無論にも,“今これが必然なのに別の物で代用しなければいけない”状況は当然だろう,身体保守的でないか死んでしまったのでないなら。
なぜ自発的でなければならないか?という質問であるとしたら,そこからは起こらない。どうして“夢”に意識的でいられようかといった-状態そのものかのように。

2024-03-07:
..時折(あるいは常に)なにか直前に偶々持った印象のようなものが,その直後なにか想いうかべられたイメージに“合成”されたかのようだ(-すなわち,綴り変わった)違うものにみえたり.. -だから,それらは一見に私の見慣れた物や光景ではなく,それ自体の像として表れたかのようだ。
それだが,“夢”のイメージといったものがそんな風体によっているとは決めつけられない。能動的に“想いうかべてみよう”というときには,既製の記憶に基づいてなにか忠実精巧に“みれる”程に,“ 夢みる力 ”が在る-というようにも思われるわけだから..
私は“投射している”とは自認できなかった-が,それは殆んど常に(日常に)維持されていないとしたら,一々不慣れで見憶えの無い(,それとも無く,)意味のはじめに戻ったのだろう。
“完全さ”といおうとしたなら,初めであり終わりである-と-いわざるをえない。たとえにも“-自身”に完璧であるかどうかといった問題は,ある希望の正当性であって,それが“夢”として表われるとしたら,今の現実として機能しているのではなく,なにかしら願望の行く先,あるいは別の形で,表現されなければならない-と。
-これ,これは無くてはならないものだ。第一道具の重要性は論だった。それがこれの道であるとき,こことそこには活路がある-というわけだ。すべてに通じる道といっても-同じだ。 -それらであれるのか? ( すでにあったものをさがしもとめている. )
..ある食品の粉末をアルコールと水に浸して瓶に,少しずつ乾燥させるつもりで,窓際に置いてあった。その中味は少しずつ詰まってきたのだが,今しばらく軟らかくて水の染み出していた。その瓶から取り出すには未だ早過ぎる。そして,その瓶ごと(あたかも私の手で傾けてみた瞬間のように,)それ自体の傾いだイメージとしてみえたのだが,その底の端が下面に当たったか,その中味ではなくそのガラス瓶の方がたわんだかのように底面から軟体状に波打った。
その“合成”は直前-直後の混同というよりは(もしその軟体の揺れが想像されて-そこから“落っこちたガラス瓶”という想定に対して心象的に働いた機制でなかったのなら,)その中味と容器との“綴り替え”かもしれない。
機制というのなら,現時点だけの観察によっている。その現象の動き自体,まえとあとに現れたものであって( 以前の論理どれかは忘れられているか-このときには憶い出されない )それだから,不可解な“夢”の論理だ-という見方に依っているのかも?
..従来ここでは“自動的な(夢の論理)”という語に甘んじてきた。

メモ:
現実,これらはイメージされたものか?という質問は当然おこる。]

