無音

2024-07-26:
..私が一々に反応を“示さない”ことだった。もし-他者に面してなんらかの偶像的な“もの”が付与されていたとすると,当然“ 非難 ”おこった( 先ず自己とのレヴェルで。) -無意識層な私に向けられたかの“ おカま ”呼ばわり,単に理知的ではない側の観念-同一化した対象的ものは,先ず受けつけられなかった( -だから,“私の本能”というような扱いにはならなかったのだが, )これを私に向けて言ったりした者は,むしろセンシングされていたわけだ( -私の一体的な捉え方では。)
単純な嫌悪といったものが,仮にそのような影響化に因っていて,“私の信念”とさえ唱えられるとしたら,“夢”はこれを覆し得るだろうか?

“嫌悪”に関する既述;
2024-01-10 / 実相と外観( 関連カテゴリー:右に戻る
2023-03-25 / Q&Aの終り( 関連カテゴリー:同一化?

2024-07-27:
“ 試合 ”を面白がる者たち,. なんのことか分った。 もし-現人類以上の高度な知性体が在ったなら.. あたかも“ 勝ち負け ”いうものたちのあの騒ぎ声に,“ ×の惑星 ”時代( ある類人期の- )と言ったのでは。 テレビ食事や比較ばかりの“ 世界 ”だとすると,“地球は取り敢えず自殺しかけている”?

..早朝,ある場所でガガイモの葉を見かけたので何枚か摘まんでみた。私の手に持ったそれらを視たところ,いつのまにか青っぽい粘液のようなものがどの葉にも点々と付着していた( 想い戻してみたら,あたかも,その一瞬“あく夢”の場面かのような-? そう言えば,初回ガガイモ葉を歩道際から持ち帰ったときに,ついその一枚の端を少しだけ生でかじってみたのだが,意外にも甘く感じられた。)状態の良いスベリヒユ一束だけ,なんでかマンネングサの間から生えている一寸不思議な箇所もあった。それよりも,案外毎日のように隙間路地にザクロソウの生えているのが見つかって面白かった( 路面際-葉の濃緑で,なめし皮革のような触感なので,気分よかった。)初回その上部に“ハゼラン”と間違って呼んだが,後日ロゼット写真と一致するハゼランの葉も歩道上に採取できた。
一瞬-暗い蝶のようにみえるトンボのような形の(羽根は透けておらず真っ暗い)変なものみたような印象だが,前回もその辺で飛んでいたのか,なにか特定の植物に惹かれるのかもしれない。( “おはなし”は,私がヤマノイモを採取しようとしているときその前方に黒い影のようなひとが現れてみている-と言った。 その瞬間イメージとしては( その真横から視たような絵で, )私が路面側から密な草生えに向かって近づいたところ,不意に,私のすぐ前に黒っぽいなにかが私の動きをトレースしたかのようにかがみかけている.. “私”が? )
“トンボ”のことは,その前回植物に見て回ったりしているあいだ実際に黒っぽい蝶が動いていたという記憶と心象的に関連したのだろう。

..自転車での行き来の再中-どこからか遠い歓声のような“笑い声”響いたようにきこえた。私は空耳か天上からの自然現象だろうか?と不思議で(ゆえにか)私が現に笑われているというあの意識にはならなかった。その先で通りの向こうに,ある町内祭りの光景,一瞬なにか幻想のようにみえた。

2024-07-29:
..一杯のグラスに充分な量のポリフェノールがあるのがみえた。..直後,この両手首のあたりに懐かしいあの“気”のような感覚があった。それは一見対象的に感じられるものであるかのようだった-が( “私”がここに発したものである如く, )自然に増幅しうるこれ自体として..
[ 私は拒否させられていたのだろうか? 体外的に? しかし,私は私自身のマスターだった。]
私の最早に,“対立”も“生き急ぎ”の焦りも無かった。 先週,ある夕方あのドラッグストアーに,ある商品の日付を見ようと私は立ち寄ったとき,その店舗に入る瞬間からなんの構えも無く私は自然に一礼していた。..通路で他の若い男性客などもこちらと普通そうに(あたかも同じように)一礼した。
[ 私が足早にスーパーマーケットの食品売り場をチェックしなければいけなかった時には,逆にカート運びの男子従業員などに乱暴そうに突っ切られたりすることが非情に多かった- 私にとっては常に真刻な“間違い”だった。]

..今朝,時間的にも体調的にも障害は無かったが,気が出かけなかった。“今日あの道草の続きに行けば明日の分は無くなる”からだろうか.. ひとめを気に掛けることも無かったが( 昨日真横から眺めるといった絵は,おそらく擬似的な話法みたいなもので,私には無い。 これは自身とのアピールの問題ではなく健康上のことだから- )
“予感”を見切らないまま出かければ( たとえにも路上少年らのゲラゲラ笑いを避けられたかもしれなかったように,強制的な“予定変更”に対する私自身の失敗感が一方に招いた-という見方も? )なんらかのミステイク自身と- そんなにも“他”のものに出ることが大事であった-と。

..道草を食うようになってから,鶏卵食の頻度が1週間4個分くらいに戻っていた( 10才以前のような? )上半身の痩せ過ぎ,今日まったく動こうという気も起らなかった。テレビニュースに,真っ昼間路上で汗まみれの頭部を覆いもしないで立っている歩行者の姿が映されていて,私は画面に向かって“常に日陰に入るか,きちんと白い覆いか何かで頭を遮光なさい!”と言いかけていた。 -自分? 私は午前か夕方自転車で行くときにも必ず最少間隔で陰に入れるような通りを殆んど自動的に選べるようになった( いつも“ひとどおり”や視線の避け方ばかりで,反対に身体の不全自身?言うべきであった。)

