もとのき

半非表示(予定-?)日記;

2024-06-29: もとのき
..前夜のうち,久しぶりな自動的イメージ遇った。道路際にみたどこかの宅-特徴的な(その路上ぎりぎりに壁面-そのこちら向き角,内側直角に-)狭い入り口と玄関戸のようなもの。 私の記憶には無かった光景なのに,なにか(その場所との)懐かしさみたいな?

..一昨日,風邪気味のような体調で気味のわるい程に眠気も酷くどうしようも無かった。私は風邪の為だろうと思ったが( なんでかおはなしは否定していた, )却ってなにかが戻りつつあったのかもしれない。

[ 不図 “食べてはいけなかった雑草”のあれだろうか?( 去年いっぺんに顔が老けはじめたころ,おそらく路上の古すぎるスベリヒユを油くさいと言いながら無理に何束も食った所為だろうと思い込んだ時期も遇った. 滑莧, Portulaca oleacea L. )そう言えば,ここ数年,一度も新しいスベリヒユの放射状みかけなく,歩道上では昨年以前のものだろう一束だけだった。先日“駄夢”に記したあの休業開店バローとの交差点際に,飲食店か何かあって( 先週,図書館との行き来に )そのコンクリート面に久しぶりなスベリヒユだ!とみかけてアカカタバミとともに小さく採取したのだが,食べたあとで再び図鑑に写真と特徴参照したら,どうやらコニシキソウと間違えていた( もうスベリヒユの葉など付き方の絵として憶い出せなかった-? )ごく小さい上に赤斑点も無かったし,茎もニシキソウ程には赤っぽくなかったので( Chamaesyce humifusa -?)-ヒユの方だと思いすましたのである。次回あの場所に通りかかって赤信号のあいだに見たところ,本当にいつのまにか葉に赤紫色斑点の付いたコニシキソウがひとつ生えていた。てっきり“カレー&ハンバーグだ-と食べたものが,はんぺいの味噌煮込みだった”かのように,あのとき欲しかったものを言ったに過ぎない。-だが,仮に生食したとしても,本には“風邪のような症状”とは書かれていない。]

..元のが戻ったかのような瞬間も今日何度かあった。

[ 前日,いつも通りの帰り道に,おはなしが“あっちの方がいい”と41号線方向をいったようなので,少し西へと移ってみた。北区への下り口に近く,車道沿石と歩道ガードとのあいだにドクダミの葉ばかり生えた個所もあった。乾燥させてお茶のように煎じてゆっくり飲むのならいいかもしれないが,食指は動かなかった。]

昨日,“生命的のタイムスケールを加速しない”という思いつき( 生を“先取しない”と言ったときから,再度といったべきか。)食事や“自分”の持ち方に限らず,なんにでも生のスケールを圧縮してしまうなら,総体時間的には短縮される-という理屈だ。
生物本能本位であれば機能的には高まるかもしれない( 一方,“食べすぎ,やりすぎ”とは心理的な問題に過ぎない-という見方。-フル動員か過剰な使われ方では先ず余裕が無くなる,もし“余裕”が根本であるとしたら,時間と不安とに苛まれる. 先ず自律のための強制ではないからだ。)
-記憶に依らず,先取もしない。

私は自身に“身体的想像”を持てなくなった。
“すべてはただそこにあるだけ(そればかり)”だとしたら,私の触れる理由にはならない。否応無しに投影させられたものが( たとえば“彼ら”のようなかたちとして,私がそれらに自己像と認める筋合いも無いのに, )一々反応を催したのだとしても,私の要求ではなかった。私の元来理想はひとつきりの夢見だったのであり,私-自身に“集団化”を望んだわけではなかった。
[ 先週 “これからは部隊員たちが(これのために)働いてくれる”というのが解決的反転のタームであった。“精霊の働き”といったときのように,これは応急措置的なこころみだ。もし-私が多数的な“受け”を否応無く持たされる状況だったとしたなら,この“集団的”扱いとなったものの元素を私自身にとっての前進的な味方として(状況そのものへの直接的効果となるよう)一転しなければいけない-という意味だ。 個人的状況としての方向が多数的な反面を差すのなら,一理由の多面的方向でなければ無意味だからだ。
-単なる言い返しに過ぎない問題としてそれとの明晰化に望まなければいけない状態だとしたら,ある明晰夢研究者も述べかけたように,自身の矢を追うのは馬鹿げている。 あたかも? ある“ムード音楽”やこれらの話題が,( ぜんぶ“自分”だったのなら,致し方も無かった-と )一度も本質的こころみでなかった. ]

[ 翌日(日曜日,)県図書館へと返却-貸し出しに行ったその帰り道,名城公園北側の上り下り面に近いその東側,新しいスポーツ施設か何か造られたその裏側-空き地の一隅に,ヤマゴボウの特徴的な実などの縦軸に着いた植物が一本だけ生えていた( Phytolacca esculenta ?-図鑑等ではヨウシュヤマゴボウの花序は直立しないようなので. )その果実等は半ば薄緑がかったままで未だその全部に変色しきってはいなかった。ちょうどその更地のフェンスに囲われたすぐ内側なので,子どもの興味半分に触れたりするも無さそうだった。
“一本だけ”と言えば,あのニシキソウの交差点との付近,別の飲食店との道路際にブロック囲いされた(小石の欠片等で敷かれてあるだけの)小さな間隔- ある晩そこに視かけたら,そのなんの雑草も無かったような欠片等と,なんでかあきらかにハハコグサ一本だけ( Gnaphalium affine D. Don )生えていた。そのとき偶然であって不思議とは思わなかった-が,後日“ 見分けの-図鑑 ”に偶々ひらいてみたら,“ハハコグサ”の茎は根元から何本も分かれて立つ-と書かれてあった! 舗道上みかけたウラジロチチコグサ系には,その緑色のロゼットに(毎回めくって見なくても“裏白だ”と判るのに,)わざわざ指先で一枚めくってみたりする。-“チチコグサ(父子草)”といっても路上ではどれがどの図示された種類なのか,ちっとも判然としなかった( 集合的で目立たないそれらほど枯れたようにみえた. )]