2024-03-08-(2):
夜,乾燥した玉ネギ皮の何枚かを重ねては一々ハサミで細断しながら( 食事のミネラル補助など用に,振りかけ粉状にしてある。乾燥ワカメ程度なら手動の調節可能コーヒーミルで細片にできるが,玉ネギ皮は薄すぎて挽けない,少しずつそのようにカットしたものを小瓶に置いてある。)そのあいだ,今夕路上の女子などがまたなにか私に際してひとこと言いたいのか振りをしていたのかと,あとで自身に問いかけては非論理化しようとこころみていた。
[ ..“私自身”にも非同一化することはできる--だが,どうやって? これまで記してみたように,否定すればそれは“夢”の形で一方に露われる( 否定する私に,仮の姿で.) -執心がある? “私自身”に求めたのを,“他”にみたかのように“あの私自身”とは見れなかった。..それ自身であったとは?
あの自転車でのいきかけに,私は意識的のきっかけのために(なにか通行者などの姿が遇ったりする度に,)それ“客観的”と言い,身体的か動きのみには“主観的”と言ってみた( 身体的には,“主体的”-“客体的” )
-だが,もっとハードになったのは( そのような“自他”とに持たなかったあいだには, )先ずそれらをきっかけにできなかったからだ。本当の孤独というものがあるとしたら,これには意識化されない( 逆接も無い。それとも無意識なみいってしまうなら,これらも不可能だ。)“私”は未だこれとして再条件化の機を持てないでいた。
-これ“主観的”と言うとき,この主体的という持ち方は身体的であれば容易だ-が,そこここと身体的に持たれたものを従来否定しながら同時に戻るのは困難である。]
-しかし,夢場面での“私(あの姿)”も振り向きに笑みかけたじゃないか。このまえあの夢に関してメモしたときには連想しなかったが.,以前あの“(自覚)夢”で,私はお喋り芸人の独り言を一度も受けなかったのに,そのあと来た男の“微笑み”は反応的だった。
いや,風呂場にいた“あの姿”にも私は応じはしなかった。
私は..あの“姿”に想いうかべてみた。そして,あたかもその振り向いたところに,“いや,(私は)知らんよ”と平然と言ってみた。-すると,一瞬に“それ”は脱け殻の皮一枚みたいに落ち垂れた.
( 下面に?)

2024-04-02: とりつくしま( 予前のための私-メモ;)

..記憶性の反芻に依る“欲求”は--古い時間に囚われている。-だから,プロ-ジェクテッドではなく,プリ-ジェクティヴでなければならない。
自発夢の意味だ。
..“明晰夢見”といったのは既製の現象的な表れに際して視点者がどうするのか?の問題- “ある不明な夢”に対してこちらの観察的作為が及ぶかどうか,..それらの原点は?解明しなければならない。
一々解明しようのことは,ある意味,楽ちんだった。たとえば他人事に私はこのように見てこちら本意に言ったりする,ある事に向かって言い訳する,好き嫌い勝手に“できる”というのが,夢見の目的だとしたら,なにも自発的であろう必然は無いだろうから。 親から与えられたもの,“いやいや,うんうん”いうだけの子どもなら,全てに同じことで.,常に根拠は“ 自分 ”あって,既製のものたち,存在自体それらに依っているが..,
私は既に“他人”は存在しないと思っている。一々引っ掛かるとしたら--自身だろうし,ハンガー無いなら掛からない。だれか-なんか-振り向かせたがる? 絶対にそんなわけある。 ..ある少年たち,あたかもその年頃みたいな振るまいと自動コピーしたかのような,その後のひとには無意味な繰り返しだった( わたし自身そんなふうかもしれなかったように. )
私は“プロ-”だとは言わなかった。“夢見の実践”自体であることには一定の継続性があった。これ自体の支えだった。-だが,発表すること自体の本質は私個人の内的活用を逸してはならない,なぜなら反転してしまう., メディア依存を持つならば,それ自体に依拠しなければいけなくなる。謂わば,“かれら”の目的なってしまう。
同一しないのが第二条件の第一となる。
夢発の自身ではない-という意味なら..
“夢の文脈”.. 一時それらが不可分だったもので(自己の論理として)先ず観察眼よりも“文脈自体”という論理の筋道はそれ自体を正当化している, “Yes!”といえば(その中に)“No.”は無い-といったように..
出来ないことをやるのは“可能”であるように,先勢しているヒストリーに対して改良したり書き更えたりする機会は先ず起こらない。それらは通常の“夢”であって,普段の,慣例的なあらわれの“現実”に服従しているのみ( -自身なら, )目覚める必要も無い。
すべてにうなづくか否定するか,あるいは無視する.,それらは性差に基づくのと同じな,男か女か,どのカラーなのか,このひとはK大統領なのかH総統なのか,他者という側面について言われるそんな“ゆえん”のもとと,未だ同一視されているかもしれない。それらは古い“夢の文脈”なのであって,夢見への理論とは成り得ない。
記憶性の反芻に依る“欲求”は--古い時間に囚われている。-だから,プロ-ジェクテッドではなく,プリ-ジェクティヴでなければならない。
自発夢の意味だ。