私の左半身と右半身との時間位相的な“ずれ”には慎重な解析が必然だった。
互いに分離した左-右の役割は時計回りの体勢として優劣を付けられていた( 私は何年間もこの右側に左側と同等または一致するような意とを本気で持とうとはしなかった。)
今週,“右眼”付近の痛み,身体自身との動きにくさに,“減退感”とも思われたが,今度は右本意に動かしてみよう( この右自身として一致的に動かしてみたらどうなるか- )といった私のこころみが,次の徴候となってあらわれたのかもしれない。
[ 私がこう記した処,今おはなしはこれを“ トカマク(-式の核融合 )”とたとえた。 うまくいっている-と言えるか。]
-都合上の“待ち受け”と完全な自発とのために,未だ‘ まぼろしの中心点 ’ 達していない。

2024-08-01:
“しなせようとするせいりょく” うらむばかり-単純であった。あたかも,だれも本当に“爆食”誘ったりすることはできないように,“精神的破滅の可能性” 自身の不可能としていた( あるいは,赤ちゃんやお猿のようにではなく( “あのソフトクリームが食べたがる”-? 私は“食べたい”という言い方をテレビにも試合にも生半可に信用しなくなった。ある味わいの繰り返しだけを“食欲”といったなら,すでに依存症-糖尿病のきけんに違いない。)人為的-人工的な“爆進”や“爆食”も有り得るかもしれないが,それでは自然寿命は先取される一方だろう。)

これ自体が過去であるなら,常にはできない。
もう一方を明晰夢見に保つ。

..私は言語的に保たれていた意識を離れて意と的に沈潜してみた。
-私は記述しないでも気がつける。
常に目先に夢だと気づきつづけるセット可能だ。
意とよりも“何か”にとらわれるとしたら待ち受け同然,夢見は遠ざかってしまう。

2024-08-03:
..昨夜,閉館時間まえ,県図書館のらせん階段を一段とばしで上がれなくなっていた。?これは疲労ではない,栄養不足であろうか? その朝方,イネ科-スズメノヒエの一種,それら上部でY字に分かれた穂の紫色がかった種子等になっているものを一々手でしごいては袋に集めてみた。カップ一杯分にも満たない。一応フライパンで炒ってコーヒーミルで少しだけ最小粉状に下ろしてみたが,やっぱり硬い。あるところに一見スベリヒユの変種みたいな( 一本ずつマンネングサのあれみたいに立っていて,茎色も葉の形もスベリヒユそっくりなのだが,葉どれも茎に直接添ったか寝たように閉じていた。いくつか摘んではみたものの,ヨモギをもっと苦くしたかのように口内にかなり苦みが残ってどうしようもなかった( それらの間に少しずつ茎の分岐したスベリヒユに近い形のものもあったので,同時に茹でて陽に曝してみた。山形では天日干しスベリヒユを再び煮て食べるひともあるそうだ。)昼間38度Cのあいだにカラカラに乾いた食感のお菓子みたいになったが,まだ酸っぱさがあった。)-それらのどれかが神経麻痺の成分かなにか含んでいたんじゃないだろうか?とも思った。
..“道-草”に関して,前回: 2024-06-29 / もとのき
[ これの前日ちょうど“ タチスベリヒユ ”に関して簡単に検索ヒット内容で読んでみた。そしたら,今日(2024-08-04,)この日記への補足更新のために行くあいだに,ある歩道上にスベリヒユ数株を見かけたのだが,なんでかそれらのどれも低い放射状に開いた通常のスベリヒユと思われるものの各中央にだけ,写真でみたタチスベリヒユのような形に茎何本か立っていて(まさにその上部が大きめの葉,)しかもその立っている中央部分の葉だけが点々と白っぽい病虫害かなにかに冒されたかのように斑点状であった。]

草取りについて書いていてちょうどひとつ想い出した。 朝,種子集めのあいだ私はその草むらに片足バランスで踏み込んだりしていたので(横向きに私の手を伸ばしては穂を選んでいた)体勢に負担となって不意に右腰に痛みを覚えた。おそらく,体の神経に良くなかったのだろう,昔アルバイト場所で硬い折り畳み椅子に掛けたまま物品の検査のために右左へと上体だけを傾げながら動かしていた直後.,余りに腰の痛みで私は立ち上がるのも難しかった-と憶いだされた。
-そう言えば,昨夕自転車で行く直前いつものように私のバッグを腰に巻きつけようとして右腰後ろになにか当たったような感触もあった。そのときには衣類や下着の部分とベルトとの締まりだろうか-と偶然のようだった。
[ ..行きの自転車では私は気づかなかったが,むしろ( 私が観念運動的な持ち方をやめたので, )身体的に強制できるようなことも無くなったのだろう-と,心理本意にみていた。]

今朝,鏡に肋骨の浮き出し具合(スキニー)を視認してみていたとき,私の顔面,額の左から右へと凹凸の傾いているようにみえた。その瞬間,私はこう了解した。以前,私は右眉の上側に一過性の“刻み”が表れるのは右眼球まわりの筋肉を器用に動かせないからだ-というように思っていた。いつだったか“顔面研究”の時,例の江連さんのスキンケア本では“ 眼球下垂 ”という簡単そうなワードでわずかに暗示されていたばかりに,ここでは自ら考えにくかった。 私はその部分-額の筋肉自体を動かせるとは一度も思っていなかった。

食習慣の未来 :2024-08-23 / 顔面研究-2(健康用)

以前“ 無音 ”タイトルでの日記( カテゴリー: 右側を動かす+ / 2019-05-19, )
関連カテゴリー: 観念
右側の動かなさ+