2024-07-07:
..あれからヤマゴボウかその一種のような植物ひとつずつ,清水5の交番前と杉村1のコンビニ駐車場角側(歩道上-電柱前に,なんでか一本だけ変に大きな雑草みたいなものが育つ箇所が遇った。)どちらも実などの付く白っぽい部分は4cm程度で,それからあれみたいに大きくなるのかどうか判らない。( わたしのような不用意な小学生が摘んでかじろうとするおそれもあるかもしれない。昔“スイートピーだ”と名付けては散策路沿いに花蜜なんか吸ったりしていた.,このまえ“毒草”に関する本に載っていた写真にシャクナゲ類として書かれてあった一枚がそれのピンクい方と似ていた。スイートピーなど観葉植物には家畜等との中毒事故が報告されていたという。)
ヤブガラシの若芽部分やアカメガシワの葉など路上採取してみた( 茹で始めてすぐにアカメガシワはカタバミみたいに変色した。一般的“アク抜き”には経験的な記述ばかりなので得手にならない。できるだけ化学的原理に拠る説明からがいい。)

“宇宙に起こることはヨソゴトで,私とは関係無い” ?

昨夕,私は気づかなかったが,あとからの“予告”と思われる( 心象的な捉え方での- )イメージひとつ遇った。
私は雑草を手順良く処理しようとこころみながら同時に他に関したかのようなおはなしを一々面倒臭くても言い直そうと整理していた。その瞬間,ある女の子が刃物か何かを両手に握ってその自身の胸に突き立てる- “こうです,” 半ば像的な絵のようでもあった。? 私は脈絡わからなかったので,なにか-自殺します-といった意味だ( それには抵抗や訴えといったような含意は感じられなかった。)
..そのあと,室内-テレビ画面に放映中だった“ 燃えよドラゴン ”の一場面か,チャイナドレス姿の婦人ひとりが(なんでか)割れたプラスティック板のような物を両手に,その自身の胸に突くというシーンだった。
その絵はなんの心象的な理由にもならなかった。例えばジョンサクソンがローマのコロッセウムみたいな遺跡で(柔道着だったか?)現れる絵が,たぶんドキュメンタリー番組の映画紹介部分に放映された時のイメージとして,あとの時点で二重に再現されたことも偶った。-だが,あの場面自体の記憶との連想であったと仮定するなら,私では憶い出せない程むかしの視聴だったに違いない( 私は今週ブルースリー作品の連夜放送予定には知っていた。 私は昨夕そのあと少し視てみたが,見覚えのあった絵は,やはりブルースの伝記番組か何かに遇った,ハイジャンプ蹴りからのスローモーション絵だけだった。)しかしこれもその無意味さに反して予めこちらへのイメージとして現象したのは(私にとって順序の理由にならないので)不可思議だ。

2024-07-08:
..近所の堤防にスペアミント何束か生えていた所を知っていたので,今晩ついでに寄ってみたら,その辺まるごと芝刈りされたあとで,無くなっていた。6月前半,さがし始めた最初夕方に,その河川敷側の通路際ですぐにノビルの白玉付き( Allium grayi Regel. その時まだムカゴ等の間から花が出ている小さめのものもいくつか, )ナヨクサフジの数本から花など採取できたのはビギナーズラックだったのか。このまえ街路でシソとは別に“あきらかなシソ科”だと思って摘んで茹でにしてみた何葉か( 直後ちょうど花期で一斉に2色輪状の花があちこちに目立っていた。観用植物などのページに画像で探してみた処,クマツヅラ科のランタナだと判った。たぶん“これシソかミントですよね”と葉を渡してみたら殆んどのひとが匂いを嗅いでかじってしまう? )そのあと両手両腕の肌が刺激されたかのようにピリピリとしてきたものの,それと同時に触れた植物等いくつかあって,ランタナの所為かどうかは判らなかった。

昨朝CS放送の無料デーで“ ピカード ”の最終話が視れたのはラッキーだった( わたしの事前おはなしは感心しないようだった-が,“ ひとつだけ(見所が)ある,瞑想.. ”と言っていた。)
あたかもウィリアムシャトナーとの共演だった“ ザ・ネクストジェネレーションズ ”でのピカードのあのひとり夢-場面から,心理学的に継承されたかのように,あの“データ”との終りに際する年老いた彼の“夢”といった言い方が遇ったのは,久しぶりにありがたかった。それから,そのエンドクレジットすぐに“タムリントミタ”の名が表示されて私はハッとしたように,数十年分のエッセンスとの偶然みたいだった( あとで,つと,これを視れなかったひとたちのことを想われた。)
..“ マトリックス ”最終章も視れるときがあるのかどうか,たずねてみた( タイトル憶い出せない..“リコレクションズ ..リポゼッションズ” ?なんのこと。) 来年? 昨日予感どおり-“次の風邪”本当に来るのか-わからないが,“視れないひとがかなりいる”..